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ひみつの王国―評伝 石井桃子―

尾崎真理子/著

2,970円(税込)

発売日:2014/06/30

  • 書籍

この人がいなかったら、日本の「子どもの本」はどうなっていただろう――。

『ノンちゃん雲に乗る』『クマのプーさん』など、作家として翻訳者として編集者として、あふれる才能のすべてを「子ども時代の幸福」に捧げた百一年の稀有な生涯。自ら触れることの少なかった戦前戦中の活動や私生活についても、二百時間に及ぶ石井へのロングインタビューと書簡をもとに描き出す。児童文学の巨星の初の評伝。

  • 受賞
    第34回 新田次郎文学賞
  • 受賞
    第65回 芸術選奨文部科学大臣賞 評論等部門
目次
序章
第一章 浦和の小宇宙
一九〇七~一九二六年
「生まれる自分」の記憶
三月ひなの国へ行く
氷川様にまもられて
平等の風が通り抜ける家
読書事始め
姉たちの結婚を愁う
女子大で英語を学ぶ
自活への細道
第二章 文藝春秋社と『幻の朱い実』
一九二七~一九三六年
菊池寛との出会い
その頃、モダンガールたちは
昭和六年の「社中日記」
レインボーグリルのかげで
『幻の朱い実』の頃
小里文子と「貞操問答」
女子の本懐
第三章 プーの降りてきた日
一九三三~一九四〇年
犬養家のクリスマス
「日本少国民文庫」と山本有三
シー・ヨードラーの若者たち
スキー場の恋
「白林少年館」に描いた夢
井伏さん、太宰さん
第四章 戦争から生まれた『ノンちゃん』
一九四〇~一九四五年
プーさんと言論統制
少国民と「菊の花」
北京の空、東京の空
労働科学研究所の秘書になる
敗戦まで
第五章 子どもの本の開拓者へ
一九四五~一九五四年
女二人の開墾生活
「ノンちゃん」本になる
戦犯になった作家たち
うるわしき鶯沢の過酷
諦めなかった吉野源三郎
「岩波少年文庫」創刊まで
占領下の編集
児童文学の旅――米欧留学
第六章 家庭文庫とひみつの書斎
一九五五~一九七五年
瀬田貞二とISUMI会
読み聞かせから生まれた名訳
かつら文庫を開く
子どもの文学とは
中川李枝子と松岡享子
本物の作家になるには
キャザー&ファージョン&ポター
『ノンちゃん』はどこから来たのか
第七章 晩年のスタイル
一九七九~二〇〇八年
満ちたりた生活
私というファンタジー
もう一度、ミルンに学ぶ
子どもの本に理屈はいらない
友情の首飾り
半世紀のちの告白
百年をかけた幸福
あとがき
引用・参考文献リスト
石井桃子略年譜
人名索引

書誌情報

読み仮名 ヒミツノオウコクヒョウデンイシイモモコ
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 576ページ
ISBN 978-4-10-335851-0
C-CODE 0095
ジャンル ノンフィクション
定価 2,970円

書評

空白を埋める試み

堀江敏幸

 幼年時代から思春期にかけて、石井桃子による翻訳書の世話にならなかった読者はほとんどいないだろう。『うさこちゃん』『クマのプーさん』『ピーターラビット』。誰もが知っている三つのシリーズを挙げるだけで、それはただちに納得できるはずだ。
 しかし、これほど親しみのある名前なのに、石井桃子その人の全体像は掴みにくい。そもそも明治四十年生まれの病弱で小柄な女性が、どのような経緯で子どもの本と係わりはじめ、戦争をはさんだ二十代なかばから三十代なかばにかけての厳しい時期をどのように乗り越えてきたのか。新聞雑誌に発表されたエッセイや後年の自筆年譜によって、当時の活動はある程度想像できるとはいえ、空白はまだ、あちこちに残されている。
 本書は、この空白を埋めるために重ねられた、持続的な読みの成果である。二〇〇二年夏に行ったという長大なインタビューを軸に、著者は没後の取材を通して得た証言や、親友の遺族から提供された貴重な書簡を援用しながら、慎重な手つきで謎に迫っていく。
 石井桃子には、心の内側に踏み込んでくる者をやんわり拒む一面があったようだ。他者を遠ざける冷たい人だったわけではない。それどころか彼女は、進むべき道を拓いてくれる人物をいつのまにか近くに呼び寄せてしまう、運命的な出会いの才に恵まれていた。犬養毅、菊池寛永井龍男井伏鱒二、吉野源三郎、山本有三、小林勇……。語学力と実務能力に長け、人柄もよかったことに加えて、これらの人々のつながりが、無名の女学生を戦前はまず文藝春秋社に、次いで新潮社に導き、戦後は岩波書店の編集者として力を発揮するまでの流れを作った。彼らがいなかったら、『プー横町』や『ドリトル先生』や『岩波少年文庫』も、生まれることはなかっただろう。
 著者はまた、別の文脈の固有名に注意を向ける。『幻の朱い実』の登場人物のモデルで、いっとき石井がその家に通いつめるほど意気投合していた文藝春秋社時代の同僚小里文子。小里の同級生で、彼女の思い出を深く共有することになる水澤耶奈。結婚寸前までいきながら結ばれなかった七つ年下の恋人、進藤四朗。明るみに出たこの四朗の存在が、『ノンちゃん雲に乗る』の執筆過程と手紙形式の構成に影響を与え、石井が訳したエリナー・ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の構造とも似ているとの指摘は、評伝を踏みだして文芸批評に近づいている。
 埋められた空白のうち最大のものは、戦中、石井桃子が「意に反して」大政翼賛会に関わり、情報局直属の「日本少国民文化協会」文学部会幹事として名を連ねただけでなく、「菊の花」と題する掌篇を機関誌に載せていたという事実だろう。書かれた動機や作品の解釈がどうあれ、国威発揚を目的とする活字に残したことを石井桃子ほどの女性が悔いていなかったはずはない。その深さは「余人の想像をはるかに超える」と、死後に一文の存在を知った著者は息を詰めるように記している。
 消そうとしても消し得ない悔い。敗戦後すぐ、石井が軍需工場で知り合った女性と東北で過酷な開墾生活に打ち込むことを選んだ背景には、右の文章に対する「罪」の意識があったのではないか。それを贖うには、「生涯、この国の子どもたちに最善を尽くして、どんな時代、政治体制下でもゆらぐことのない、真に心の栄養となる本当のお話を作り、あるいは選び、訳し、届けること」しかないと考えたからではないか。
 戦後、亡くなった小里文子から受け継いだ荻窪の家に「かつら文庫」を開設して子どもたちに本と夢を与え、瀬田貞二をはじめとする新たな運命の出会いを重ねながら、石井桃子は二〇〇八年にその命が尽きるまで全力を振り絞って闘った。そんな解釈の土台になっているのは、自らも彼女の日本語に育てられた世代のひとりだという著者の、感謝と敬愛の念である。だからといって解釈に偏向が生じることのない確かな距離の取り方に、書き手としての覚悟と対象への深い愛が滲み出ている。


(ほりえ・としゆき 作家)
波 2014年7月号より

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著者プロフィール

尾崎真理子

オザキ・マリコ

1959(昭和34)年宮崎生れ。青山学院大学文学部卒業後、読売新聞社に入社。1992(平成4)年から文化部記者として文芸を担当する。東京本社文化部長を経て編集委員。著書に『現代日本の小説』、『大江健三郎 作家自身を語る』(大江氏との共著)、『詩人なんて呼ばれて』(谷川俊太郎氏と共著)など。2015(平成27)年『ひみつの王国 評伝 石井桃子』で芸術選奨文部科学大臣賞、新田次郎文学賞、同作品を含む執筆活動により2016年度日本記者クラブ賞を受賞。

判型違い(文庫)

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