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最後の長編小説。昭和21年、ハバロフスクの収容所。ある日本人捕虜の、いちばん長い一週間。『吉里吉里人』に比肩する面白さ!

一週間

井上ひさし/著

2,052円(税込)

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発売日:2010/06/30

読み仮名 イッシュウカン
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 527ページ
ISBN 978-4-10-302330-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 2,052円

昭和21年早春、満洲の黒河で極東赤軍の捕虜となった小松修吉は、ハバロフスクの捕虜収容所に移送される。脱走に失敗した元軍医・入江一郎の手記をまとめるよう命じられた小松は、若き日のレーニンの手紙を入江から秘かに手に入れる。それは、レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった……。

著者プロフィール

井上ひさし イノウエ・ヒサシ

(1934-2010)山形県生れ。上智大学文学部卒業。浅草フランス座で文芸部進行係を務めた後、「ひょっこりひょうたん島」の台本を共同執筆する。以後『道元の冒険』(岸田戯曲賞、芸術選奨新人賞)、『手鎖心中』(直木賞)、『吉里吉里人』(読売文学賞、日本SF大賞)、『腹鼓記』、『不忠臣蔵』(吉川英治文学賞)、『シャンハイムーン』(谷崎潤一郎賞)、『東京セブンローズ』(菊池寛賞)、『太鼓たたいて笛ふいて』(毎日芸術賞、鶴屋南北戯曲賞)など戯曲、小説、エッセイ等に幅広く活躍した。2004(平成16)年に文化功労者、2009年には日本藝術院賞恩賜賞を受賞した。1984(昭和59)年に劇団「こまつ座」を結成し、座付き作者として自作の上演活動を行った。

書評

波 2010年7月号より [井上ひさし『一週間』刊行記念] 小説家井上ひさし最後の傑作

大江健三郎

井上ひさしさんの死の知らせを受けて、大きい崩壊感にとらえられていました。これまでそこにあった建造物が崩れてしまった、という認識ですが、同時に、この人とひとつ時代を生きてきた自分の、かなりの部分が崩れていることに気付くようでもあって、ただかれの著作と手紙を再読するのみでした。
とくにここ十年ほどの、戦前・戦中・戦後の日本人像を的確に総ざらえする演劇群に、舞台の光景と幕間に短かく話したかれの面影がよみがえって新たに感銘したのですが、小説としてはかれの壮年時の『吉里吉里人』の大きさ、豊かさが圧倒的でした。そして、これらの全体が連作をなす(そういっていいように思う)戯曲のためにささげられた時間の幾割かを、井上さんが長篇小説にあてていてくれたら、という遺恨の思いもあったのです。
ところが、井上さんの死から一月たって、私もやっとひとつ追悼の文章を書きえたところへ、それが雑誌に連載されていることも知らなかった長篇小説『一週間』の、五百ページにわたるゲラ刷りが送られて来ました。私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作であることを確認しました。劇場で幾度もあじわわされたドンデン返しの、井上さんの生涯をかけた最大のものに立ち合うことができた思いです。
あらためて井上ひさしは、昭和・平成に屹立する、劇作家・小説家・人間であった、という感情。こういう人と親しく同時代を生きることができた、という感慨が、かれの死による崩壊感を償ってくれるようですらありました! この本は大きい読者を魅きつけて、永く読みつがれるでしょう。
いま私は、書評としては大きいスペースをあたえられていますが、これだけ周到にデータを準備した上で、不逞なほどの構想を押し出し、千変万化の筋書きを縦横無尽に語り通す小説を、ソツなく要約できるとは思いません。読者が、六十万に及ぶ日本人捕虜を収容した、シベリアからソ連全土にひろがる強制労働の場を、その極寒の地獄から目をそらさず読み続け、それも笑いをふくめた闊達な語りを楽しんで、ついにはドンデン返し続きの大活劇にいたっても、リアルな時代感覚を保障されつつ完読されることを望みます。私としては、自分らの純文学の入り込んでいる窮地とは無縁でいながら、戦後日本人のもっとも重い課題のひとつを正面から引き受け、その人間観・時代観の深さに共感させる井上ひさしの大エンターテインメントの手法を、ひとつずつ読みとってゆくことにします。
まずそれが設定する場と人物の凄さ! それほどに大きい主題であるゆえに(もとよりそれを現実の体験として生きた知識人の作家による秀作があり、井上作品とはまた別の仕方で企てられたエンターテインメントもあるけれど)、このように篤実な仕方で主人公をそれに向かわせ、奇想天外な冒険にまき込み、かつ説得的な終幕をみちびく、という労作はなかったと思います。
これだけ二重三重にたくらまれたプロットに、見たところ普通の語り手を送り込んで複雑な情況を明瞭に報告させ、読者に生きいきと受け入れさせるには、その人物像がなによりクッキリ性格づけられる必要があります。しかもかれは、天性のユーモアあふれる語り口を持っている。そこを除けば格別とびぬけたタイプではないようだけれど、なかなか苦難にくじけない、つまりは井上ひさしの他には誰も作りだせなかった人物像。
その小松修吉は、まず兵士シュベイクをスマートにしたような、屈託ない様子で現れます。そしていかにもニュートラルな感じの、その目と耳が受け入れるものを、そのまま読者に手渡す。シベリアの苛酷な風土、市街の景観、日本語をそれぞれ高度に習得した赤軍将校たちの自己表現。ていねいに、しかし何気なく示されるそれらのいちいちが、じつにふんだんに集積された情報を注意深く整理したものであることを感じとる読者は多いでしょう。井上さんはロシア文化を、日常レヴェルで多面的に体得していられる夫人、その姉の米原万里さんのお二人に、徹底的に学習されたはず。こうした確実な細部の基礎がためこそが、ディケンズ以来、本当に偉大なエンターテインメントの条件です。
そのうち、小松修吉のじつは並じゃない内面が、少しずつ露出してきます。農村出身の修吉は、一九三〇年代に苦学して大学を卒業しますが、『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けたらしい。共産党の地下運動に加わって働き、「M神話」として語りつがれる官憲のスパイにもたらされた党組織の潰滅の後、入獄・転向する。そうした若者にわずかに開かれていた新天地満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その短かからぬ日々、かれは満洲語、中国語、ロシア語を習得する。一方でかれには、奇怪な任務をやりとげて満洲に逃れたとされる「M」をつきとめて、報復したい執念があったのらしい。しかし守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活をしているのです。
さて、井上さんがそこに持ち込む大きい仕掛けが、この修吉を、日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞で働かせることです。修吉は収容所仲間の話を聞いて廻り、さらに広く調査にも出て、仕事をこなしてゆく。赤軍将校たちそれぞれにクセのある日本語も聞き分ける能力が信頼されます。その過程でかれは、捕虜たちの生活の極度の悲惨が、ハーグ陸戦法規の俘虜条項に赤軍も日本軍も無知であったことに因るのであり、収容所でもそのまま踏襲されている旧軍幹部の秩序がそれを拡大させていると気付きます。すでにその非を赤軍に訴えて旧軍幹部の収容所での特権を打破しようとしながら、かれらの勢力に撲殺されたという人物の志をつごうと覚悟をきめます。
そのうち脱走を試みて失敗したもと軍医の体験を、捕虜いましめ用の手記にする取材に出かけた修吉は(これこそ井上ひさし独特の着想ですが)その捕虜が隠し持っていたレーニン自筆の手紙(!)を渡されます。自身少数民族の出で、その解放のためにも革命を志したソヴィエト最大の英雄が、対極の国家観へと転換したとあきらかにする手紙。それを武器に、修吉は百六十万の極東赤軍を相手どり、捕虜収容所の改革をかちとる戦いを始めます!! 日本語新聞とその上位の赤軍将校たちは、レーニンの手紙を国際的に公表するという修吉の脅迫に、なんとか隠されている手紙を奪い取ろうと、あの手この手を繰り出します。そこで小説はエンターテインメントとしても規格外れの大展開をあらわすことになる……
さて、結末は、というところまで明かすのはルール違反ですから、以後は井上さんが生きていられたなら読後すぐ手紙で伝えたはずの着想を、二つ書くことにします。
第一は、ちょうど井上さんや私らの父の年齢にあたることが明記されている小松修吉の人物像が、――もし父親が病に斃れなかったとしたら、このような働きをしたろう、という井上さんの思いを反映しているのじゃないか、ということ。その不屈の元気さとユーモア、人間的な素質としての倫理性。じつは私も、不幸な死をとげた父親のことを『水死』に書きながら、まさに自分の大切に思い描く資質に作ったものでした。
第二は、組織の上官らが甘言から死の脅迫までやりつくして発見できなかったレーニンの手紙の隠し場所を、赤軍法務中尉の女性マリア・ワシーリエヴナが色仕掛で聞き出そうとするシーン。修吉はその倫理性(人間を・また人間として、辱かしめ・辱かしめられてはならぬとする気質)から怒りにかられるのですが、それにしても笑いにみちていながら謹直さは外さない井上ひさしの書くこととして、意外な一節について。
《腹の根元、金色の毛の密生したあたりからクリトリスが芽のように生えていた。/「ねえ、早くわたしの芽を摘んで」》腹を立てた修吉は手荒な振舞いに出るけれども、やり過ぎに気がつくと、女将校は《ただいま天国で遊んでおりますといったような不安のない顔をしていた。》
これから修吉がさらに酷寒の北シベリアで暮すことになるのであれ、折にふれかれが健康な壮年の男女の、その懸命なからみあいを思い出す時があれば、そこにはある微笑が浮かびうるのではないか? 私はそれを準備する仕掛けだったか、と思いあたります。

(おおえ・けんざぶろう 作家)

目次

月曜日
1 ハバロフスクへ
2 日本新聞社
3 食堂の賄い主任
4 哲学者撲殺事件
5 正午
6 昼休み
7 午後の試験
8 Mの噂
9 セザンヌ大画集
10 徐波という店員
11 二つの大事件
火曜日
1 出張聴取
2 脱走計画
3 スープをすする廃帝
4 入江軍医中尉の脱走談
5 入江軍医の回心
6 痒みの原因
7 レーニンの背信
8 楽園駅で
水曜日
1 偽脱走記
2 春がきた ヴィスナー・プリシュラー
3 恋文
4 自画像
5 裁判
6 先生の手帳
7 賭け
木曜日
1 取引き
2 鏡の架かった壁
3 ソーニャ
4 集団銃殺刑
5 賭ける
6 オロチ人の看守
金曜日
1 ザイツェフ閣下
2 街で一番の仕立屋
3 旧友交歓
4 のこる理由
5 この世でもっとも恐ろしい拷問
6 レーニンの手紙は破かれた
7 逆戻り
土曜日
1 手紙の値打ち
2 オロチ人の立場
3 待ってるわ ジャッタンドレ
4 屋上楽園
5 剃刀の刃渡り
日曜日

判型違い(文庫)

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