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私の息子はサルだった

佐野洋子/著

432円(税込)

本の仕様

発売日:2018/05/01

読み仮名 ワタシノムスコハサルダッタ
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-135416-3
C-CODE 0195
整理番号 さ-30-6
定価 432円

著者プロフィール

佐野洋子 サノ・ヨウコ

(1938-2010)1938(昭和13)年生れ。幼少期を北京で過ごす。1962年武蔵野美術大学デザイン科卒業。ベルリン造形大学でリトグラフを学ぶ。創作絵本に『100万回生きたねこ』『わたしのぼうし』『ねえ とうさん』(日本絵本賞、小学館児童出版文化賞)など、創作童話として『わたしが妹だったとき』などがあり、そのほかにエッセイ集『ふつうがえらい』『神も仏もありませぬ』(小林秀雄賞)『覚えていない』『シズコさん』『役にたたない日々』『死ぬ気まんまん』、小説『あの庭の扉をあけたとき』『クク氏の結婚、キキ夫人の幸福』などを発表している。2003年紫綬褒章受章。2010年11月永眠。

書評

読めて幸せ

内田春菊

 これはまいった! 洋子さん節はまたもや素晴らしく、あっという間に引き込まれ、尊敬する洋子さんの息子さんであるが今は友人となった広瀬弦さんを、私はずうずうしくも母目線で見てしまうではありませんか。
 洋子さんのどこかの文章に、「私は息子に夢中だった」という一節があったなあ。「息子、不良だったんだけどね、学校に何度も呼び出されてね。今思うとあの充実した日々!」としみじみおっしゃっていたことがあったなあ。
 子どもが一人だと、それがたとえ娘でも、母親は熱烈な恋人のようになってしまう気がする。息子なら尚更のこと。私の一人目も息子で、二人目が生まれるまで五年近く、子にデレデレな自分を悟られては大変、仕事人として見捨てられてしまうと思い込み、歯を食いしばって「カワイイ」という言葉を口にしなかった。なるべくクールに付き合っているところをアピールしようとした。今も子の小さな人たちの仕事に触れるたび(無防備に子のための甘々な仕事をしてる人もうらやましく思うが)、舐められてなるものかと普段にも増して激しい表現に飛び込んで行っているのを見ると猛烈に応援したくなる。
 洋子さんはタニバタさんに「ねえケンが一番素敵でしょ!?」と言いたかったかもしれない。嫉妬もしたかもしれない。思い出すのは私の息子①が二度目に女子に告白したときのことです。一度目はませた友だちにそそのかされて行ったので、玉砕したけど小さかったし、さほどこたえていなかった。その二度目にも、その後も何度か別の女子からも言われることになる「友だちにしか思えない」を言われ、まあ彼はそんなに落ち込んでは見えなかった。しかしその直後、その相手が別の子たち(男女混合)と私たちの家に来た時、楽しく遊んでいるのだが、もしかしたら息子は辛いのではないだろうかという考えが私の頭から離れなくなってしまったのです。
 そんで私は、寝室に隠れて泣いてました。何やってるんでしょうか全く。
 年取ってる分いろんな経験に引っ張られるんでしょうけどね。「あの時は気づかなかったけど私は傷ついていたなあ」ってのあるじゃないですか。
 そんな息子①も相手の女子も、今はそれぞれ恋人がいます。弦さんにも可愛い妻がいて、私にもよくあれこれお知らせをくれます。
 うむ、短いけどまたもや名著誕生! と思っていたら、衝撃の弦さんのあとがきが届きました。20年以上も子どものことを描き続けている私はうなるしかありません。
 私は子に「これマンガに描かないで~」と言われたことはあっても、全面禁止はされたことがない。物心付いた時にはもう当たり前のように描かれてたからでしょうか。描かないでと言われたのに描いたことが実は二回。娘②が「カチューシャ」を「プイッチ」と呼んだことと、息子②がお風呂からそこだけ出して「ちんこ島~」と言ったこと(どっちも幼児の頃ですよ)。この文章を書くにあたって、弦さんのような経験はなかったか、現在家にいる子らにインタビューしてみました。
「うんまあ、似たようなことは(息子②)」
「でも応援もしてくれるし(芸能活動してる娘②)」
「その、あなたのこと知ってるって言ったおばさんがよっぽど怖かったんじゃない? かわいそう(娘①)」
 周りで育児マンガ描いていた人も、子が大きくなると「子が読むから」などの理由で描かなくなって私は淋しい。私の子らは今も私のマンガを読んで「あったね~」と笑い転げたり、「あたしたちがカワイイ~」と喜んでいるのです(何故か反抗期とかもなく……)。
 しかし弦さんの文章は面白い。私は洋子さんのお葬式の時のスピーチからすっかり弦さんトークのファンなのです。もっとこの文章で弦さんのこと、洋子さんのことを読みたいものです。

(うちだ・しゅんぎく 漫画家)
波 2015年6月号
単行本刊行時掲載

母の時間、子の時間

角田光代

 子どもが大人になるのには、途方もなく時間がかかる。二十四時間の一日が三百六十数回くりかえされてようやく一年。しかもずいぶん長いこと、子どもはひとりで生きることができない。ある時期、べったりとだれかに面倒を見てもらい、べったりと世話してもらい、それでようやく大人になる。大人になると、三百六十数日を二十回も三十回もくりかえしてきたことを、忘れてしまう。その一日一日、だれとどんなふうに過ごしたのかなんて忘れてしまう。印象深いことだけが、印象深く残る。ふつうの日なんて、ないも同然になる。
 この本に描かれているのは、ゆっくり成長していく子どもを一日一日見つめる母の時間と、一日なんてないも同然の子どもの時間、ふたつの時間だ。子どもはたぶん、成長したときには覚えていないだろう。こんなふうに母に見つめられ、何に夢中になって何に傷ついて何を大切にしていたか。母が書きとめた、ささやかながら完璧な幸福は、子どもにはふつうすぎて、記憶する価値すらないのである。
 ちいさな男の子が、家という小宇宙からもっと広い世界に出ていく。友だちができる。好きな子ができる。仲間ができる。馬鹿みたいなことを言ったりやったりしてふざけている。それを見つめる母親はきっと、ああ馬鹿だなあと思っているだろう。けれども私は、その母の視線のなかに畏敬が含まれていると感じる。母と娘、母と息子という組み合わせは、「母と子」とひとくくりにできない違いがあると思う。母と娘の場合は、おそらくもう少し距離感が近くなる。娘が幼いころはとくに、母親の娘を見る目線には分身を見るような近しさが混じるのではないか。けれどこの作品での母親は、自分とはまったく異なるもの、理解を超えたものとして息子を見、その差異と意味不明さを尊く感じている。読んでいてそう思う。それをこの作家はたとえば猿と表現する。ただ呆れているのではない、驚異と敬意を持って、そう書くのである。
 そうして母親は、息子の好きな女の子が遊びにきた日、息子のある瞬間を目撃する。そのとき母親は、愛も憎悪もまだ知らない幼い息子の、いちばんやわらかい部分に触れる。これはもしかして、ケンという子の本質なのかもしれない。思いもかけず本質に触れてしまった母親は、もしかしたら、一生かけてこの本質を守ってやらねばならぬと無意識に覚悟したのかもしれない。もちろんそんな瞬間のことも、子どもが覚えているはずがない。
 やがて子どもは成長し、母親を疎んじ、あんまり口をきかなくなる。このころから子どもはいろいろ記憶する。いろんなことが当たり前ではなくなるからだ。幸福も、不幸も。母を「うざい」と思いはじめることも、また、それまでとの「ふつう」とは異なるから、記憶する。皮肉にも、面倒を見てくれて、話を聞いてくれて、守ってくれた母の記憶は日々に紛れて無いのに、うざくて、説教くさくて、わかってくれない母が、最初の記憶のようにして子どもに残る。そんな子どもをも、母は黙って見つめている。この二つの時間は交わることがない。この二者が他人同士だったらいつか交わるかもしれない。子どもが親になったとき、ようやく親の時間を理解するけれど、それはかつての母の時間とは同じではない。またべつの、子を見る親の時間である。
 この本に流れる二つの時間の両方に身を浸しながら、私はかつて自分の持っていたまったき幸福を知った。それは、あまりにふつうすぎて記憶にも残っていない一日一日だ。何気なくこぼした子どもながらの一言も、聞き漏らさなかった母親ながらの耳だ。
 幼い子どもの、たった一日のある瞬間を、母親はずっと忘れなかった。えらくならなくていい、お金持ちにならなくていい、あなたの持っているいちばんきれいなものを、どうか持ったままでいて。このささやかな思いは、親が子どもに手渡すことのできるいちばん尊いものではないだろうか。佐野洋子は、今ここにいなくても、こんなにもうつくしいものをまだ私たちに見せてくれる。

(かくた・みつよ 作家)
波 2015年6月号
単行本刊行時掲載

判型違い(書籍)

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