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自己を問うその先にある、批評の神髄へ――。決定的デビュー作、刊行。

  • 受賞第39回 新潮新人賞

神的批評

大澤信亮/著

2,160円(税込)

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発売日:2010/10/29

読み仮名 シンテキヒヒョウ
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 254ページ
ISBN 978-4-10-327811-5
C-CODE 0095
ジャンル ノンフィクション
定価 2,160円

絶対平和の詩人に孕まれていた暴力性はいかにして非暴力の地平へと至ったのか、その自己破壊的倫理に迫る新潮新人賞受賞作「宮澤賢治の暴力」。美の怪物と対峙することで、「食」という人間の存在条件を問う「批評と殺生――北大路魯山人」。全四篇を収録する、私たち自身の可能性としての思考。21世紀の批評はここに誕生する。

著者プロフィール

大澤信亮 オオサワ・ノブアキ

1976年東京都生れ。文芸批評家。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。2007年「宮澤賢治の暴力」で第39回新潮新人賞〈評論部門〉受賞。2010年、初の単著『神的批評』を刊行。同作は評論として十数年ぶりに三島由紀夫賞候補となる。2011年には第4回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞を受賞した。現在、日本映画大学准教授。

書評

波 2010年11月号より 自己を厳しく問う

町田康

小説を書いていると、登場人物という人が出てくる場合が多い。それもひとりではなく、何人もの登場人物が出てきてしまう。でてきてしまう、といってそれは別に悪いことではないのだけれども、ひとつ悪いことがあるというのは、そうして多くの人が出てくると、その扱いにどうしても、色むら、というか濃淡が出てきてしまうという点で、ある人物については親切に、その人の容貌や佇まいが読む人の頭に浮かぶように細かく描いているのに、ある人物については随分と冷淡で、ペラペラの、射撃の的みたいな奴になってしまっているなんてなことになる場合が多いのである。
というのは、なにも小説に限ったことではなくて映画とかテレビドラマやなんかでもそうで、ある人物については、いつのどこの生まれで誰の子で、どんな性格でどんな考えをもって毎日を生きていて、どんな趣味嗜好の持ち主かということが、全部、台本に書いてある。しかるに、ある人物については、まったくなにもないというか、「殺される男A」と書いてあるだけで名前すら与えられず、そんなだからもちろんのこと、どこで生まれてそれまでなにをしていたか、なんてことはまったくわからない。
私はしばしば騙されてテレビドラマにそんな役で出演したことがあるので、その心中がよく理解できる。テレビドラマの場合、そうやって厚遇されている人を主役と呼び、冷遇されている人を端役と呼ぶが、主役はドラマの現場でどこにでも存在することができる。画面のどこにでもいることができるし、行くことができる。或いは、彼が身体的に存在できない場所にも、彼の気配は濃厚で、みんな彼のことを気にかけている。画面の外においても、彼は個室を与えられ、その個室には花や菓子や飲み物が用意されており、また、専属のヘアメイクやスタイリストや召使いが常時待機して、なにくれとなく世話を焼いてくれるのである。しかるに端役と呼ばれる冷遇されている人はと言うと、画面のなかで存在できる場所は限られており、そこから一ミリでもはみ出ると叱られる。その際、こらそこの、などと言われるのは、椅子や灰皿といった小道具と同じ扱いである。画面の外においても同様で、みなの邪魔にならない物陰に、場合によっては腹に矢が刺さっているなんて扮装のまま待機しなければならない。その際、呼ばれてすぐに行かなければ叱られるので憚りに参るのも憚られる、なんて体たらくである。
という状態に対して、小説作者やプロデューサー、ディレクターが、「あかんではないか」と思うことはない。なぜなら、そんなことをいちいち思っていたら、小説が小説にならず、映画が映画にならないからで、割と鈍くさ目の小説作者である私もずっとそう思っていた。すなわち、「同じ登場人物と生まれながら、なんでこの人だけ冷遇されるのか。気の毒ではないか」などと抜かしていたら、小説は書けぬよ。と信じていたのである。
ところが、「待てよ。ほんとうにそうなのだろうか」と、思うのは、本書、『神的批評』を読んでしまったからである。
ないものは書けない。ということは、なにかを書こうと思ったら、あるものを参考にして書かなければならない。ところが、あるものは全体的にあるのに、自分にとって、自分が書こうとしているものにとって都合が悪かったり、重要でなかったりするものについては、そんなものはゴミだ。勝手に生えている雑草だ、として黙殺、はじめからなかったことにして、素晴らしい小説を書き、その素晴らしさによってその小説が市場で評価され、その結果、多額の貨幣を貰って、夜の街に出掛けていって蕎麦や鰻重を貪り食らった挙げ句、美姫と鶯谷のラブホに泊まる、みたいなことをするという態度が果たして人としてどうか。そんなことを自己に厳しく問うてしまうのである。
なぜ、そんなことになるかというと、普通、こうした批評の場合、自己ではなく、他人を厳しく問い、そしてその場合、その問うている人というのは、一旦、脇へ措いておいて、問う場合が多いが、本書の場合、それをしないばかりか、問う人としてではない、普通に鰻重とかを食べる人、としても自己を厳しく問うていて、そしてそれは読む者の胸中に、都合の悪いことはいったんないことにして安閑としつつ、書いたり考えたりしている自己に対する疑問がふつふつとわき上がってくるように書かれているからである。困ったことである。

(まちだ・こう 作家)

目次

宮澤賢治の暴力
柄谷行人論
私小説的労働と協働――柳田國男と神の言語
批評と殺生――北大路魯山人
あとがき
主要参考文献

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