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あなたたち後世の人々よ。改竄された物語に、私が耐えられると思うか?

  • 受賞第67回 読売文学賞

女たち三百人の裏切りの書

古川日出男/著

2,700円(税込)

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発売日:2015/04/28

読み仮名 オンナタチサンビャクニンノウラギリノショ
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 502ページ
ISBN 978-4-10-306076-5
C-CODE 0093
ジャンル 歴史・時代小説
定価 2,700円

死して百有余年、怨霊として甦り「本もの」の宇治十帖を語り始めた紫式部。一方、海賊たちは瀬戸内に跋扈し、蝦夷の末裔は孤島で殺人術を研き、奥州の武士たちは太刀と黄金を全国に運んでいた。いくつもの物語は次第に交錯し、やがてひとつの像を結ぶ。圧倒的なスケールと幻視力で紡がれる《古川日出男版》源氏物語。
【読売文学賞(小説賞)受賞作】

著者プロフィール

古川日出男 フルカワ・ヒデオ

1966年福島県郡山市生まれ。1998年に『13』で小説家デビュー。2002年、『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞および日本SF大賞を受賞。2006年、『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞。2015年刊行の『女たち三百人の裏切りの書』で、野間文芸新人賞および読売文学賞(小説賞)を受賞。他の作品に『聖家族』『馬たちよ、それでも光は無垢で』『冬眠する熊に添い寝してごらん』など。

書評

女人は欲望を肯定する――まつろわぬ浮舟の物語

倉本さおり

 古来、「裏切り」とは甘美な薫りを纏うもの。
「裏」切るからには当然、「表」もそこにある。いうなれば「裏切り」という所作は、対をなす関係性があってはじめて成立するものなのだ。しかも両者は逆説的な信頼によって、分かちがたく結び付いていなければならない。
 書物をめぐる共犯関係――そう、まさしく「語り手」と「読み手」、あるいは「作者」と「読者」のこと。
 この両者の立ち位置をくりかえしくりかえし転覆させながら、その古びた結び目をぴかぴかになるまで洗いあげていく――『女たち三百人の裏切りの書』が試みているのは、千年前に一人の女によってもたらされた「物語を享受する悦び」の、壮大にして幸福な問い直しの作業なのである。
 舞台の幕があけるのは院政期、ひっきりなしに護摩が焚かれる貴族の邸内。物の怪のしわざによって病床に臥せっている姫・紫苑の君のため、その情人・中将建明と、側付きの女房・ちどりが、紫苑の君の乳母子である少女・うすきを憑坐(よりまし)(霊を乗り移させるための形代)にしようと試みている。降霊は無事成功、愛しい君の回復の兆しに建明が安堵したのもつかの間、その怨霊がほかならぬ「藤式部」、すなわち紫式部を名乗ったからさあ大変。「この俗世に流布する物語の贋ものぶりに。書き改められていることの怨めしさに」――自分の物語が改竄されていることに、激しい憤りをぶちまける藤式部。かくして百年の時を経て、「ほんとうの」宇治十帖が夜な夜な語り継がれてゆく事態となる。
 宇治十帖といえば、いうまでもなく光源氏亡き後の話。宇治を主な舞台にしている点に加え、それまでの『源氏物語』の書きぶりとは異なる点が多いため、別の作者が書いたのではないかとも言われている。実際、後世の読者のあいだでは、宇治十帖はあまり人気がない。その理由は、本作中の藤式部自身が「魅力のない男君(おとこぎみ)」(!)と評するとおり。外面的にも内面的にもきらびやかであぶなっかしい色気を振りまいていた、いわばナチュラル・ボーン・ホストの光源氏に比べ、芳香を漂わせてはいてもあくまで地味メンの薫と、ただのイケメンおぼっちゃまの匂の宮では、主人公としてどうしても見劣りしてしまう。
 そもそも作中でも強調されるように、「宇治」という地は「憂し」の感性に通ずる。不義の子であるがゆえに、なにかにつけて厭世的な薫はもちろん、父の遺言の呪縛から、薫に熱烈な思いを寄せられても苦しむばかりの大君、そして男を両天秤にかける罪深さに耐えられず入水自殺を図る浮舟の姿は、暗く、沈鬱で重々しい。
 ところが、この藤式部によって語り直される「宇治の物語」は、趣がちょっと違う。薫と匂の宮、「魅力のない男君」ふたりは、互いに入れ替えても成立するような、のっぺらぼうで軽薄な会話を繰り広げる。これは大君と中の君のふたりも同様。殿方から文をもらって狼狽し、中身のない会話を交わしながらその返信を押し付け合う様子はさながらコントだ。加えて登場人物たちはみなお約束のように憂し・憂し・憂しの連呼。「筋」は同じはずなのに、「語り」ひとつで醸し出されるコミカルな味わいは、私たちの知る宇治十帖のイメージとはずいぶんと異質に映る。
 ただし、「語り」は「騙り」。
 それは『アラビアの夜の種族』をはじめ、古川文学に通底するテーマでもある。ときに優美に、ときに野卑に、強弱も緩急も自在に操るこの稀代の「語り手」は、のちにとんでもない結末をもたらす仕掛けをいくつも孕んでいる。

裏切る女、裏切られるプロット

 憑坐・うすきの口を通じて語り直され、ちどりの手によって冊子に綴られてゆく「宇治の物語」。その中で、「裏切る女」として最初に登場するのは大君である。
 姉である大君は父・八の宮が急逝した後、肉親の将来を慮るという建前で、自分に懸想する薫をひそかに妹の中の君にあてがおうとする。それは自分自身が「憂き世」のわずらわしさから逃れるための口実でもあるのだ。けれど彼女の思惑はもろくも破れ、逆に薫の手引きによって紛れ込んだ匂の宮が中の君と結ばれてしまう。しばらくして大君は、中の君が多情な匂の宮に棄てられたと誤解し、ふさぎこんだまま死の床につく――ここまでの「筋」は、私たちがよく知る『源氏物語』の宇治十帖とほとんど同じ。
 だが、最初に裏切った女は、じつは大君その人ではない。本作における「女人たち」は、この時点で「聞き手」である建明とともに、すでに「読み手」である私たちをも鮮やかに裏切っているのだ。
 ちょうど「宇治の物語」から大君が退場したところで、「この物語」――つまり『女たち三百人の裏切りの書』は急転する。ふた晩にわたって憑坐としての務めを果たしたうすきは、双子の片割れ・むくに向かってこんな言葉を放つ。
〈「次回の夜にはね、式部はそのままは語らないわ。藤式部はね、用意された筋のほうは裏切るのよ。つまりね、ちどり様を裏切るのよ」〉
 用意された筋――実際は、うすきに藤式部の霊など憑いていなかった。彼女は演じていたのである。さらにいえば紫苑の君も、もとより怨霊に祟られてなどいなかったことが判明する。
 紫苑の君は、愛しい建明を出世させ、正妻の座を射止めるため。女房のちどりは、後宮じゅうのライバルたちを出し抜き、己の文才を轟かせるため。彼女たちは、自分たちのサロンから新しい『源氏物語』を生み出し、世間の評判を集めることで、それぞれの宿願を遂げようとしたのだ。物の怪騒動は、その目標を達成するための装置にすぎない。
 要するに、すべては「女人たち」が仕組んだ「裏切り」だったわけだ。
〈「だって、私は宮中の女たちのすべてだって」/――裏切ってやるもの、とちどりは言った。その部分は声には出さない〉
〈さらに巧妙に愛する中将を騙すために。世の中のすべてを騙すために。/愛のために、さらに紫苑の君は情人をしたたかに裏切る〉
 いずれの女もじつに気持ちの良い裏切りっぷりである。
 好奇心。出世欲。そしてありったけの恋情。ここにいる女たちは、「裏切り」を通じて高らかに欲望を肯定する。それこそ「人として描き切られた女人たち」の姿にほかならない。
 ここでひとつ注意しなければならないのは、単なる演技者にすぎなかったはずのうすきが「用意された筋」をも裏切ってしまう点。その結果、満を持して登場する浮舟は、複雑に絡まり合う「裏切り」を一身に浴びた――つまり私たちがよく知るプロットの埒外で生まれた、面妖な存在へと化ける。
 一般的な浮舟のイメージといえば、その呼び名のとおり、運命に「流される」はかなげな女性の姿だ。ところがこの新しい浮舟は、匂の宮のちょっかいを艶っぽくいなし、お付の女房の前で平然と添い寝までこなす始末。口癖といえば、「私、いずれにしても裏切られますから」。そうしてにっこりと微笑む蠱惑的な姿は、従来の浮舟像からはかけ離れている。
〈ああ、私はこんな女を待っていた。そうです、私こそが浮舟の登場を待ち望んでいたのです〉
それは予め練られたちどりの脚本にあった台詞なのか、はたまた、「語り手」うすき自身から漏れ出た真意なのか。いずれにせよ、その言葉が「女」の口から出たという事実は、本作の根幹に触れていると考えていいだろう。

時代にとっての「本もの」とは

〈私は、「源氏物語」の続篇の、本ものを与えに来たのだ。/女に。欲した女に。その欲心に酬いに来たのだ〉
 百年後の女たちの欲望に応えるために語り直される、「本もの」の物語――それは、「読み手」にとっての「ほんとう」を取り込んだ物語、と言い換えることも可能だろう。
〈この現代という世に重用されること。ならば新しい展開は含まれなければならない。現代の、現実の感覚というものが宇治の物語に混じってこなければならない〉
 紫苑の君は、宇治十帖を「現代の読者のための」物語に作り替えるべく、新たな存在にスポットを当てることを思いつく。当世において没落する貴族と入れ替わりに台頭しはじめた者――すなわち「武士(もののふ)たち」である。
 私たちの知る『源氏物語』の中でも、浮舟の母は、大君・中の君姉妹の父・八の宮に棄てられた後、受領階級の男と再婚し、東国へと下る。その「筋」をベースにあたらしい「宇治の物語」を膨らませ、東国の武士の影響をじわりじわりと浸透させていくことが紫苑の君の狙いだった。要するに紫苑の君とちどりは、「武士のための」源氏物語を世に送り出すことで、彼らの台頭に「物語」の力で権威を与えると同時に、「現実」の彼らに建明を支援させようとしたわけだ。その作中で幾度となく描写される美麗な刀剣とまったく同じものを建明に佩かせ、さも彼らの象徴であるかのように振る舞うことによって。――ここに「物語」による「現実」の侵食がある。
〈僕はね、これを求めていたのですよ。つまりね、紫式部による、武士のための『光源氏の物語』なり『紫の物語』なりを〉
 彼女たちの計画の仲介役を務める商人の男はこんなことをいう。だが、かつて「貴族のための」物語が求められたように、「武士のための」物語があれば、他の者たちのための物語も求められる――まさに前述のとおり、「女」たちのための「本もの」の物語が希求されたように。
 ここまであえて触れてこなかったが、この『女たち三百人の裏切りの書』には、女人たちの紡ぐ「宇治の物語」を囲むように、いくつかのサブプロットが絡み合っている。「武士たち」「海賊(うみぬすびと)たち」「蝦夷(えみし)たち」――貴族社会の衰退とともに、あちこちで新興し跋扈する彼らの欲望は、やがて三人の女たちが三様に生み出す物語におのずと惹き寄せられていく。それは、猥雑で混沌としたエネルギーが、「物語」という言葉を食み、くっきりと輪郭を得ていく過程にほかならない。
〈考えているものは「言の葉」であり、説明を試みようと思いついたその刹那から、夢は、さまざまな言辞を貼付されるからだ。すなわち夢は、想い起こされて釈(と)こうとした場合にどころか、想い起こされる対象と目された瞬間から言葉をむさぼる。ただちに言葉は、夢の実体さながらのものと化すのだ〉
 これは跋扈する勢力のひとつ、「海賊たち」の最初の章に出てくる一節だ。この中の「夢」というキーワードを、ためしに「欲望」と入れ替えてみれば、本書がもたらそうとしている真実がするりと読み解けることに気づく。つまり「この物語」は、歴史のすみずみに横溢していたはずの欲望に血肉を与え、人の世の「ほんとう」を描き出すために編まれているのだ。従来の「筋」(=史実)の「裏切り」によって生まれた新しい浮舟の姿は、時の経過にまつろわない「ほんとう」の言葉の力の象徴なのだろう。
〈日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ〉
『日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎない。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄、すなわち「ほんとう」のことは書いてあるのだろう――『源氏物語』の「蛍」の巻で展開される紫式部の物語論は、むろんこの真実を穿っている。
 歴史書では繙けないこと。史実のあいまに潜む「ほんとう」のことを、言の葉の力で隙見(すきみ)する――それこそが、「本」ものの物語の業なのである。

(了)
新潮 2015年6月号より

紫式部が『源氏物語』を裏切る

島内景二

 闇夜の中、「目を覚ませ、来歴を変更したい者たちよ」と呼ばわる声が響く。「彼女は必ず来る。もう、そこまで来ている。彼女を迎え入れる千載一遇の機会を逃すな」という声も聞こえる。
 声の主は、古川日出男。その声で目覚めたのは、悩める現代人。やって来る者は、紫式部。彼女は、救済者なのか。それとも、破壊者なのか。それとも神やゴドーと同じく、待たせるだけ待たせて遂に到着しないのか。
 古川は紫式部の霊魂を後世の「憑坐(よりまし)」に乗り移らせるに際し、まずは十二世紀初頭の院政期を選んだ。歴史の大きな岐路であるという点で、現代日本の写像だからである。
 平安京の内裏に君臨し、国家の重心であり続けてきた天皇制が、あっという間に溶解した。天皇の父である上皇が院政を布くようになり、幼帝ばかりが即位する。色好みの天皇の性愛の対象であった後宮も、有名無実化した。藤原氏が摂政・関白となって天皇を補佐する政治システムも、形骸化した。
 国家の中枢は文化的に劣化したが、辺境の西海では、野性的な海賊たちが跳梁し始めた。それを利用して、武家である平氏が中央政界での台頭を試みる。もう一つの辺境である東北でも、まつろわぬ「化外(けがい)の民」である奥州藤原氏が勃興し、都の藤原氏との提携を模索する。
 国家や文化の変更は、何によってもたらされるか。古川の考えでは、王朝文化を終焉させたのは、何と『源氏物語』だった。王朝末期から中世初頭にかけての『源氏物語』の読まれ方の一大転換が、『源氏物語』を生んだ王朝文化に引導を渡した、というのだ。
 古川は、物語を埋め込んだ作品を紡ぐことで、近代日本という国家概念だけでなく、小説という文学ジャンルを生んだ近代文学にも引導を渡そうとしている。『女たち三百人の裏切りの書』は、壮大な野心の書である。古川は、近代日本の文化システムをまるごと裏切ろうとしている。最終的には、現代日本を裏切りたいのだ。「裏切り」とは、パラダイムの転換、現代化、アップデートなどとも言い換えられる。
 この作品の書き出しは、どういう設定か。世間に流布している宇治十帖は真作ではなく、偽作された贋物だと憤る紫式部の霊魂が、憑坐の少女に憑依して「これが真実だ」という宇治十帖を語りだす、というのだ。
 だが、作品を読み進めるうちに、これまで世間に流布している宇治十帖も、紫式部の霊魂が憑依して語り始めた新しい宇治十帖も、どちらもが「真実=本物」であると、わかってくる。
 十一世紀の時点では、確かに、現行の宇治十帖だけが本物であった。作者の紫式部が、そのように書いたのだから。けれども、十二世紀の変革期において、宇治十帖が読者の心を動かす「真実の宇治十帖」であり続けるためには、抜本的な書き換えが必要となる。価値観が変わったのだから、それに合わせて物語も変容・変身せねばならない。しかも、である。十二世紀の人間にとっての「真実の宇治十帖」は、決して一つではないのだ。
 人間の野望や夢は、一人一人で異なっている。西国の海賊と夢を同じくするか、奥州藤原氏の力を借りて、かつての権力を回復するか。はたまた、海賊や奥州藤原氏の周縁にいる平氏や宗教勢力と共同戦線を張るか、坂東武士のように局外にあって冷静に傍観するか。
 十二世紀の男たちや女たちを突き動かしている欲望は、無限である。それに応じて、宇治十帖は変わる。変わらねば贋物である。贋物は、生きていられない。たちどころに死んでしまう。紫式部が十一世紀に書いた宇治十帖を裏切ること、十二世紀にふさわしい宇治十帖にアップデートすること、それが宇治十帖を本物にする。浮舟の生き方も、主題も変わってくる。
 歴史と文化の変革期に、宇治十帖の多種多様な改作が涌出し、その構想力の優劣を競い合う。原作も含めて、複数の、いや無限にある本物の『源氏物語』たちが、未来を開く力の優劣を競う。その戦いの中から、武士の時代である中世が姿を現す。それが『平家物語』の世界だ。
 戦乱と破壊を描く『平家物語』の母体は、優雅な『源氏物語』だった。十二世紀の人々は、十一世紀に紫式部の書いた『源氏物語』に飽き足らなかった。だから、『源氏物語』の遺伝子を組み換えて、『平家物語』の原型を作り出した。これを進化と言うし、裏切りとも言う。十二世紀の『源氏物語』の優れた読者たちは、十一世紀の紫式部本人を裏切った。そして、新しい『源氏物語』の作者、すなわち紫式部へと変異してゆく。
 十二世紀の日本という「今、ここ」に、最もふさわしい真作、すなわち宇治十帖の新作が、二つにも三つにも分流してゆく。この生々流転の相が、古川の発見した『源氏物語』の素顔であり、古典の永遠性の正体だった。
 ならば問おう。古典とは何か。答えよう。最も尖鋭な現代文学である。なぜ、古典は新しいか。古典の大海へと向かって、アメノヌボコ(天の瓊矛)を差し入れ、攪拌し、新しい文学の国土を生み出すイザナギやイザナミたちが絶えなかったからである。イザナギ・イザナミは文学者の比喩、アメノヌボコは彼らの野心の比喩、アメノヌボコから滴った新国土が希望と未来の比喩である。
 古典中の古典である『源氏物語』は、千年間、最大のベストセラーであり続けた。なぜか。どんな文学者の野心でも受け入れ、時代に適応した「新しい文学の王国」を、いくらでも結晶させる豊饒の海だったからである。
 見方を変えよう。『源氏物語』の読者は、この作品と出会えたことに驚喜し、惑溺する。だが、深く没入すればするほど、この物語の欠点が見えてくる。それが許せない。だから、改作したくなる。どこに、末摘花のように愚かな女がいるだろうか。どこに、藤壺のように欠点のない女がいるだろうか。
 だが、改作が十一世紀の『源氏物語』の重力に引きずられている限りは、模倣に留まる。二流の文学者にとって、この物語は発想の自由を奪う束縛だった。束縛を断ち切るには、紫式部を上回る大きな夢、切実な夢、国家を作り替えるほどの夢を見つける必要がある。
 そうすれば、『源氏物語』の重力をまるごと無化できる。主題解釈を一新すれば、この物語は一瞬にして現代文学として蘇る。『源氏物語』は、従順な読者ではなく、自らを裏切る読者の出現を渇望している。紫式部は、自分の書いた『源氏物語』を裏切りたいのだ。後世の日本人に、裏切ってほしいのだ。
 なぜ古川は、『女たち三百人の裏切りの書』を書いたのか。彼は、なぜ「裏切り」をテーマとする小説を構想したのか。答えは、一つ。絶えず裏切られることで、時代の扉を切り拓いてきた『源氏物語』の叫びを、紫式部の肉声を、古川が聞き取ったからである。
 現在を裏切りたいと願う心こそ、野望や欲望の別名である。「今、ここ」ではない場所を構想する夢見る力が、物語の本質である。その破壊力と創造力を駆使すれば、古川は古川自身を裏切ることすら可能となる。
 それでは古川は、海面を割ってアメノヌボコを挿入すべき「入口=扉」を、どういう方法で見つけたか。「隙見=垣間見」である。物語には、不出来な箇所や空白部分が、穴となって無数に空いている。その穴から物語世界の内奥を覗けば、巧妙に隠蔽されていた物語を「想像=創造」できるのだ。
 この手法は、新しくは井上雄彦『バガボンド』でも成功しているが、『源氏物語』に対してもなされていた。この物語には、光源氏が藤壺や六条御息所と初めて結ばれる重要な場面が欠落している。その経緯を書いた「欠巻X」があったという想像から、「輝く日の宮」という巻を復元する人々が、少なからずいた。
 けれども彼らの復元案は、現在残っている部分から容易に想像できることばかりであり、既存部分の土台を揺るがさない。だから、「欠巻X」の創作を梃子として『源氏物語』を改作する試みは失敗してきたと総括できる。
 隙見には、「書かれなかった続編を書き継ぐ」という方法もある。『源氏物語』の宇治十帖は、一見すると中途半端なストーリーで終わっている。だから、「その後の浮舟」を描こうとして、『山路の露』などの続編が書かれた。それが目を覆いたくなる凡作だった事実は、何よりも読者の不在が証明している。
 物語の隙間をこじ開けて、古い世界を刷新するには、何が必要か。アマテラスが籠もった天の岩戸をこじ開けるには、タヂカラオの剛腕が必要だった。それに該当するのが、作者の批評精神である。文明批評である。
 上田秋成の『海賊』は短編集『春雨物語』の一編である。紀貫之の『土佐日記』の中で簡単な記述しかない海賊の存在に着目し、『続日本後紀』に載る「文屋秋津」という海賊名を用いて、強引に貫之と秋津の会話を「創作=捏造」したものである。二人の対話は、和歌と漢詩の役割をめぐっての日中文明批評であり、中国文化に通じた菅原道真を追放しての日本文化確立への疑義を表明している。だから、秋成の隙見は成功した。
『海賊』の二匹目の泥鰌を『源氏物語』で狙えば、九州の地をさすらった玉鬘を描くことなどが考えられる。彼女に九州で求婚した土着の武士軍団も、都へ戻る船旅の途中で彼女を脅かした海賊集団も登場させることができる。そうすれば、都中心の世界観が相対化される。
 古川日出男は、なぜそのような物語を書かなかったか。光源氏という絶対の引力に妨害されて、歴史批評を減殺、いや封殺されかねないからである。光源氏の没後、薫と匂宮の二人に重力が分裂し分散した宇治十帖こそが、武士や海賊や商人が跋扈する物語の捏造を許すのだ。しかも、宇治十帖はストーリー的に未完であるという大きな穴が空いている。
 古川に取り憑き、彼に『女たち三百人の裏切りの書』を書かせたのは、紫式部の霊魂ではない。彼は、歴史を作り出す意志を、我が身に宿らせたのだろう。宿らせたうえで、それに存分に語らせ、利用し、それを裏切る。古い歴史を裏切る新しい歴史意志を、複数提示し、互いに裏切り合わせることで、最強最大の裏切りとしての未来の歴史が姿を現す。
 古川の使嗾によって、紫式部は既に『源氏物語』を裏切った。この裏切りを受け継ぎ、さらに大きな裏切りを企図する読者が二十一世紀に簇生した時、『女たち三百人の裏切りの書』は、現代人にとっての「今、ここ」を裏切る物語となる。明治時代に与謝野晶子が、『源氏物語』を「裏切られた女たちの苦しみの書」として読んで以来の主題解釈を包み込みつつ、大きく裏切る古川の野心が炸裂する。裏切りの連鎖の果てに、『源氏物語』は二十一世紀の文明の書として新生する。
 なお、『源氏物語』を現代語に置き換える場合に、「だ・である」の常体にするか、「です・ます」の敬体にするか、ほとんどの訳者は悩む。それに対する一つの試案を、古川は提示している。また、私は、この作品を読んでいて、宇治十帖の本文解釈に関する論文のアイデアを二つ得た。古川の裏切りの味は、血の匂いではなく、薄荷の香がした。

(了)
新潮 2015年6月号より

壮大さを超える物語

川上弘美

「護摩は邸内いっぱいに立ち籠めている。焚き入れられた芥子が臭う。それを三人の女がそれぞれに嗅いでいる。一人は、褥にいる。一人は、間仕切りの几帳の向こう側にきちんと膝を揃えて座している。一人はしきりと立ち働いている。だが三人とも嗅いでいる」
 というのが、この本の冒頭の文章である。さりげなく始まるように思えるけれど、意味以外のいくつかの示唆がなされているのが、まず興味深い。
「芥子が臭う」とある。「匂う」ではない。だから、ここで芥子が焚かれている、そのかおりが、不穏な何かを象徴していることが、まずわかる。それから、「一人は、褥にいる」とある。褥、という言葉を使う状況は、いったいどんなものか。現代ではないだろう。と思っていると、すぐに「几帳」がでてくる。几帳のある部屋。それはたぶん、ずいぶんと昔だ。平安時代か? そして、そこは公家の邸か? 女が三人いて、寝具に横たわっている者を、もう一人の女が几帳越しに見守っているとすれば、やはり貴族の邸なのではないか。それならば、雅な雰囲気がこれから醸成されてゆくのだろうか。と待ちかまえていると、突然「だが三人とも嗅いでいる」という、文章としてはまったく妙なところはないのに、とても妙な印象を与える表現がでてくる。
 いったいこの小説は何なんだ?! と、この冒頭の三行だけで、好奇心をひどく刺激されるのである。
 読んでゆくと、また仰天する。几帳の周囲にいる三人の女のうち、いちばん若い「うすき」には、何かが憑いている。それはいったい何なのかといえば、
「越後の守の藤原為時が女、また右衛門の権佐である藤原宣孝が妻、そして大弐の三位こと賢子の母である、私すなわち藤式部。また世人の呼ぶところ、――紫式部」
 つまり、「うすき」という少女に憑いたのは紫式部だったのだ。世に流布している宇治十帖の物語が偽物であるため、ここに正しい物語を語ると、紫式部は宣言する。
 では、本書は、新しい宇治十帖を描こうとしたものなのかといえば、いやいや、そんな一筋縄でゆくような展開を、作者は決して許さない。奥州藤原氏の黄金をもちいて何かを企む、「まつろわぬ」武者たち。瀬戸内海の海賊を統べる、異相の現人神「由見丸」。山陰のはるか沖にある島に封じられた蝦夷の子孫たち。そして、平氏の郎党、源氏のもののふ。平安の世をかき乱さん支配せんとするいくつもの集団、男たちの武装集団が、語られる新たな宇治十帖の隙を、跋扈しはじめる。はじめは、どんなふうにかれらがつながりあってゆくのか、見当もつかなかったのに、語られる宇治十帖と宇治十帖の物語の外にいるはずのかれらは、複雑な縒りの糸につらなる珠のように、次第につながりあいかさなりあってゆく。
 壮大、という言葉を使いそうになるのだけれど、それだけではこぼれ落ちるものが、この小説にはある。明瞭さを保ちながら粘りに粘る、独特の文体。物語を語るためのふろしきを広げたように見えて、その実ふろしきは何かを包むためにていねいにたたまれているさま。休むことなく繰り出される表現の妙。いくつもの声色が同時に存在するように感じられる、彩なす小説のヴォイス。怒濤のように書き進められているにもかかわらず、走りすぎない抑制。
 物語に言葉が奉仕しているわけでもなく、反対に言葉に物語が奉仕しているのでもない、その両方が渾然一体となって疾駆してゆくところに、この小説の何よりの快楽がある。古川日出男、という小説家の作品を、いくつか読んできたけれど、いったいこの作者はどこまで行ってしまうのだろうかと、いつも不安になる。そして、不安にさせられることこそが、小説を読む醍醐味なのではないだろうか?

(かわかみ・ひろみ 作家)
波 2015年5月号より

神々のたそがれ

高橋源一郎

 アレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』を見た。驚倒すべき作品だった。ストルガツキー兄弟のSF小説を原作としている、という。ほんとうだろうか。舞台は、地球より800年遅れた惑星。だから、そこは、ほとんど中世に見える。地球の、ヨーロッパの中世。そこにやって来た地球人は、800年進んだ世界から来た者故、「神」とされる。3時間近いこの映画に、ヨーロッパ中世が現前する。泥と雨と血と夥しい体液が溢れる。僧侶、貧乏人、汚らしい農民、くずみたいな兵士、そんな連中がかびた食い物をむさぼり、罪ともいえぬ罪で首を吊られ、矢を全身に射られて泥濘に倒れる。いままでのどんな映画を見ても「これは中世であろうと頑張っているのだな」としか思えなかった。そこにあるのは、どれも「中世に懸命に似せた世界」に過ぎなかった。だが、『神々のたそがれ』の舞台は、紛れもない「中世」だった。人々がまったく不条理に、突然、生命を絶たれる「中世」の世界だった。そうとしか思えなかった。なぜなのか。冒頭、「神」と目される主人公が眠りから覚める。そこは「中世」の世界だ。いや、そうではない。その「神」がさっきまで見ていた夢の続きではないのか。そうにちがいない。彼は地球からその惑星にやって来た。惑星かと思ったら「中世」だった。彼が知識として知っている「中世」にそっくりの世界だ。それはもしかしたら、「夢」ではないのか。それほどまでに露骨に「中世」であることこそ、それが「夢」の世界であることの証拠ではないのか。そんな「夢」を見ることができるのは、神だけなのだ。
 古川日出男の『女たち三百人の裏切りの書』を読みながら、わたしは、『神々のたそがれ』を見ていたときの名状し難い感覚を思い出し、震えた。「そこ」はどこだ。まず、なにか、物語の世界のどこか、だ。とりあえずは、『源氏物語』の、『宇治十帖』の世界の「近く」だ。「そこ」には、なにか、ものすごく禍々しいものが存在している。だが、その前に、なにかもっと明白なものがある。
「中世」である。紛れもない「中世」の世界が、そこにある。冒頭、三人の女が登場する。ひとりの女には怨霊が憑いている。聖が、その怨霊を呼び出す。すると、怨霊が姿を顕す。名を名乗る。「紫式部」と。どういうことなのか。なぜ、怨霊として「紫式部」が顕れたのか。それは、『源氏物語』の続編たる『宇治十帖』が贋物である、と訴えたいからだ。そして、本物の『十帖』を語り直したいからだ。かくして、この物語は動き始める。怨霊の語る、真の『宇治十帖』の物語として。読みながら、読者は、これが「ほんとう」であると感じる。では、なにが「ほんとう」なのか。それが、わからない。なかなか、わからない。わからないまま、物語は、進行してゆく。みんなが知っている『宇治十帖』が語られ始める。しかし、それは同時に、あの『宇治十帖』と少し異なっている。それと同時に、この国のあちこちで、怪異な、いや魁偉な物語が始まる。それは、東北奥州の武士の物語である。それから、北の異族たちが閉じこめられた孤島の物語である。それから、西海の海賊たちの中に出現した現人神の物語である。それらが、不気味に、怨霊の「紫式部」の新(?)『宇治十帖』を包囲し、それに近づいてゆく。近づいてゆくにつれて、禍々しさは、倍増し、冪乗してゆく。なんと「紫式部」は二人になり、三人になる。物語の登場人物が「こちら」に出現し、あるいはまた、この「物語る」行いの裏にあった陰謀が暴露される。その度に、この物語の発熱は進行してゆく。そのときだ。わたしたちは気づくのである。
「中世」が出現している。いままで、どんな「中世」のお話を読んでも、「ああ、これは中世のふりを一生懸命しているのだな」としか思えなかったのに、ここには、「ふりをしているのではない」中世そのものが、出現しているのである。
「中世」とは、歴史の一時代のことではない。神仏に魂を揺り動かされていた人たちが実在していた時代のことだ。古川日出男は、その「中世」を甦らせた。なぜ、それが可能だったのか。神仏に魂を揺り動かされるのと同じことをやってみせたからである。それは「物語る」ということだ。ただ「物語る」のではない。自らのたそがれが近づいていることを知った神々が見るような、鮮明すぎる「夢」のように「物語る」からなのだ。

(たかはし・げんいちろう 作家)
波 2015年5月号より

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