Special Contents Part II

対談:井上夢人×我孫子武丸

インターネット小説の冒険

(文藝春秋「本の話」1998年10月号より転載)


井上夢人さんがインターネット上で連載中のハイパーテキスト小説『99人の最終電車』が、いよいよ佳境に入っている。同じミステリ作家でパソコンやゲームにも詳しい我孫子武丸さんと、『99人――』を中心に小説とコンピュータあるいはニューメディアといったテーマで語り合ってもらった。

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我孫子 連載を始められてから、もう2年数カ月ですが、完結のご予定は。

井上 それがなかなか(笑)。現時点で、小説内時間があと3分くらい残っているんです。この作品は地下鉄銀座線の浅草発と渋谷発の2台の最終電車が舞台になっていて、その2台が真ん中の銀座駅でホームを挟んで対峙するまでの物語です。その2台が銀座駅に着くまで、あと3分かかる。

我孫子 以前に較べると、かなり更新のペースが落ちてきているような……。

井上 そうなんです。このところ時計の針を1分進めるのに半年くらいかかっている。結局、後ろになればなるほど、1ぺージを書くための準備段階が級数的に多くなるわけです。最初のころは過去がないから、見直すページもほんの2、3ぺージですむし、関連する他の登場人物の数もたいしたことはない。それが最近は、1ぺージ書くのに数十ページを見直さなくてはならないし、しかも1分進めるのに半年かかるということは、その登場人物を前に書いたのも半年前なわけで、ほとんど全部忘れている。だから、一通りざっと読み返しただけでは、これは伏線として書いたんだったかどうなんだか、自分でも思い出せなかったりします(笑)。

我孫子 やっぱり昔に較べて、書いているページ数自体も少なくなってきてしまっているわけですね。

井上 1日仕事しても1ぺージ書くのが精一杯だから、更新できる週でもせいぜい2ページ、2人分というペース。まあ読者もそのへんはわりと分かってくれているみたいです。

我孫子 なにか特殊な整理法というか、執筆に最善のスタイルみたいなものは出来上がってきているんですか。

井上 一応、いまHTMLエディターというソフトで書いていて、そこにはリンクが全部表示されるようになっているので、それを見ながら書いています。まあ、この方法が一番いいだろうと思うんですが、HTMLエディターにしても、別にハイパーテキスト小説を書くためのソフトではないし、せいぜいホームページを作りやすくする、といったものでしかないから。

我孫子 例えば、Aという人物とBという人物が会話している場合、その内容は、当然Aから見てもBから見ても同じでなくてはならないわけで、そういう統一というのは簡単に確認できるようになっているんですか。

井上 それは、なるべく大きな画面で書くようにして、並べてチェックするわけです。そういう時間合わせというかタイミング合わせは、画面の中で最高三つ並べて同時進行で書けるようにして、やってます。

読者自身が物語を作っていく

我孫子 僕が最初に見たときの印象は、まず舞台設定が上手いと思いました。ハイパーテキスト、つまりページをめくるかわりに、文章や絵の一部をクリックすることで、ほかの絵や文章に次々にリンクしていくことができる仕組みを使って、なにか小説を書けるんじゃないかというところまではみんな考えつくけれど、それを実現する上で、舞台を地下鉄の銀座線、しかも最終電車を持ってきたという、その発想ですね。

井上 我孫子君が作ったゲームソフト『かまいたちの夜』もそうだけど、マルチプル・エンディングのロール・プレイング・ゲームみたいな構造のものの場合、その物語の領地をどこで区切るかということが重要で、それを無制限にしてしまうと、どこまでも拡がっていってしまう。ここで地下鉄を選んだのは、まず窓の外が見えない。しかも、銀座線だと駅数が限られているし、最終電車だとその後はないわけです。さらに言えば、登場人物、つまり乗客の人数が少ない。ラッシュの時間だったら、とても99人でおさまらないからね(笑)。

我孫子 そうやって理詰めで説明されたら納得するけど、そこに気がつくのが難しい。

井上 映画でずいぶん前から試みられている「グランド・ホテル」形式というのがあって、ある場所にいろいろな人たちが集まってきて、その人たちの人生がほんの一瞬交錯して、また別れていくという手法です。小説でもそういった構造のものを、同じように呼びますね。ところが、これまでの作品では、いろいろな人生模様が描かれてはいても、その小説あるいは映画それ自体の構成は、やっぱり作者が神の立場ですべてを統治して、順番から何からみんな決めているわけです。それが『99人の最終電車』では、読者がクリックした人物や時間が次のページになる。この違いが実はとても大きいんじゃないかと思うんです。

我孫子 登場人物が非常に平等な感じがしますね。特定の誰かが主人公というのではなしに、読んでいる時はあくまでもその人が主人公。

井上 だから、この中で面白いことがやれたなと思うのは、一つの事象でもこちらから見るのと、あちらから見るのでは意味が違ってくるということなんですけど、例えば、登場人物の一人に読心術をやる男なんていうのが出てくる。彼は人の心が読めるので、ある人物に焦点を合わせると、その人が考えていることが全部分かってしまう。ところが、その心を読まれた人をクリックしてみると、全然そんなこと考えていなかったりするわけです。その男は妄想で他人の心を読むことが出来ると思い込んでいるのだけど、彼の側から読んでいるだけだと気がつかない。
 これが普通の小説だと、彼が考えていることは妄想なんだということを、どこかでバラさなきゃならないけれど、この作品の場合は、妄想は妄想で最後まで通すことができるわけです。

我孫子 結局、読者がどう読むかで、全く変わってくるわけですね。

井上 そう。ある読者が彼のところだけ読んで、ほかを読まなければ、それは妄想ではなくて、本当のことになってしまう。妄想というのは本来、本人にとっては妄想ではないわけですからね。
 とにかく、膨大な時間をとられてはいるけれど、僕自身もかなりいろいろなことをこの作品から吸い上げて、勉強させてもらっています。
 あと、これはインターネット小説の面白いところなんだけど、ウェブを見ている読者からの突っ込みがある。「談話室」という、読者に書き込みをしてもらって、お互いにやり取りのできる場所をつくってあるんですけど、そういった読者とのかかわり方という点で、活字の小説とかなり違う部分があります。ライブ感覚とでも言うか、今日書いてアップしたばかりのページに対する反響が、翌日にはポンと返ってくる。要するにステージで歌を1曲歌うと、その都度拍手やブーイングが返ってくるようなものです。
 別に読者がこうしてくれということを、そのままやるといったことではないんですが、読者と交流しながら書いているという実感はある。これは連載前には予想しなかったことです。

我孫子 そういう点で似た作品というと、パッと思いつくのは、筒井康隆さんの『朝のガスパール』くらいですね。新聞連載というかたちでなら、辛うじてまだ多少のライブ感覚を生むことが出来るのかもしれませんが、あれもパソコン通信あっての話ですからね。

井上 読者の声では、キャラクターの中でどれが好きとかいう話がけっこう多い。それとあの小説の構造自体に関わってくるような話というのは最初のころからかなりあって、連載開始当初は、「どう読んでいったらいいのか分からない」とか、「正解を教えて欲しい」なんていう要望もありました。最近はそういうのはほとんどなくなって、新規で読み始めた人たちも、わりとスムーズに入ってくれているみたいです。

我孫子 僕のホームページでも、紙ではできないエンターテインメントを何か提供できないか、という気はあるんですが、そんなことをただでやっていたら、本業というか、頼まれてる原稿が書けなくなってしまうので、いまのところホームページ上では小説は書かないことにしてるんです。

井上 だけど、日記はすごく真面目に書いてるよね。

我孫子 日記はって……(笑)。

井上 いやいや(笑)。

我孫子 日記は一応、毎日書くことにしているんですが、小説をここで書き出したらちょっとまずいかなと思っていて。まあ、井上さんがこういうことをやっておられるから、それとまた違うかたちで何かできるかなと思えば、やってしまうかもしれないですけど。

井上 ウェブ上のページを自分で持っているということで一つ大きいのは、やろうと思えば、それが手軽に、すぐに出来てしまうということなんですね。例えば、自費出版で本を出すなんていうことは、時間的にも資金的にもすごく大変で、しかも出した後の読者との関わりというのは、非常に規模が小さくならざるを得ない。
 ところが、ウェブ上なら実態はどうあれ、名目上は世界が相手ですから。ワールド・ワイド・ウェブの上でやるということは、やはり自費出版とは感覚的にかなり違う。しかもそれがすぐにできるし、逆に失敗したらサッと引き下げることもできるわけです。

電脳小説の「文学性」

我孫子 この『99人――』がまとまって、CD-ROMで発売されたら、文学史的な事件になるんじゃないですか。

井上 果して文学史に残してもらえるかどうか。そもそも小説の中に入れてくれるのかが問題で。『99人――』もずいぶん雑誌で取り上げられたけど、99パーセントがパソコン雑誌で、小説誌は載せてくれない。我孫子君の『かまいたちの夜』にしても、あれはサウンド・ノベルなんだけど、ほとんどノベル扱いされていないですよね。評論家や出版関係者にしても、小説家が作ったちょっと変わったゲームなんだというような見方しかされていないんじゃないかな。

我孫子 まあ僕の場合は、初めからゲーム層をターゲットにしてましたから。やっぱり小、中学生に買ってもらわないといけないものなんで。小説好きの人が僕の小説を読むために、わざわざゲーム機を買ってくれるとは思っていないですね。

井上 でも、これからだんだん変わってくるかもしれないと思ったのは、「談話室」の書き込みで、『99人――』を読みたいと思ってパソコンを買ったという人がいたんです。僕は作者として、ものすごく感激しました。

我孫子 僕たちは高尚な思想なんかはないけれど、やっていることは、例えばボルヘスとかスラデックとか、実験小説みたいなものをやっている人たちとも、通じる部分があると思うんです。そういう人たちこそハイパーテキストとか、そういうところに入ってきていいんじゃないかと思うんですが、やっぱりエンターテインメントからのアプローチのほうが早いんですね。

井上 サウンド・ノベルにしろ、ウェブ小説にしろ、大切なのは作り手の遊び心が読者にちゃんと伝わっているかということだと思うんです。そこが、いわゆる実験小説と違うところなんじゃないかな。

我孫子 遊び心ということだと、井上さんや僕以外で一人思いつくのは泡坂妻夫さん。例えば『生者と死者』という作品は、普通の紙の本なんだけど、アイディア的にはハイパーテキストに近いものがありますよね。

井上 普通、袋綴じは結末を隠すためのものなんだけど、あの本は全編にわたって袋綴じになっていて、袋綴じのままでも読めるし、袋を破るとまた別の作品になるという、すごい試みです。それで、袋を破く前の小説が消えてしまうのはもったいないからと、2冊買った人がずいぶんいる。作者の遊び心が読者にもしっかり伝わっているんですね。
『99人――』を始めたのも、やっぱり遊び感覚なんです。僕も我孫子君も新しいテクノロジーというのが好きで、そういうものを示されると、これで何か出来ないかと考えてしまう。

我孫子 まだ誰もやっていないし、自分も初めての経験だから面白いんですね。

井上 ちょっと前から電子ブックとか、電子媒体に乗った書籍とか、そういった話はいろいろあるのですが、方向として大きく二つに分かれると思うんです。一つは、いままで蓄積されてきた資産をその上でどう生かすかという方向。もう一つが、その電子メディア自体を使ってこれから先何が出来るのかという方向で、僕はこちらをやりたいんです。

我孫子 僕はいまのところコンピュータゲームが好きなんで、当面はコンピュータという機械を使って何か面白いことをやってみたい。機械であるハードウェアに対し、プログラムのことをソフトウェアと言うわけですが、そのソフトの根幹にあるコンセプトやアイディア、自分ではよく「ソフトの中のソフト」という言い方をするんですが、これは基本的にすべて言葉で表現できると思うんです。そういう部分で自分がタッチできるなら、やっていきたい。だから、いままでは自分の書いた文章は、全部画面上に表示されるような仕事していますけど、そうではないケースもこれからありうると思ってます。
 ただ、それとは逆に、小説というのは他人の助けを必要とせず、一人ですべての責任を持って作ることができる希有なメディアなんで、最終的にはここが自分の落ち着く場所という気持ちもあるんです。


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