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会いたい人に会いに行くツアー 第三回 作家・渡辺一枝さん  その一

 面積230万平方キロ、平均標高およそ4000メートル。世界最高峰を含む山脈に南側を、世界第二位の山を含む山脈に西側を囲まれた高原があります。その高原の名はチベット。私の心の何割かを占める、第三の極地であります。
 
 私がチベットと出会ったのは北京にいる時ですから、もう十五年も前のこと。当時私がいた学校では、「語言実践」という名目で半年に一度、一週間程度の休暇が与えられていました。その間に国内を旅行して己の中国語レベルを確かめて来い、というわけです。

 多くの学生が上海やらシルクロードやらメジャーなところを選ぶ中、まれにとんでもない大冒険を成し遂げる連中もおりました。新疆ウイグル自治区の和田(ホータン)からパキスタン、インドと国境を接するチベット西部ガリー地方を抜けてチベット自治区の区都ラサに至り、さらに東部カム地方の九十九折の山脈を越えて四川の成都まで到達するルートは平均標高5000メートル以上。もっとも苛酷で、ロマン溢れるルートでした。
 
 もちろん、これは一週間で行けるルートではなく、授業を一学期分ほとんど捨てて行くわけです。しかも十五年前のこと、青海とチベットを結ぶ鉄道もなければ、チベット西部も東部も、ほとんど未開放地域で外国人は(建前上は)入れない場所でした。
 
 ですが、所によっては標高6000メートルを超える街道をヒッチハイクで横断し、横断山脈の山すそが豪雨で崩れ去れば何日もトラックの荷台に暮らしながら、その道を踏破していく者たちがいたのです。しかもその道は国も世代も違う何人もの旅人にとって行き来され、一種の旅マニュアルが存在するほどでした。
 
 そんな豪快な旅に、鶏ハツ程度の心臓しかない私が挑めるわけもありません。当時外国人に対して唯一開かれていたルート、青海のゴルムドからチベットに入ることに決めたのです。旅の詳述は今回のテーマと外れますのでやめておきます。ただ、チベットへの旅が私に何をもたらしたか。それは日本に帰ってきた私が開いた塾に「ラサ学堂」と名づけたことで、ある程度想像していただけるかと思われます。
 
 さて、私は沢山の本を北京に持って行っておりました。もちろん、愛読書である椎名誠さんの『わしらは怪しい探検隊』と『哀愁の町に霧が降るのだ』も含まれています。その中に、椎名さんの新刊がありました。『パタゴニア――あるいは風とタンポポの物語り』という、椎名さんが南米を訪れた旅の本です。
 
 ページを開く前は、いつものように愉快な仲間とばかばかしくて熱い旅をノーテンキに繰り広げ、読者を楽しませてくれるものと思っていました。なのに読み始めてすぐ、この本だけはこれまでの探検隊シリーズや「本の雑誌」関連のものとは明らかに違っていることに気付いたのです。確かに椎名さんはいつも通り旅に出て、私たちを地球の裏側に連れて行ってくれます。でもパタゴニアで、南極海で、椎名さんは悩み、焦り、苦しみます。売れっ子作家として凄まじい多忙の中に巻き込まれた夫を支えているうちにいささかの変調を来たした奥さんの姿が、本文中で幻のように明滅するのです。
 
 読み進めているうちに、私は南米の旅がどうということより、奥さんは大丈夫なんだろうか、椎名さんは大丈夫なんだろうか、とはらはらし始めました。やがて旅は終わり、解説まで読み終えた時、私は椎名さんの奥さんが「渡辺一枝」として作家になっていることを知りました。当時はその程度の認識で、十五年あまり、その認識が改まることはありませんでした。私の中で一枝さんの存在が急に大きくなるのは、私が小説家になってしばらく経ってからのことです。
 
 ある出版社の編集者、Sさんと新しい本の話をしている時、ふとチベットの話題が出たのです。チベットの話でひとしきり盛り上がった後、椎名さんのお話になってさらに盛り上がりました。なんとSさんは椎名さんの事務所や本の雑誌社でアルバイトをされていたことがあるそうで、あやしい探険隊ドレイ希望者だった私は大層うらやんだものです。
 
 ではチベットを絡めた何か、書いていきましょうかという話をしていくうちに、私は一枝さんがチベットに深いご縁をお持ちであることをSさんから聞きました。そして彼は、せっかくチベットに関連した物語を書くのなら一枝さんに会いに行きましょうよ、と事も無げに言うのです。自分からすると、椎名さんの奥さまというある意味チベットよりも遠く思える存在なんですよ。もちろん大喜びで賛成し、六月の某日、私は夢見心地で上京したのでありました。
 
    続く

2009年8月 7日