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天皇家の“ふるさと”日向をゆく

梅原猛/著

880円(税込)

発売日:2005/06/26

  • 文庫

天孫降臨は事実だった!? 日本神話最大の“タブー”に挑む、カラー満載の大胆推理紀行!

梅原猛が戦後歴史学最大の“タブー”に挑戦、南九州の旅で記紀の神話を実地検証。サルタヒコに導かれ天孫降臨の地を実感し、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの物語に国際結婚の難しさを思い、神話は人間の姿をとって生き生きと甦る。そして国産み・国造り物語が解きほぐされ、天皇家誕生の隠れたドラマが明らかに……。梅原流アプローチが冴えわたる、知的興奮に満ちた大胆推理紀行。

書誌情報

読み仮名 テンノウケノフルサトヒュウガヲユク
シリーズ名 新潮文庫
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
頁数 288ページ
ISBN 978-4-10-124411-2
C-CODE 0121
整理番号 う-5-11
ジャンル エッセー・随筆、宗教
定価 880円

立ち読み

一 日向神話のタブーに挑む

 旅をしたのである。日向神話を訪ねる旅をしたのである。日向神話というのは、もちろん『古事記』『日本書紀』に語られている日向神話である。
 記紀の日本神話は、高天原神話・出雲神話・日向神話に分かれていて、なぜか大和朝廷が成立した大和をはじめとする近畿の神話はほとんど語られていない。そのうち高天原神話は天上での物語であるから、地上で繰り広げられた神話としては出雲神話と日向神話のみである。しかも出雲神話と比べると、日向神話ははるかに具体的な記述に富んでいて、神話と歴史を結ぶ接点にある。記紀によれば皇室の祖先は南九州から来たのであり、その南九州からの侵入軍が大和を占領して、大王になったというのである。この大王家がのちに日本全国を征服して、天皇家となったわけである。この初代の大王が神武天皇と諡されたカムヤマトイワレヒコであった。日向神話はこのカムヤマトイワレヒコと、曾祖父ニニギノミコト、祖父ヒコホホデミノミコト、父ウガヤフキアエズノミコトの四代が、日向を舞台に繰り広げた“年代記”である。
 その日向神話の跡を訪ねようというのである。しかし日本神話、とくに日向神話に関してはまだある種のタブーが存在している。戦前から戦中にかけて、この日向神話が、日本が並びない神の国であり、他国よりもはなはだ秀れた神聖な国であるという信念に理論的根拠を与えるものとして語られた。なかでも『日本書紀』を出典とする「天壌無窮」とか「八紘一宇」などの言葉は、日本国家主義の宣伝文句として声高く叫ばれたものである。私はそのような叫びを聞いて育ち、その声によって戦争に駆り立てられた世代に属するが、しかし実際に記紀神話を繙けば、天皇の祖先である神々はけっこう好色で残虐で、とても神聖とは言えない。記紀、特に『古事記』は、そういう人間性に富む地方の王の姿を赤裸々に捉えているように思われる。そしてそこには、日本が他国よりとりわけ秀れているなどという記述もない。私は、記紀神話を神国日本の神聖さを示す証拠とした戦前の右翼の歴史観も問題であるが、さりとて日向神話ばかりか日本神話を全体として抹殺しようとしてきた、戦後の左翼の歴史観もゆきすぎだと思っている。

 戦後の古代史学は、津田左右吉(一八七三~一九六一)の説を金科玉条とした。津田左右吉は長年の文献学的研究の結果、記紀における神話時代および応神天皇以前の時代の話を、六世紀の大和朝廷が自己を神聖化するためにつくった全くのフィクションと考えた。応神天皇以後の天皇は中国の史書に記されているが、それ以前の天皇は記されていない、だから応神天皇以前の記紀の記述はすべて疑わしいというのである。記紀に対する津田のこうした疑問は、ひとつには彼の比較歴史学の方法論によるが、ひとつにはおそらく自然主義文学などの影響を受けた彼の凡人史観からきていると思われる。神代はもちろん応神天皇以前の記紀の記述には、科学的に信じられぬ奇怪な話や、凡人では到底なし得ないような英雄的な話がはなはだ多い。啓蒙主義的凡人史観をとり、日本文学のなかで最も秀れた文学は一茶の俳句であると考えた津田には、こういう奇怪なもの、英雄的なものは受け入れ難かったのであろう。
 この津田の記紀批判は、日本神話を軍国主義の道具にしようとした戦前の歴史学に対する一服の清涼剤であったことは間違いない。津田は右翼思想家の蓑田胸喜の怒りを買い、裁判にかけられて有罪になったが、自己の学説を曲げようとはしなかった。しかし日本が敗北し自由が恢復されたとき、進歩的な雑誌である岩波書店の「世界」が天皇制の特集を行ない、編集部は津田がおそらく天皇制を否定するような文章を書くであろうと執筆を依頼したが、津田は意外にも、天皇に対する親愛の念は自分の三十年来の信念であると述べて、編集部を驚かせた。もちろんこの答えにも嘘はない。彼は神秘的な衣装をまとった天皇は嫌いだったが、裸の天皇は好きだったのである。
 津田のそういう態度にもかかわらず、戦後の歴史学は津田の学説を拠りどころとして、応神天皇以前の記紀の記述をなんらかの意味で史実とする学者を、軍国主義的歴史観を復活するものとして厳しく批判した。まさに津田の学説が、正しい歴史学か間違った歴史学かのリトマス試験紙となった。私が図らずも日本古代史の研究に入ったとき、津田のこのような記紀批判はあまりに偏狭であり、記紀という豊かな史料の宝庫を有効に使わないのは宝の持ち腐れだと主張したが、たちまち公式的な左翼歴史学者から軍国主義的歴史学を復活させるものだと批判されたのである。
 津田への批判はすでにいろいろ書いているのでこれ以上は繰り返さないが、以下のことだけは言っておきたい。それは津田が文献のみで記紀を批判して、現地を訪れていないことである。彼は、出雲神話や日向神話をまったくのフィクションだとしたけれど、その神話の故郷を訪ねた形跡はない。また、津田の時代には歴史研究に考古学がほとんど採り入れられておらず、彼の歴史学も考古学的発見を参考にしたところは乏しい。彼の記紀論は、伝承をあつかう民俗学や遺跡を調べる考古学と、まったく無関係に提出されたものである。しかし、このふたつの学問の助けなくしては真実をつかむことができないというのが現代の歴史学の方向である。例えば、井上光貞氏によって構想された国立歴史民俗博物館は、文献史学と考古学と民俗学の三つの学問を組み合わせて歴史を研究することをその目的としている。それはたいへん難しいことであるが、この態度なくして新しい歴史学は不可能であろう。もしそれが新しい歴史学の方向であるならば、ふたつの学問を無視し、歴史を文献史料だけで研究しようとした津田史学は、一時代前の歴史学であると言わねばならない。
 西洋でも十九世紀にはこのような文献歴史学がさかんであり、ホメロスの『イリアス』や『聖書』に記されているトロイア戦争やバビロン捕囚の話などはもちろん、ソクラテスやイエス・キリストの実在すら否定する歴史家もあった。津田の歴史学は世界史的にみればそういう歴史学の流れのなかにある。ところが素人考古学者とでも言うべきシュリーマンは、ホメロスが『イリアス』や『オデュッセイア』で語ったトロイア戦争の歴史を真実と確信し、その伝説の地を発掘してさまざまな遺品を発見した。シュリーマンが発見した遺跡は、必ずしもトロイア戦争当時のものではなかったが、以後、考古学は発展し、トロイア戦争は決して架空の出来事でないことが明らかになった。『聖書』に関しても、ユダヤ人のバビロン捕囚の話はもちろん、ノアの方舟の洪水の話すら史実であることが確かめられた。二十世紀の学問は、十九世紀の学問と大きく性格を異にしているのである。

著者プロフィール

梅原猛

ウメハラ・タケシ

(1925-2019)1925年宮城県生まれ、哲学者。国際日本文化研究センター顧問。京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。縄文時代から近代までを視野におさめ、文学・歴史・宗教等を包括して日本文化の深層を解明する幾多の論考は〈梅原日本学〉と呼ばれる。著書に『隠された十字架一法隆寺論』、『葬られた王朝一古代出雲の謎を解く』、『親鸞「四つの謎」を解く』(以上すべて新潮社)など多数。

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