『解説』 ―― 関口苑生  
 
 
 かつて大岡昇平は――、
「推理小説はもと伝奇小説から出ている。面白ければよく、あそびである」
 と語ったことがあった。前段の伝奇小説云々のことはわからないけれども、
しかしまあよくぞ言いきったものだ、と感心した思い出がある。これほど単純
明快に――つまり「面白ければよく、あそびである」などと断言した人は、わ
たしは寡聞にしてほかには知らなかったからだ。
 まあ、これがまったくミステリーとは関係のない人の言葉ならばともかく、
大岡氏はご自分でもいくつかの推理小説及び評論もものしており、昭和五十一
年には『事件』で日本推理作家協会賞も受賞している作家である。誠に失礼な
がら、一応は耳を傾ける価値がある言葉というものであろう。
 というのは――ミステリーの起源が一体いつ頃から始まるのか定かではない
が、その誕生の時以来、ミステリーほど「議論」と「定義」付けのやりとりが
なされてきたものはないだろうからだ。ミステリーとは何ぞや、から始まって
「本格」とは、「変格」とは、はたまたハードボイルドとは、さらにはそれら
のものを書くうえでの「約束事」とは……実に多岐にわたり、瑣末的な部分に
おいてまで議論が繰り広げられてきた。それもプロパーの作家、評論家だけで
はなく、いわゆる純文学系統の作家や哲学者までもがこの種の論議に加わって
いる。
 逆にいうと、それだけミステリーが広く愛され、語られる対象であることの
証左にほかならないのだが、それにしても……と思うのはわたしだけではある
まい。
 今、愛されていると書いたが、そう、ほかにこれほどまでに語られる対象が
あるとすれば、その「愛」についてぐらいしかないのではあるまいか。
 そんな中で、最近、再び「本格」論議が盛んになってきている。その中心は
島田荘司と笠井潔のふたりだが、本書の作者(正確にはそのうちのひとり)井
上夢人もこの論議に加わって、非常に興味深い意見を述べている。
 彼は「本格」に対する言葉として「無格」なる概念を打ち出しているのだ
(『EQ』90年11月号)
 つまり彼にとってミステリーとは、たったひとつの定義しかないのである、
と。それは「謎を解明していく面白さを追求したもの」で、そこにはどんな修
飾もつかないというのだ。もちろん、本格も変格もない。
 彼にとっては、その「謎」が幻想味を帯びている必要もないし、謎と真相と
のギャップが大きければ大きいほどいいという注釈もつかない。謎であれば何
でもよく、謎を感じる主体も、登場人物の探偵である必要はない。極端に言え
ば、登場人物が誰ひとり謎を感じなくても、読者だけがそれを感じることがで
きるというのでもいい。
 あくまでも、中心にあるのは、謎を解明していく面白さを追い求めたもので
あって、さらに極端な言い方をすると、謎が論理的に解明されなければいけな
いというのも絶対条件ではなく、必ずしも謎が解明できていなくとも、小説世
界さえ閉じていれば、それは彼にとってやはりミステリーだというのである。
 要するに「謎」の解決へのアプローチが面白く、小説の結末も納得のいくも
のになってさえいれば、ミステリーには「小説上の」解決はいらないというの
だ。
 うーむ、これでもまだ複雑だな。もうちょっとわかりやすくしてみよう。
 まず「謎」というものだが、単純に考えていけば、WHO=誰が犯人かであ
ろうし、またHOW=その方法、トリックでも、WHY=いかなる動機からそ
の犯罪を犯したのか、であってもいい。あるいはこうした具体的な個々のもの
を指す謎でなくとも、人間心理の謎や事件そのものの不可解さ、天変地異のお
かしさである場合だっていいかも知れない。
 通常はこれらの謎を「論理的」に解決するために、小説上ではすべての事柄
がそこへ向かって収斂していくわけだ。けれども、岡嶋二人(この場合は井上
夢人だが、納得づくの共作であるのだからこう書いても許されるだろう)の作
品は、おそらく矢印がその方向には向いていないのであろう。
 極論すれば、誰が犯人であろうと構わないのである。
 問題はただ一点。誰が犯人であるか(つまり謎という意味)、を突き止める
ための過程が最重要なのだ。それゆえに、岡嶋二人の小説は時として読者から
は極めて複雑に捉えられる場合が多い。その謎への過程が、私見であるが、普
通の(日本における)ミステリーよりもほとんど一回転から二回転分多く、ひ
ねりを加えているからである。
 たとえば競馬を考えてみよう。
 距離が三千メートル。芝の良馬場――外的条件はこれだけであった時に、で
は勝ち馬は何だ(つまり謎の正体ですな)、とみなが推理するわけだ。と、そ
の時に今度はあらゆる検討が加えられていく。血統――長距離向きの馬である
か、体調は、追いきりの状態は、前走は、タイプは逃げか追い込みか、騎手は
誰、右回りか左回りか……とにかくどんなに細かい情報、要素でもインプット
していく。そこから得られた結果が、つまり「論理的」に得られた「これが勝
ち馬(犯人)でなければならない、そうでないとおかしい」という結論になる。
 ところが、実際にスタートしていきなり一天にわかにかき曇り雷鳴が轟き、
馬場に雷が直撃したとしたら、先頭の馬が骨折して落馬したとしたら、虻が馬
の尻を刺したとしたら……岡嶋二人の小説はそうした論理以外の要素を次々と
ぶち込んでいきながら、面白くかつ意外な過程を構築していくのである。
 しかしながら、それだけに岡嶋作品は背景の舞台設定や人物設定、描写が入
念に描かれていなければならなくなる。その部分をいい加減にすませていれば、
どんなに過程が面白かろうがすべてが嘘になってしまうからだ。とはいえ、そ
れも現実のリアリティではなく小説=紙の上でのリアリティのことだ。いかに
あり得そうにないことでも、読者が納得すればそれはリアリティがあるという
ことになるし、またその納得のさせ方が作家の力量に繋がるのである。
 そこで思い出すのは、以前、井上氏に聞いたことなのだが――彼らは作中の
人物を作る前に、まずその人物のことを「知り」「感じる」ことから始めるそ
うなのだ。
 具体的には「あの子は誰ぁれ」遊びと称していた。たとえば、街を歩いてい
る時でも、電車の中でもいいが、ひとりの人物に注目してその人に関する質問
リストを作るのだ。
 年齢は、職業は、家族構成は、恋人は、好みは、趣味は、かりに今この電車
が転覆したとしたら彼はどんな行動をとるだろうか……つまり一種の人間観察
である。けれどもその時に決して先入観や偏見(服装な髪型などからくるもの)
は持たず、さらに相手の立場になって考えるのだという。
 こうした不断の行ないが、ステレオタイプではない人物設定に繋がっていく
のだな、とその話を聞いた時に強く思ったものだった。
 以上のようなことをつらつら考え、突き詰めていくと、岡嶋二人にとってミ
ステリーとは、もしかして「あそび」なのではなかろうか、と思い当たった。
 あそびだからこそ権威からも、持続からも自由なのであるし、宗教のように
制度化されることもなく、芸術のように造形化されることもない。あそびだか
らこそ真剣で、そして純粋なのだ。

 わたしが岡嶋二人について書くのは、この文章が初めてであるせいもあった
が、随分と前置きが長くなってしまった。
 さて本書は『小説推理』昭和六十三年一月号から二月号に連載され、同年六
月に双葉社より刊行された。
 読者の中には、かつての人気テレビドラマ『スパイ大作戦』を彷彿とする人
もいるかも知れない、まったく先が読めない「あそび」の真骨頂を究めた作品
である。そしてまた、本書の登場人物たちの造形ぶりもぜひとも注目してもら
いたい。
 だが――ここに描かれているものは、たとえば三島由紀夫が『小説とは何か』
の中でいみじくも書いた犯罪についてのくだりを、見事に具象化してもいる。
 犯罪は、その独特の輝きと独特の忌わしさで、われわれの日常生活を薄氷の
上に置く作用を持っている。それは暗黙の約束の破棄であり、その強烈な反社
会性によって、かえって社会の肖像を明らかに照らし出すのである。それはこ
の和やかな人間の集団の一閃の光のようにその荒野を馳せ、われわれの確信は
つかのまでもばらばらにされてしまう。
 
一九九〇年十一月