『解説』 ―― 品川四郎  
 
 
 本書『クリスマス・イヴ』は、岡嶋二人の八九年刊行作品の文庫化です。読
み終わった今、あなたはどんな感想に浸っているでしょうか。
 あなたがもし、岡嶋二人のファンであったとしたら、それまでの作品とあま
りに違う内容と趣きに、さぞかし驚いているはずです。
 あなたがもし、岡嶋二人を読むのが初めてで、しかも大いに満足したとした
ら、次に読むべき同趣向の作品のほとんどないことを知って、愕然とするに違
いありません。
『クリスマス・イヴ』という作品は、それほどに、岡嶋氏の著作の中では異色
のものです。そのせいか、当時あまり書評にのぼらなかったような気がしてさ
びしい思いをしましたが、後に『珊瑚色ラプソディ』文庫版の解説で、小池真
理子氏が好きな作品だと書かれている
のを読んで、大いに意を強くした記憶が
あります。
 なぜ異色かと言えば、これが、きわめて純然たる現代ホラー小説だからです。
岡嶋二人のそれまでの作品のイメージから考えるなら、長編サスペンスと謳わ
れることはあっても、これがホラーとして喧伝されることはおそらくないでし
ょう。しかし、『クリスマス・イヴ』は、ホラーの純粋理想形のひとつであり、
正体不明の殺人鬼に追われる恐怖に焦点を絞った、純粋殺人鬼小説なのです。
そしてその背景にあるのは、明らかに"スプラッタ・ムービー"――世の常識派
の人々の眼をそむけさせた、あの"血飛沫映画"に他ならないのです。
 
 小説にしろ映画にしろ、ホラーのファンが難儀だと思うのは、良質の作品と
同時に、いわゆる悪質な作品をも愛好する性癖を持ち合わせている、というこ
とです。ヤヌスの顔ではありませんが、一方で多くの支持を得ている作品を認
めながら、その一方ではともすればファンからも見離されているような作品も
評価しようとします。その意味ではホラーのファンはほとんどが二重人格とい
うことになってしまいますが、事実その通りで、C級以下Z級の作品を切り捨
てることができません。中にはメジャーな(一般的な)ホラー作品には眼もく
れない過激なファンもいるくらいです。
 ただでさえ人が殺されたり怪物に襲われたりする話の好きなファンの実態が
そんな風では、難儀を通り越して病気だと思われてもいたしかたありませんが、
問題をさらに複雑にしているのは、そういう過激なファンを、単なる"いかも
の食い"として済ますことのできないところにあります。いやむしろ、ホラー
としての核は、良質といわれる作品よりは、グロテスクでホラー丸出しの、悪
趣味な作品にこそ認められる節があるのです。こんな矛盾したことはありませ
ん。ホラーのファンが二重人格と呼ばれても、誰にも反論する権利はない(?)
のです。
 八〇年代におびただしい量の作品を産み出したスプラッタ・ムービーの異常
なまでのブームは、明らかにそうしたファンの増えたことを証明するものです。
 スプラッタ・ムービーなる言葉自体は、八二年頃から使われ出したものです
が、その起源は一九世紀末にパリで大流行した"グラン・ギニョール劇場"の演
し物にまでさかのぼることができます。さらには、六〇年代から七〇年代にか
けて『血の祝祭日』や『血の魔術師』といった、タイトルを聞くからにスプラ
ッタな作品を量産した監督ハーシェル・ゴードン・ルイス(ファンは彼のこと
をゴッド・ファーザーと呼ぶのです)の作品や、六八年の画期的ゾンビ映画
『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』から七七年のヒット作『ゾンビ』に
至る監督ジョージ・A・ロメロの作品、果ては監督トビー・フーパーの凶悪な
パワーのみなぎる『悪魔のいけにえ』まで、すべてスプラッタ・ムービーに違
いなく、アメリカの研究書によれば、『エクソシスト』や『オーメン』も大予
算のスプラッタ・ムービーということになっていますが、スプラッタ・ムービ
ーの歴史をひもとくことが目的ではないので、ここでは省略します。(血の出
る話の嫌いな人、ごめんなさい)
 とにかく、そういう流れのもとに、八○年代ホラー=スプラッタがやってく
るわけです。違いはと言えば、折から上昇気流に乗っていた特殊メイク技術に
よって殺人場面がより克明となったことと、かくも多くのファンに受け止めら
れるとは思わなかったこと――くらいなものです。
「八○年にパラマウントが『13日の金曜日』を公開した時、今日の(スプラ
ッタ・ムービーの隆盛の)あることを誰が想像し得ただろうか」――ロサンゼ
ルスで活躍中のホラー映画評論家チャズ・バランは、八九年に出版された自著
「ゴア・スコア」(なんとスプラッタ・ムービーの採点ガイドブック!)の序
文にこう書いていますが、四十五万ドルの製作費で四千万ドル以上の興行収入
をもたらした『13日の金曜日』に、パラマウントは笑いが止まらなかったに
違いありません。
 しかし、それほどにヒットしながら、『13日の金曜日』ほど、とんでもな
い映画も他にありません。物語としては、本当にただ人が殺されるだけなので
す。クリスタル・レイクという湖のほとりの、閉鎖されたキャンプ場に集まっ
た(あまり賢くなさそうな)若者たちが、次々と謎の殺人鬼に殺されてゆきま
す。後年シリーズ・キャラクターとして、ホッケー・マスクのトレード・マー
クで有名になるジェイソンは、実はこの一作目の犯人ではなく、そこにはちょ
っとした謎解きのようなものもあるのですが、死体が増えてゆくところに映画
の力点があったことは明らかです。
『13日の金曜日』はスプラッタであるとともに、"死体山積映画(ボディ・
カウント・ムービー)"なる言葉をも生み出し、以後続編が作られるたびに、
専門誌は犠牲者の順番と名前と殺害方法を記した"ボディ・カウント・リスト"
などというものを、皮肉混じりに載せたりしたものです。
 
 長々とホラー映画の話をしてしまいましたが、ホラーの核には、そういうな
りふりかまわぬものの魅力が確実にあります。言わばそれは、怪奇幻想文学の
魅力の対極に、煽情的なパルプ雑誌の誌面を飾った、名も知れぬ作家の怪作群
の魅力があるようなものです。あるいは、意外に過激で残酷なホラー少女コミ
ックの世界でしょうか。いずれにせよ"現代社会の不条理"や"人間心理の本質"
などといった"よけいなもの"に仮託しない、恐怖のための恐怖そのものにこそ
の、ホラーの魅力があることは確かなのです。残念ながら『13日の金曜日』
は、以後のシリーズでジェイソンに変にこだわるあまり、3D立体映画となっ
たパート3や、パート5&6などの見応えのある続編がありながら、単なる芸
もパワーもない殺人展覧会に堕してしまい、後輩の『エルム街の悪夢』のフレ
ディや、再度復活した『ハロウィン』のマイケルなどに追い越されてしまいま
したが、スプラッタ・ムービー自体は、サム・ライミ監督の快作『死霊のはら
わた』シリーズやH・P・ラヴクラフト原作映画の新たな時代の到来を告げた
『死霊のしたたり』シリーズなどを得て、なおも意気軒昂であります。
 
『クリスマス・イヴ』は、そういったスプラッタ・ムービーを中心とする八○
年代ホラーの状況と切り離して考えることはできません。いやむしろ、『13
日の金曜日』シリーズの凋落ぶりや、フレディやマイケルなどのキャラクター
人気依存型ホラーへの、痛快な逆襲とすら言えるかも知れません。純粋ホラー
の理想形というのは、そういう意味もあるのです。その上何よりもここには、
本来映画が体現すべき疾走感があるのです。
 雪深い山荘に招かれた喬司と敦子の二人を、友人の死体と謎の殺人鬼が待ち
受けます。小うるさい説明はいっさいありません。殺人鬼の正体も動機もまっ
たくわかりません。生きのびて二人と合流した賢志は、自分が男の殺人現場を
目撃したから追いまわすんだと言いますが、その殺人すら、何がどういう理由
で起こったのか最後までわからずじまいです。謎の殺人鬼の男が"大場さん"と
いうのどかな名前であるあたりに、作者のたくまざるユーモア感覚を見て取る
こともできますが、それ以外は見事に何もわからないのです。あとはただひた
すらに、大場さんとの対決を一気呵成に描くのみなのです。最後まで澱むこと
なく、一気に読むことが可能です。
 加えて、キャラクターに必要充分な知恵のあることも、澱むことなく読むこ
とのできる理由のひとつです。途中で辰野という老人が登場して、初めのうち
こそ主人公たちを疑ってかかりますが、すぐに事態を把捉して、大場さんと対
決するための意外な戦力となります。凡庸なスプラッタでは、この老人はさん
ざん観客を苛立たせた挙句に、何もしないまま殺されてしまうのがオチです。
作者(の二人とも、あるいはどちらか)がホラー映画のファンであったと想像
するなら、おそらくそういった幼稚な"じらし"にはうんざりしていたのに違い
ありません。辰野老人の場面は、単純明快な物語の流れに棹さすことなく、実
に気持ちよく収まっています。
 さらに、物語の視点を、主人公たちの中でさりげなく、要所要所で女性=敦
子に限定しているところがミソです。もとより八○年代ホラー映画の特徴のひ
とつは、最後に事件にカタをつけるのが女性=ヒロインであるところにもあり
ます。これが女性誌に発表されたということもあるのでしょうが、良質のミス
テリを書き続けてきた作者は、推理小説の伏線よろしく、ラストの敦子の活躍
を予感させていたのでした。
 贔屓の引き倒しの感なきにしもあらずですが、筆者は『クリスマス・イヴ』
を最初に読んだ時、作品の中で何かが弾けているような感じを受けました。今
振り返ってみると、この前の年(八八年)に岡嶋氏は、『99%の誘拐』で第
十回吉川英治文学新人賞を受賞しています。そして八九年は、岡嶋二人という
ペンネームの最後の年にあたるのです。筆者の感じたものが、果たしてそのど
ちらかに由来するものなのか、それとも単なる邪推にすぎないのか、今となっ
ては確認のしようがありませんが、『クリスマス・イヴ』以降の作品を見てみ
ると、以下『記録された殺人』『眠れぬ夜の報復』そして『クラインの壺』と
続きます。そしてこの四作品を見ていると、自然に『記録された殺人』と『眠
れぬ夜の報復』、『クリスマス・イヴ』と『クラインの壺』に分けられるよう
な気がします。
 岡嶋二人は周知のように、徳山諄一氏と井上泉氏の合作ペンネームであるわ
けですが、両氏がコンビ解消にあたってもし、各々の書きたい好みのもので四
冊を分け合っていたとしたらどうでしょうか。『クリスマス・イヴ』はどちら
の趣味の延長線上にあるのでしょうか。――などとふと考えてしまいましたが、
それこそ筆者の邪推の極みかも知れません。どうもホラーファンという奴は、
同好の士を感じるとなれなれしくなってしまうきらいがあるようです。
 ここはひとつ、こんな幸福な解説文を書く機会を与えて下さった岡嶋二人氏
に感謝しつつ、早々に引き退がらせていただくこととします。