『本格探偵小説論』 ―― 島田荘司  
 
 
 昨平成元年、「本格ミステリー宣言」と題する一冊を上梓した。この中で
「本格ミステリー」の本来的な姿を定義し、日本のミステリーが五十年後、百
年後へ向けての生命を保ち得るためには、近い将来このような小説が多く現わ
れてくれると嬉しい、と自分の願望 を書いた。
 精いっぱい挑発的な書き方をしたので、当然ながら多くの反論をいただき、
その意味ではそれなりの効果はあげたかと思えるが、そのうちの大半が、大い
なる誤解にもとづくことにいささか考えさせられた。
 拙著で訴えた事柄を、以下でもう一度整理させて欲しい。
 ポー以降のこのジャンルの小説には、二筋の系譜がある、というのがぼくの
理解と主張である。
 ポーの「モルグ街の殺人」という新芽を皮切りに、幻想小説から枝分かれし、
非日常的 事件の魅力に傾倒した小説群。これが一筋。
 この小説群が多く犯罪や殺人を扱い、非常な成功を収めていることに刺激さ
れ、ファンタジーの要素は排し、より実務的でリアルな形で犯罪(多くは殺人)
を描くことを目的とした小説群。これがもう一筋。
 便宜的に前者を「ミステリー」と呼び、後者を「推理小説」と呼ぶことをぼ
くは提案した。そうしてこれら二グループのうち、前者においてはより原点の
精神への傾倒度が高い作品群、後者においては論理性がより高度である作品群
に対し、それぞれ「本格」の語を冠するのがよいと意見を述べた。しかしこれ
では繁雑ということなら、双方ともに「論理性」という条件がひとつであると
してもよい。
 つまり「ミステリー」と「推理小説」、この二グループはどちらが上位とい
うことではなく、一対の夫婦人形のように並存し、このそれぞれに「本格ミス
テリー」と「本格推理小説」という頭部がある――、こういう把握である。
 この説明に、以下で実例を用意してみる。
 バレエ「白鳥の湖」上演中、舞台裏でオデット姫を演じるプリマが殺された。
ところが調べてみると、彼女の死亡時刻以降も、何故かオデット姫は舞台で踊
っており、これを大勢の観客が目撃していた――、こういう不思議な事件が発
生したとする。
 舞台に思いが残り、亡霊となって舞うプリマのこういう怪現象を、作家が詩
人のセンスを持って美的に表現し、そのままで小説世界を閉じるなら、これは
怪談にも似て「ミステリー」と呼ばれるべき作品である。
 しかしここに、プリマに知られざる双生児の妹がおり、殺人の事実を知った
彼女が姉を殺した人物をかばおうと考え、彼を逃がしておいて、とっさに自分
が姉になり代わって舞台で舞った――、そういう事情解明が後段で行なわれた
とすれば、この小説は「本格ミステリー」としての構造を持っていたことにな
る。
 一方プリマが殺された時点で、警官によって即刻「白鳥の湖」の上演は中断
され、妹が身代りなど演ずる閑もなく、ガランとした舞台上で関係者を集めて
の犯人探しが始まったとすれば、これは「推理小説」と考える。
 この調査が行き当たりばったりの散文的なものであればそれまでだが、刑事
の推理が高度に論理的であり、大向こうを唸らせるほどに緻密であったなら、
これを「本格 推理小説」と呼びたい気分が湧く。先述の四つのグループは、こ
のようにしてその性格を説明できるというのがぼくの考えである。
 性格説明をもう少し補足するなら、「本格ミステリー」には不可解な現象が
前段階で現われているわけであるから、この怪現象を支える理屈(起こった
の説明)、 ハウダニットの論理が、後段で必ず重要となるであろう。
フーダニットとハウダニット、この両輪がこの小説には必要となる。時として
ハウが主、フーは従ともなり得る。
 一方「本格推理」においては、明らかにフーダニットに大きく比重がかかる。
フーダニットが主、ハウダニットが従となる。時としてハウは存在しないこと
もある。トリックが存在しない場合である。しかしそういうケースにおいても、
このジャンルでなら充分傑作は創り得るであろう。
 ところでこの「ミステリー」、および「推理小説」という語句を、このよう
な意図で使い分けようとする提案は、現在の使用の現状に照らして現実的でな
いことは、充分承知している。現状では、たとえば先の「本格ミステリー」に
あたる例も、「本格推理」と称されることが大半であり、最後の「本格推理」
の例にあたる書物にも、語感の新しさを狙い、特に深い考えなしに「ミステリ
ー」と帯に書かれることも多い。このような現実に多くの読者や現場人がなじ
んでいるために、拙著での提案は、非常な抵抗感を生んだ。しかし提案のよう
な形でこの二語を使用するなら、わが国のおびただしい犯罪小説群を、割合す
っきりと整理できる可能性があるとぼくは考えている。
 付言すると、「本格ミステリー」の作品が増すことを期待すると述べたのは、
「本格推理」に較べてこちらの小説が上位と信じるからではなく、単純に数が
少ないからである。花壇が充実するためには、花のだけでなく、種類が増す
必要もある。
 拙著の中でぼくが「本格ミステリー」の説明に多くの言葉をさいているため、
島田荘司はこういう小説のみを正道と考え、他を否定、もしくは下位に見てい
ると誤解された。このため、これから「本格」を書こうと欲する在野の人々か
ら、窮鼠が猫を噛むのにも似た勢いの反論をいただいた。つまりそのようなも
のが唯一無二の「本格」では、自分が書きたいものではない、創作の志気にか
かわるから是非とも撤回して欲しい、という趣旨の主張だった。現在行なわれ
ている反論は、大半がこの主張に含まれるものと考える。すべて実作者からの
反撥であるからだ。
 これには大いに困った。才能を誘発せんとしたものが、かえって束縛してし
まった。そこでこういう人々には、どうぞ別の本格を、自信を持って書いて欲
しい、とここではっきり申しあげておきたい。「本格ミステリー宣言」での提
案も、すっかり忘れてもらってかまわない。「本格」には「本格ミステリー」
と「本格推理」、二つの方向があり(むろんこの中間もある)、この二つに関
しては、カレーライスとハヤシライスのように好み の問題があるだけで、優
劣などない。
 ただし、九〇年十月現在、この国に現われている探偵小説群を眺めると、
「本格ミステリー」は一パーセントもないといってよい。九十九パーセントが
「推理小説」、もしくは「推理小説寄り」の系譜に与するものである。犯人
不明の謎は、それだけでは読者に、もう「ミステリー」をもたらさなくなって
いる。このジャンルが誕生して、すでに百五十年も経つ。先のようなぼくの二
語の区別使用の提案が、現場人に今ひとつの切実感を呼ばないのも、「本格ミ
ステリー」がほとんど存在しないという理由も大きい。先のような主張がまか
り通っては、すなわち「ミステリー」という魅力的な語が、単に使用不可とな
るだけであろう。かろうじて女流作家に多く見る「サスペンス小説」に、この
語が流用できるか否か、といったところである。
 もう一点、「本格ミステリー宣言」は、単に島田荘司の創作姿勢を説明した
ごく個人的な事情説明にすぎないとする反論も、「本格ミステリー」の絶対量
の少なさ、という現実に支えられている。
 ぼくとしては、あれは一般論のつもりで書いた。この国に現在「ミステリー」
という語を呼び戻そうとする気運があるのなら、またこの国のミステリーに永
遠の生命を与えたいなら、「本格ミステリー」への作家の意欲の比重を、もう
少し増すのがよいとぼくが考えていることは、この際否定しない。バランスの
良い配置を、ぼくはイメージしている。
 しかし、断わるまでもないと思うが、「本格推理」の方向も、ぼくは大いに
好きである 。なんといってもアガサ・クリスティはじめ近世の巨人たちも、
どちらかといえば大半が、この流れ寄りの「探偵小説」である。またハードボ
イルドを創造したアメリカの巨人たちも、このお仲間のうちと理解する。
 日本に目を転じても、松本清張氏を頂上とする社会派は言うに及ばず、基本
的にこの両 者の中間にあると考えられる最近の若い才能たちの探偵小説諸作
も、この系統に入っていると見えるものがかなりある。「主として犯罪におけ
る(主として犯人不明の)謎が、論理的に解明されていく」小説が、大量に書
かれている。清張作風一辺倒という時代が長かったので、この国の在野の才能
の大半が、自身の創作に関して、「本格推理」の回路を脳内にセットするのも
自然である。
 
 さて「本格推理」というなら、平成新本格時代の直前まで、この系統内で最
も才気を誇った才能がいたことを忘れることはできない。岡嶋二人である。本
書は、この人の自選作である。彼の考える「本格」がここにある。ただしこの
作品は彼の作風のうちにあっても、かなりニュートラルな「本格探偵小説」で
あると思う。
 岡嶋二人という作家に関しては、今さら説明するまでもないだろう。井上泉、
徳山諄一 の共作コンビによるペンネームで、一九八二年発表の「焦茶色のパス
テル
」から、一九八九年発表の「クラインの壺」にいたるまでの八年間、日本
の推理文壇において最も創造的なティームだった。このわずか八年の間に、岡
嶋二人は江戸川乱歩賞、吉川英治文学新人賞、推理作家協会賞と、およそ推理
文壇におけるすべての賞を総なめにした。彼らの作品群が、いかに日本の推理
文壇に歓迎され、枯渇をいやしたかが解る。
 この「そして扉が閉ざされた」は、高名なドルリー・レーンの退場三部作、
「Ⅹ、Y、Zの悲劇」にも似て、「99%の誘拐」、「そして扉が閉ざされた」、
クラインの壺」の、後期三作の一作にあたる。
 岡嶋二人の一人、井上泉氏は、ぼくにこう語ったことがある。
「『そして扉が閉ざされた』は、唯一徹底した『本格』を書いてやろうという
決意のもとに書いたものなんだ」
 彼のこの決意は、当作品の徹底して贅肉をそぎ落とした構成からも、よく頷
くことができる。舞台はなんと「核シェルター」の中。ドラマはひたすらこの
中だけで終始するのである。この空間に閉じ込められた者は、男二人、女二人
の四人、眠らされていた彼らが、シェルターの中で目を覚ますところから物語
は始まる。
 彼らの仲間の一人が、かつて殺人によると思われる死に方をしていた。死者
の母親が、思惑を持って四人ともをシェルターに閉じ込めたらしい、封じ込め、
心理的に圧迫を加えることで、四人のうちの誰が犯人であるかをつきとめよう
としているのだ。そういう事情が、時間の経過につれて明らかになる。問題の
殺人事件の詳細も、シェルター内での物語に並行して、回想形式で語られる。
 岡嶋二人がこのような特殊な状況を設定したのも、通俗的な物語要素を可能
な限り排し、徹底した論理性をストーリーに持ち込もうともくろんだためにほ
かならない。こういう極限的な状況設定が功を奏して、犯人不明の謎がよりサ
スペンスを得た。ここにあるのは、不明の犯人解明に向けて、ピントを徐々に
合わせるようにして収斂していく論理である。ここから、岡嶋二人にとっても
「本格」とは、推理の「純粋さ」の別名であることが確かめられる。
 さらにもう一点、この作品を傑作にした要素がある。四人のうちに確実に犯
人が存在するのだが、同時にまた、存在しないのだ。こういう惹句を可能に
する画期的なアイデアを、岡嶋二人は用意した。この二つの要素により、この
作品は、日本における「本格探偵小説」のひとつの達成として、多くの「本格」
志向者の目標となり得る資格を獲得したように思う。
 しかし岡嶋二人は、本作品を含む三部作を文壇に置いて、惜しまれつつ解散
した。二人のうちの井上泉氏は、井上夢人のペンネームで再スタート、「ふた
りは一人」と題する意味ありげな長編の週刊誌連載を終え、一九九〇年十月の
現時点では、これを九一年春の発表に向けて鋭意加筆中である。井上氏に聞く
限りでは、完成した「ふたりは一人(仮題)」は、「本格ミステリー」に大
きく傾斜していそうである。
 一人になった井上夢人は、岡嶋時代とは明らかに体質が変わりつつある。
「本格推理」という一段目ロケットを切り離し、井上夢人は今、「本格ミステ
リー」作家にと変身して 二段目のロケットに点火したのではないかと、ぼく
はひそかに期待している。必ずやまた、日本の探偵小説文壇を逞しくリードし
てくれることだろう。ぼくを含め、岡嶋二人ファンは一安心というところであ
る。
 一方、徳山諄一氏の方は、いくぶん長い充電期間が続いている。目下テレビ
の推理番組の脚本を書いていると聞く。ここでは、早くまたわれわれの度肝を
抜く新作が、徳山諄一名義で発表されるように切にラヴコールを送っておき、
筆を擱くことにしようか。
 
(注 上記は『そして扉が閉ざされた』(講談社文庫1990年10月刊)に書かれ
た解説《本格推理小説論》に島田氏が手を入れ、『本格ミステリー宣言II』
(講談社1995年6月26日刊)に収録されたものです。文庫に載っているものと
は若干の違いがありますが、島田氏本人の希望によりこちらを載せました)