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「三島由紀夫」とはなにものだったのか

橋本治/著

781円(税込)

発売日:2005/10/28

  • 文庫
  • 電子書籍あり

第一回小林秀雄賞受賞作。「三島」がさらに面白く読める!

“同性愛”を書いた作家ではなく、“同性愛”を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人――。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

  • 受賞
    第1回 小林秀雄賞

書誌情報

読み仮名 ミシマユキオトハナニモノダッタノカ
シリーズ名 新潮文庫
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 480ページ
ISBN 978-4-10-105414-8
C-CODE 0195
整理番号 は-15-4
ジャンル 文学・評論、ノンフィクション
定価 781円
電子書籍 価格 737円
電子書籍 配信開始日 2020/01/31

立ち読み

一 アポロ像神話

 何年か前、詳しい事情は知らないが、「アポロ像がある屋敷」として有名だった三島由紀夫邸の修理だか解体の工事があるとかいうことで、写真週刊誌の編集部にいた私の友人が取材に行った。私と会った彼がその話を始めようとして、「いやー、びっくりした」と言ったのだが、私には人の話の先を取ってしまう悪い癖があるので、すぐに、「なにが? アポロ像がチャチだったとか、そんなこと?」と言ってしまった。すると彼は目を剥いて、「なんでそんなこと分かるの?」と言った。私の断定は、「三島邸でびっくりするって言ったら、それしかないじゃない。へんな趣味だし」である。
 その以前に私は、「三島邸のシンボルであるようなアポロ像は存外チャチだ」ということを誰かが書いていたのを、なにかで読んだ。それが本当かどうかを「分からない」と思ったのは、三島由紀夫の生前には、彼に関して悪意のある書き方をする人がいくらでもいたからである。「俺がちょっとくらい踏んづけても、それで揺らぐような相手じゃなかろう」という大きさが、三島由紀夫にはあったからだろう――とは思う。だから、アポロ像の一件もそのテの悪口かもしれないとは思ったのだが、それと同時に、「意外と本当かもしれないな」とも思った。それ以前、全集だかなんだかの口絵で「アポロ像の傍らに立つ三島由紀夫」とか、「その像をシンボルとする洋館の大階段に立つ三島由紀夫」というような写真を見て、「へんな趣味だなー」と思ってしまっていたからである。
 顔を見せることを商売にしている役者や歌手でもない、作家の顔写真は、特別に立派な顔をしているか、「参考資料」でもない限り、へんなものである。どうでもいいものでもある。しかし、三島由紀夫にはそういう意識がなかったらしい。「肖像写真」を撮るためにカメラを向けられた三島由紀夫は、いつでも「私はスターだ」という前提に立っている。「スナップ写真」ではない三島由紀夫の写真を見て、私はそのように思う。まァ、人間に顔がくっついていて、作家というものが自意識過剰な生き物である以上、作家の顔写真が常に「へんなもの」になってしまうのは仕方のないことではあるが、それとは別に、三島由紀夫が自宅に飾るアポロ像は、歴然と「へんな趣味」だった。いくら古代ギリシアに傾倒していて、アポロが好きであったとしても、日本の風土にそれを麗々しく飾って、似合うわけがない。やたらの金をかけて、それに似合うような箱=家を作ったとしても、ギリシアやアポロへの傾倒を自分の作品の中で明らかにしてしまった作家が、それを自分の生活の中で絵解きしてしまうのは、歴然としてへんである――私はそう思っていた。三島邸のアポロ像は庭園に飾られていたというのだが、私の頭の中では、それがいつの間にか「大階段に麗々しくアポロ像を飾る三島由紀夫」というものに変形されていた。そして、「三島由紀夫はそういうことをへんだと思わない人なんだろうか?」と思うようになっていた。そこへ、三島邸を実見した友人の「いやー、びっくりした」である。
 取材に立ち合った彼の話によれば、これもまた有名な「大階段」は、まるで映画のセットのように奥行きがないんだそうである。遠くから見ると立派に見えるが、近くから見ると薄っぺらで、歴然とチャチなんだそうである。そういう話をして、しみじみとびっくりしているもんだから、「なんでそんなにびっくりしてんのさ?」と、私は言った。それに対する彼の答は、「だってショックじゃない」である。そう言われてしまえば仕方がない。「三島由紀夫」とは、そういう存在だったのである。
 私と「いやー、びっくりした」の彼とはほぼ同年代で、「三島由紀夫」がどんなものだったかを、二人共よく知っている。彼は、自分の知っていた「奇矯にして偉大なる時代の象徴」がチャチであったことを知ってびっくりしたが、私は驚かない。「ふーん」と思うばかりである。驚いた彼にしても、それで「落胆」するわけではない。驚きだけが宙に浮いて、今更「落胆」になる理由もない。三島由紀夫が死んだ一九七○年に「若者」だった男二人は、「僕達が通り過ぎたのはへんな時代だったんだよ」という話をするばかりである。
 三島由紀夫が生きていた時代は、確かにへんな時代だった。だからこそ、若かった我々は三島由紀夫を読んだのである――というのが、その日の我々の結論であった。もしかしたら、それは強引な私一人の結論だったかもしれないが。

 生きていた当時の三島由紀夫という人は、決してボロを出さない、そしてまた、鬼面人を驚かすようなことを公然とやってのける――それが輝きになるような、スーパーな存在だった。人は死んで、時として“伝説”になる。しかし、三島由紀夫は逆だった。生きている内、既に三島由紀夫は“伝説”だった。“伝説”なんだから、「へん」であっても構わないのかもしれない。生きている内からその存在が“伝説”であるような人は、存在自体が「へん」なのである。だから、「へん」な人が死んだら、その“伝説”も消えてしまう。「同じ時代に生きていた」ということ以外に、その人の「へん」は、意味を持たないからである。そういうことを、「たやすく忘れられる」と言う。しかし、三島由紀夫は違う。生きている内から“伝説”だった彼は、死んだ後、「すぐれた作品を残すだけの作家」になった。「作品だけになった三島由紀夫」には、生きていた時の“伝説”が当てはまる鍵穴がない。「作品だけになった三島由紀夫」は、生きていた時の“伝説”では解読出来ない。なまじそのエピソードを知っている人は、「三島由紀夫と共に生きていた時代のノスタルジーを語るだけの存在」になってしまう。ということは、三島由紀夫が、自身を隠す煙幕として数々の“三島伝説”を使っていたことの傍証にもなるだろう。それはまた、三島由紀夫が自分の生きている世の中をそれだけ嫌いだったということでもあろう。だがしかし、それで「三島由紀夫邸のアポロ像は本当に立派で美しかった」ということにはならない。今の基準からすれば立派に「大邸宅」であるような邸であったとしても、その大邸宅にある大階段は、映画のセットのような「奥行き」を演出しなかったら狭くしか見えないようなものでもある――それが日本の現実であり、そこに生きた三島由紀夫には、その不十分を補う「仕掛け」を設定するだけの頭のよさはあって、しかし、それであってもやっぱりなお、彼の誇ったアポロ像はチャチなのである。
「アポロ像神話」に代表される三島由紀夫は、そのようにややこしい。三島由紀夫の残した作品は、掛け値なしに立派な作品であって、その作品が“伝説”によって解読されることを拒むものであるのもまた事実ではあるが、しかし、三島由紀夫がその“伝説”を作り続けた「へんな人」であったことも、間違いのない事実なのである。

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著者プロフィール

橋本治

ハシモト・オサム

(1948-2019)1948年(昭和23)、東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。イラストレーターを経て、1977年、小説「桃尻娘」を発表。以後、小説・評論・戯曲・エッセイ・古典の現代語訳など、多彩な執筆活動を行う。『ひらがな日本美術史』『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』『草薙の剣』など著書多数。2019年没。

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