この物語の舞台は、日本が戦後の混乱から高度成長へ向かう昭和32年(1957年)。 作品にちりばめられた言葉の中から、当時の世相を窺わせるものを集めてみました。 |
【三種の神器】
ぎょうさんの洗濯物を洗剤と一緒に放り込んでスイッチを入れるだけで、きれいに洗濯ができてしまうんじゃぞ。(三七七ページ)
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、生活を大きく変える新しい電化製品として庶民の憧れの的だった。このころの洗濯機は「攪拌式」で、羽根のついた心棒が回るだけという簡素なもの。まもなく現れる「噴流式」の洗濯機には、ローラー型の脱水機がついていることが多かった。
【もはや戦後ではない】
もはや戦後ではない、か……(一五三ページ)
昭和三十一年の経済白書で使われた言葉。敗戦後の暗い空気を脱して高度成長へと突き進む、当時の気分を表現するフレーズとして大流行語となった。もともとは、『文藝春秋』に掲載された中野好夫による評論につけられたタイトル。
【朝鮮の分断】
朝鮮戦争のあと北緯三十八度線で北と南に分かれて、北は朝鮮民主主義人民共和国、南は大韓民国と名前が変わったので、南出身の人たちは韓国人と呼ばなければならないらしい。(一一ページ)
朝鮮半島では、連合国軍の軍政期を経て昭和二十三年に韓国と北朝鮮という二つの国家が成立していたが、二十七年にサンフランシスコ平和条約が発効すると、在日コリアンは植民地時代の日本国籍を失って韓国籍もしくは朝鮮籍となった。
【有楽町で逢いましょう】
ラジオから「有楽町で逢いましょう」という歌謡曲が流れていた。(一九九ページ)
この年の十一月に発売された、フランク永井の大ヒット曲。大阪に本拠を置くそごうデパートが東京進出にあたって用意したキャッチフレーズが「有楽町で逢いましょう」で、そのキャンペーンソングがこの曲だった。日本テレビ系列では四月から同名の音楽番組が放送されており、翌年には映画も公開された(島耕二監督、京マチ子主演)。
【車社会到来】
この狭い日本に自動車が溢れかえって、にっちもさっちもいかなくなる時代が到来することは火を見るよりも明らかなのだ。(一二五ページ)
好景気に支えられ、このころ自動車の需要は供給を上回る状態だった。昭和三十二年にはトヨタ自動車の販売店が百店舗を超え、前年には日本道路公団が設立されて高速道路整備に本格的に着手した。一方、都会の道路では混雑も深刻になり、三十二年には交通事故件数が初めて十万件を突破した。
【切手ブーム】
ごっつう高いねん。飛行機の絵が描いてある切手がいちばん人気があるねん。(一七一ページ)
昭和三十二年、江崎グリコが「アーモンドグリコ」のおまけとして切手を採用して「世界の切手をあなたに」キャンペーンを展開した。これをきっかけに切手の大ブームが起き、切手収集家は百万人に達したと言われている。
【メートル法導入】
定規とか巻尺はなァ、とりあえず表がメートル法、裏は従来どおりの尺と寸で表示することになったから、これまでのもんは全部廃棄して、新しいのを作り直さなあかんのや(九六ページ)
日本は明治十八年にすでにメートル条約に加盟していたが、尺貫法の使用は引き続き認められており、メートル法は普及しなかった。昭和三十四年には土地・建物の表記を除きメートル法が完全実施されることになり、それに向け市民生活の中の単位も徐々にメートル法に切り替えられていった。
【すし詰め学級】
私の従姉の子ォなんて、一クラスに五十八人も教室に詰め込まれてますねん(九六ページ)
昭和三十二年の時点で、一学級あたりの生徒数が五十五人を超える小学校は全体の一割以上、五十人以上の学級は三割を超えていた。このような状況は「すし詰め学級」と呼ばれ、文部省は昭和三十三年度から五カ年計画に基づいて一学級を五十人以内にするための取り組みを行った。
【シベリア帰還兵】
「じゃあソ連はどういう名目でお前らをシベリアで強制労働させたんじゃ。戦犯という罪状をつけんかぎり、国際法に違反するじゃろう」(二六ページ)
第二次大戦後、ソ連は占領地域に在留していた多数の日本人を主にシベリアに移送し、ジュネーブ条約に反する形で採鉱、森林伐採、鉄道建設などの重労働に従事させた。抑留者の帰還は昭和二十一年から始まったがしばしば中断し、最後の集団帰国者が帰還したのは日ソ共同宣言発効後の三十一年末だった。その後も相当数の自発的・強制的残留者がいるといわれている。
【人工衛星】
「人工衛星て何?」
「私にもわかれへんねん。お店でもよう話題になるねんけど……」(一八一ページ)
昭和三十二年十月四日、ソ連は世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げた。衛星は直径五十八センチ、重さ八十三・六キロの金属球で、表面には四本のアンテナが取り付けられ、内部温度や圧力などを地上に伝えた。宇宙開発でソ連がアメリカを一歩リードすることを示すできごとでもあり、世界的に注目された。翌三十三年に大阪で行われた国際見本市では、ソ連館に実物が展示されて大人気を博した。