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「君、今度いいものを書いたね。」先生との出会いはその言葉から始まった。

師・井伏鱒二の思い出

三浦哲郎/著

1,512円(税込)

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発売日:2010/12/22

読み仮名 シイブセマスジノオモイデ
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 127ページ
ISBN 978-4-10-320921-8
C-CODE 0095
ジャンル 文学賞受賞作家、ノンフィクション
定価 1,512円
電子書籍 価格 1,210円
電子書籍 配信開始日 2016/09/09

私は、井伏先生がお元気なころに履かれた下駄を持っている。昭和30年、早稲田の学生であった私が初めて先生をお訪ねしたときも、玄関にはこれとそっくりの下駄があった――。書けずにいるときは励まし、いいものを書いたときには共に喜び、またあるときは厳しい言葉も――。日本文壇の中央を歩んだ師弟の、初期二十年間の交流。

著者プロフィール

三浦哲郎 ミウラ・テツオ

(1931-2010)1931(昭和6)年、青森県八戸市生れ。日本芸術院会員。早稲田大学を中退し、郷里で中学教師になるが、1953年に再入学。仏文科卒。1955年「十五歳の周囲」で新潮同人雑誌賞、1961年「忍ぶ川」で芥川賞を受賞。主著に『拳銃と十五の短篇』(野間文芸賞)、『少年讃歌』(日本文学大賞)、『白夜を旅する人々』(大佛次郎賞)、『短篇集モザイクI みちづれ』(伊藤整文学賞)等。また短篇「じねんじょ」「みのむし」で川端康成文学賞を二度受賞。2010(平成22)年8月29日没。

書評

波 2011年1月号より 酒、旅、将棋、そして酒

長谷川郁夫

師、という一語の響きがなつかしい。
文学史の流れに師弟愛を物語るエピソードは数限りなくあるが、近年にも、河上徹太郎と吉田健一、そして井伏鱒二と小沼丹などの例が、雑り気のない美しいかたちとして私の眼前にあった。
井伏鱒二とは不思議な人だ。飄逸味ある作品世界のゆたかさとともに、人柄もまたひろく多くの文学者から信頼され、敬愛された。酒と将棋の“阿佐ヶ谷会”では中心的存在だった。太宰治につづいて戦時下の学生だった小沼丹、やがて三浦哲郎さんが終生の師として井伏さんを慕った。風格ある文士の容貌ではあっても、庶民感覚には横丁のご隠居といった印象。肌の色艶はいつも湯上りのようで、ほのぼのとした暖かみが感じられた。しかし、井伏さんを想うと、ときに私には江藤淳の「猛禽のような佐藤春夫氏と見くらべると、井伏さんはどこまでもまるくて、よく身の入ったお魚みたいに見える。よく見ていると、しかし、このお魚はどうもなまじっかの鳥よりは強そうな様子である」(「井伏さんのこと」)という観察が思い出されるのである。江藤さんはある出版記念会で、門弟三千人を豪語した文壇のボスとなにやら言葉を交している井伏さんの風貌を書き留めたのだった。
三十年も前のある年、小沼丹さん宅の新年将棋会の夜、三浦さんが歌をうたうのを聴いたことがある。井伏さんや天狗太郎、庄野潤三さんら先輩たちに囃されて、仕方ないや、といった感じで胡坐をかいたまま上着を脱いで「枯れすすき」を唸ったのだった。野太く嗄れた、味のある声調を私の耳は覚えている。聞き惚れて座が静まった一瞬、「厄除け詩集」の巻頭詩、雪崩の上でさえ悠然と「あぐらをかき//莨をすふやうな恰好で」いる、あの「熊」の姿が目に浮かび、その場の面々がてんでに寛ぐその一族であるかのように見えた。三浦さんが「白夜を旅する人々」と「おろおろ草紙」を文芸誌に、「はまなす物語」を新聞に連載し始めることとなる年の正月四日のことであったかも知れない。
本書の冒頭は、形見分けに貰った下駄の話。酒場へと向かう夜道をせっかちに急ぐ「先生」を偲んで、回想は昭和三十年六月、小沼さんに連れられて初めて荻窪に井伏さんを訪ねた日へと繋がる。三浦さんは二十四歳の学生。寮の自室の壁には本から切り取った井伏さんの口絵写真が鋲でとめられていた、という。夜更けまで十時間近くも畏まったまま、注がれる杯はすぐに飲み干しながらちっとも酔った気がしなかった。帰りがけに「君、酔った?」と訊かれて、「はい、すっかり酔いました」と答えたのが、その日はじめて口にできたまともな返事だった。五十七歳の大家がどのような青年の性質に好感を抱いたかが察せられるのである。
酒、旅、将棋、そして酒。文学談議が交されることはない。「平凡で、さりげないのがいい」――どうやら、平常心を失うな、というのが無言の訓えであったようだ。狎れ合うこともない。師と弟子たちとの間には、喩えるなら将棋盤一つを挟んだ距離が保たれていた。だが、冗談一つでも井伏さんのさりげない一言はこころに重い。――
「滝に打たれるようなつもりで先生をお訪ねした」とある。また、「先生の勁い目を受け止めるのが辛くなった」時期もあった、とも打ち明けられている。
この一篇は自ずと、小説家・三浦哲郎のストイックな人間修業の記録ともなったが、それを際立たせた象徴的な要素は“汗”である。緊張の汗、冷や汗、羞らいの汗。どの場面にも、汗ばんだ三浦さんの正座した大きな背中が見え隠れしている。生理的な反応が物語のなかに巧みに織り込まれているのは、作家による師弟交流記ならではの魅力だろう。小沼さんの人柄も、ありし日の姿そのままに描き出されている。
記述が昭和五十一、二年頃までで途切れたまま、未完になったのがいかにも惜しまれるが、読後のすがすがしさに、渓流に遊ぶ若鮎の背鰭が光る、そんなシーンが彷彿されるのである。

(はせがわ・いくお 編集者)

目次

師・井伏鱒二の思い出
解説 荒川洋治

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