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父は何を背負っていたのか。行き違いと苦い思い……。時代小説界の次代をになう新鋭の江戸市井小説。

日無坂

安住洋子/著

1,512円(税込)

本の仕様

発売日:2008/06/20

読み仮名 ヒナシザカ
雑誌から生まれた本 から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 188ページ
ISBN 978-4-10-307061-0
C-CODE 0093
ジャンル 歴史・時代小説
定価 1,512円

伊佐次は老舗の薬種問屋「鳳仙堂」を継ぐはずが、勘当され、いまや浅草寺裏の賭場を預かっていた。あれから十年、父は変わり果てた姿となっていた。丁稚から主人に上り詰めた父は何を一人で背負っていたのか。寄合いを仕切る大店に嵌められたのか、それとも……。謎解きが悔恨と感涙に変わる。家族の絆を問いかける傑作長篇。

著者プロフィール

安住洋子 アズミ・ヨウコ

1958(昭和33)年、兵庫県尼崎市生れ。1999(平成11)年、「しずり雪」で長塚節文学賞短編小説部門大賞を受賞。2004年、中短編集『しずり雪』でデビュー。著書に『夜半の綺羅星』『日無坂』『いさご波』『春告げ坂―小石川診療記―』がある。

書評

波 2008年7月号より 父に見てもらいたかった

池上冬樹

いきなり私事で恐縮なのだが、父親が亡くなって三年がたつ。もう哀しみもいえたと思っていたのだが、本書のラストの文章のひとつに、思わず嗚咽してしまった。なんでもない一文、それでも万感の思いがこめられた一文に、忘れていた思いがどっとあふれて、涙がとまらなくなってしまった。まだ心の底にこんなに哀しみがたまっていたとは思わなかった。たった一文が心を一気に決壊させることがあるということ、そしてそれが小説の力であることをあらためて知った。
物語は、笊職人の角造のところで孫の利一郎が遊んでいる晩秋の場面から始まる。角造の息子である貞吉は、幼い頃から読み書き算盤にたけていたので薬種問屋鳳仙堂に奉公にだした。番頭にまでなり、主人嘉兵衛から跡取り娘おみよの婿養子にと望まれ、嘉兵衛が亡くなったあと利兵衛と改め、主人になった。十年後、ようやく跡取りの利一郎が、五年後に次男の栄次郎が生まれたが、産が重くおみよは亡くなった。
利兵衛は舅と妻が亡くなったこともあり、婿という立場から跡取りの利一郎に厳しくあたったが、それが父と同じく強情な利一郎の癇にさわり、祖父母のところに逃げてきた。
第二章になると夏、浅草寺裏の賭場をあずかる伊佐次が、三十両の借金を残したまま消え失せた元下駄職人の鉄治の家に押しかける場面になる。そこには夫から暴力をうけた妻お房と伊佐次をにらみつける子どもがいた。お房を女郎屋に売り飛ばせば金になるが、子どもの視線がつらかった。自分も小さいころにあんな目つきをしていたからだ。
いったいどんな子ども時代だったのだろうと思っていると、この伊佐次がかつての利一郎だということがわかる。十年前、賭場で三十両の借金を作り、父親の利兵衛に勘当されたのだ。跡取り息子だった利一郎は鳳仙堂の人別帳から外され、名前をかえ、いまの稼業についたのである。
ここから哀愁ただよう物語が展開する。足をあらいたいと願っている伊佐次と、将来の展望がみえない利兵衛の生活が交互に描かれていく。とくに後者からは、藤沢周平の名作『海鳴り』の前半を思いだした。紙問屋の主人、小野屋新兵衛が骨身を削って仕事に励んでも跡取りは放蕩を繰り返し、妻とは心が通じぬ毎日。焦燥と空虚と漠然とした不安を抱える新兵衛の姿と利兵衛のそれが重なるのである。
“いまや、一人は家を出て息子ではなくなり、残る一人も一人前にはほど遠い。二人とも父親を疎んじている。……二人の息子と繋がりをもてなかった自分の不甲斐なさが悔やまれる。もうなにもかも失ってしまい、取り戻せないのか”と利兵衛は悩むのである。
『海鳴り』の新兵衛には薄幸の人妻おこうがあらわれ、苦しいけれど心震える恋愛を体験したが、利兵衛にはない。堅物で酒も飲めないが、仕事熱心で、ある調べをして命をおとす。前日、伊佐次は父親の姿を眼にするが、声はかけなかった。それがひとつの悔いとなる。伊佐次は父親の死の謎を追及し、栄次郎を一人前の跡取りにしようとする。
この物語は、父と息子、兄と弟それぞれが冷たく離れていたのに、事件をきっかけにして心を通わせる物語である。とくに亡き父の思いをかみしめることになる。“取り返しはつかないが、それでいいのだろうとも思う。悔いを抱えながら生きてゆくしかない”と思いつつも、それでも立ち直った二人の息子の姿を、“父に見てもらいたかった”と思うのだ。
そう、この言葉に僕は泣いてしまった。僕もまた、父に見てもらいたかった。見てもらいたいことがたくさんある。いま傍に生きていたらと思う。若いときは自分のことしか頭になくて、親の哀しみなど知る由もなかった。しかし亡くなられてはじめて、親の哀しみを知り、いつしか親ならどうしていただろう、どんな風に生きていただろうかと、親に照らして多くのことを考えるようになるものだが、ここにはそんな普遍的な姿が鮮やかに捉えられているである。
出色の時代小説集『しずり雪』でデビューしてから四年、安住洋子は一段と成熟した。前作にあった美点、すなわちたたずまいの美しい文章、手触り感のある細部、風景と内面のリリカルな感応、そして行間からこぼれる人生の哀感がここでも顕著である。いい小説だ。

(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)

判型違い(文庫)

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