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友情だねって感動してよ

小嶋陽太郎/著

1,760円(税込)

発売日:2018/09/21

  • 書籍
  • 電子書籍あり

奇跡なんて信じない。それでも、祈り続ける。新しい世界に踏み出すために。

優等生で日和見主義の「僕」とガールフレンドの吉川、人形の〈はるちゃん〉と会話するクラスメイト・湯浅の一筋縄ではいかない友情関係を描いた表題作をはじめ、三人の男女が紡ぐ“あの頃”の全て。20代の著者が執念で描く、いま、そこに確かに存在する若者たちの情動と煌めきが詰まった、生傷だらけの全6篇。

目次
甲殻類の言語
ディストラクション・ガール
或るミコバイトの話
象の像
恋をしたのだと思います
友情だねって感動してよ

書誌情報

読み仮名 ユウジョウダネッテカンドウシテヨ
装幀 浅野いにお(漫画家)/カバー装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-352061-0
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,408円
電子書籍 配信開始日 2019/03/01

書評

中高年にも刺さる! 小嶋陽太郎の青春小説!

藤田香織

 小嶋陽太郎を御存知だろうか。
 2014年にボイルドエッグズ新人賞を史上最年少の二十二歳で受賞し、同年十月にその受賞作『気障でけっこうです』が刊行されてから丸四年。デビュー直後から「幻冬舎plus」でエッセイの連載をしていて、朝日中高生新聞での小説連載もあった。小説誌では短編がコンスタントに掲載されているし、単行本も間をおかずに出ている(これまでに刊行された著作は八作品)ので、「知ってますよ!」という方も多いだろう。
 私も、四年前から知っていた。なかなか順調ですな、とも思っていた。でも、だけど。今年に入るまで、まともに読んだことはなく、だからボケボケと距離をたもって「なかなか順調ですな」などと見ていられたのである。
 知ってはいたのに、著作を手に取ったこともあったのに、それまでまともに読んでいなかったのは、突き詰めると私が歳を取ったから、だと思う。小嶋陽太郎の作品は、ジャンルでいえば青春小説で、なんとなく「もう遠いな」と感じていたのだ。夏休みとか、部活とか、友情とか、恋とか。ライバルとか、成長とか、汗と涙と喪失と再生とか。帯やリリース情報にちりばめられたそうしたワードは、アラフィフである自分の子供(いないけど)世代の読者に向けられているような気がしていたのである。
 ところが。今年四月に刊行された八冊目の『放課後ひとり同盟』というタイトルには、「ひとり」なのに「同盟」ってなんだろ? と興味を引かれた。友だちができず、本ばかり読んでいた「元・ぼっち」心がうずき、どんな話なのかと軽い気持ちで読み始めた。家族や友人や、ともすれば自分自身とも上手く折り合いをつけられない若者たちを主人公にした連作形式の青春群像小説だった。状況的にはシリアスだ。なのに筆致はリズミカルで、登場人物たちはキュートでファニー。それでいて、どうにも切なさと愛おしさが込み上げてくる。くぅぅ、たまらん! はぁー、泣ける! なんだよ、これ! ちょとちょっと、天才なんじゃないの!? なんどもひとり言を繰り返しながら読み終えて、冷静になって思い改めた。
 やばい。小嶋陽太郎、五十歳でも全然いける! と。

 本書『友情だねって感動してよ』は、そんな小嶋陽太郎の九冊目の著書である。収められた六つの短編は、いずれも舞台が神楽坂で、男男女、女女男の三人が主な登場人物となっている。一風変わった公園や、謎の男が頻繁に現われたりもするが、もちろん、ジャンル的にはこれも青春小説である。
 概要を簡単に説明すれば、幼馴染みの三角関係、いじめられっ子の復讐、すわ運命の恋!?、失恋後遺症、恋の魔術、自意識闘争の話、といえるだろう。
 でも、こうして要約しても、なにも伝わらない。
「第一話は“甲殻類の言語”ってタイトルなんだけど、絶望的に社交性のない“カニ”こと可児かに遥香と、面倒見の良い海老原莉子っていう女子高生が、そろって幼馴染みの貝原京一を好きで、オセロで語り合うんだよ」と、誰かに説明しても、それこそ絶望的に理解されない自信がある。
「出てくる“象公園”っていうのが、怪しくて摩訶不思議でさ。滑り台の象が喋ったりするの」「ホラーと純愛ってほんとに紙一重だよね」「でもあの“みっちゃん”の態度がよかった。あと、横澤の距離感、すごく好きだ!」「表題にもなってるけど、“友情だねって感動してよ”。この話を、このタイトルにするセンスね!」と、話したいことは山ほどあるのに、いやいやそうなんだけど、それだけじゃないんだよ! と、もどかしさが募る。でも、それ以上に本音を言えば、ストーリー的な予備知識なんて、本書には余計なお世話だと思えてならないのだ。
 語り手の年齢や置かれた状況によって、がらりと変わる文体。常識と非常識、日常と非日常の間に張られた独特の境界線。思春期特有の面倒臭い自意識を、自覚している主人公たちの絶妙な脳内考察。癖があっても可愛気もある人物造形。あり得ないことさえ自然に読ませる説得力。
 書評において、禁じ手だとは分かっている。だけど、今回だけは言わせて欲しい。
「とにかく読んで下さい! 小嶋陽太郎、すごくいいよ!」

(ふじた・かをり 書評家)
波 2018年10月号より
単行本刊行時掲載

「ディストラクション・ガール」試し読み

1

 西野にしのの万引きに気づいたときに僕が最初に感じたのは、興ざめだな、ということだった。

 西野は中学入学から二年生の六月、つまり現在に至るまで大変ないじめを受け続けていた。大変なというのは、たとえば教科書をびりびりに破られたりトイレで水をぶっかけられたり制服のスカートにカッターで切れ込みを入れられたりといった工夫のないものだったが、それは実際に受けてみると非常にきついものだ。やられてみればわかる。教科書が破れれば勉強をするのに困るし、全身がびしょ濡れになれば不快なうえに学校指定のジャージに着替えなければならなくて面倒だ。といった実際的なことはもちろんだが、最もいけないのは気持ちがまいること。濡れねずみになり多人数に囲まれその姿をけらけら笑われるというのは人間としての尊厳を踏みにじられるような気がする。

 でも西野はそういった状況においてもまったく泰然自若としていた。教科書を破られようがトイレで水をぶっかけられようが無表情。普通なら、弱い風が吹いてももう少し感慨のある顔をする。

 いじめを受けているという状況にあってリアクションの放棄には二つのパターンがある。ひとつはいじめに慣れすぎて無感覚になり、体がいちいち反応する必要をなくすパターン。もうひとつは、いじめに屈しないという強い意志で、相手を喜ばさないために無理矢理反応を抑え込むパターン。でも西野の場合はそのどちらとも種類を異にしていた。ように僕には見えた。まったく別の空間に心を放り投げているような顔。それは慣れによる無感覚や強い意志の裏返しとは次元の違う完璧な無表情だった。西野は自身に対して起こることに一切の興味がないのではないか? そう僕は疑っていた。松岡まつおか一派(西野をいじめている女子グループの主犯格は松岡といった)による攻撃を受けているときの表情のない西野は超然として、奇妙な神秘性すら漂わせていた。

 しかし泣きもしない悲鳴も上げない、いじめに耐える様子すらない西野を、松岡はどうして攻撃し続けるのか。その理由は後にわかるのだが、このときの僕にはそれが不思議だった。

 それはともかく、そんな松岡と西野の戦争(というにはあまりにも一方的だったが)を横目に見ながら、日々、教科書を破られたり水をぶっかけられたりズボンを脱がされたりしてはいちいち狼狽し、悲鳴を上げ、小路しょうじを喜ばせている僕はなんとも弱い存在だった。

 小路は二年にして男子テニス部のエースにのし上がった男で、背が高く眉が太く上向きの鼻が腹立たしかった。一か月ほど前から僕をターゲットに、数人の手下を引き連れて右に記したような工夫のない行為を繰り返して喜んでいた。小路は弱そうなやつから順にターゲットを決めていじめを繰り返していたので、いずれ自分の番が来ることが僕にはわかっていた。義務みたいなものだ。やられるとわかっているのだから覚悟さえすれば問題ない。そのように考えていたが、誤算はその義務が思ったよりもきつかったことだ。僕は小路の暇つぶしの道具として毎日のように教科書やノートにしょうもない落書きをされ、破られ、給食のスープに蜘蛛を入れられるなどの行為によって精神をすり減らされた。スープに蜘蛛を、というのはまさに今日の出来事だ。小路の指示で僕は小蜘蛛をミネストローネごと口に入れ、二秒後に廊下に飛び出して水道の流しに吐き出した。教室から小路ほか数名の笑い声が聞こえる。蜘蛛はとことこと歩いて水たまりを避けつつ流しを横断してどこかへ行った。

 笑い声がしつこく響く教室に戻ると、一部始終を見ていたはずの担任は、「どしたー、早乙女さおとめ」と言った。担任教師に助けを求めることは無意味だ。僕はなんとなく西野を見た。西野は午前中に松岡によってハサミで前髪を切られたので、眉の上に、弁当についてくるバランを貼り付けられたようなジグザグしたみっともない髪型で静かにパンをちぎって食べている。口を開けるときに西野の口の中が見える。犬歯が大きすぎるせいか、その他の前歯が圧迫されて、あまり歯並びがいいとは言えない。切れ長の一重の目からは感情が読み取れない。髪の毛をあんなふうにへんてこに切られてもあのように平静を保っていられる中二の女子がほかにいるだろうか。西野ならば蜘蛛を食えと言われたらあの不揃いな前歯で咀嚼して飲み込み平然と食事を続けそうだ、と僕は思う。

 西野のような強さを発揮できない僕にできることは窮鼠猫を噛む的に突然反旗を翻して一発逆転を試みることか、「義務期間」が終わるのをおどおどしながら待つことで、僕は後者を選んだ。

 松岡は西野を見ながら笑っている。お腹いっぱい、と言って食べかけのパンをとなりの席の男子に押しつけた。おれが食うのかよ、と言いつつ彼はまんざらでもなさそうな顔でパンを食べた。女王のふるまい。

 僕の日課は神楽坂にある青木神社で祈願をすることだった。日課といっても、青木神社は飯田橋にある学校からは少し距離があるので、実際には週に二回ほどだが、ともかく、定期的に僕は青木神社に通っている。

 数年前に建て替えられたらしい新たな社殿に向かって二礼二拍手一礼。小路が死にますように。小路が死にますように。小路が死にますように。松岡の死を願ったことはない。僕は松岡のことを幼稚園の頃から知っているから、いま、いかに最低な女であっても死を願うほどの気持ちにはなれない。

 青木神社を出て少し歩く。目的地は象公園。それは住宅街の隙間にある。象を模した巨大な滑り台があるから象公園だ。象が二頭連結されたような形をしていて気持ちが悪い。敷地内に階段があり、それを挟んで一階と二階に分かれたような造りになっている。僕は公園の北側の出入り口から入り、一階部分の、キリンを模したイスもしくはオブジェのようなものの脇に座り込んだ。二階部分でギターの音が響いていた。階段を上った先の空間では、いつも作務衣を着たオールバックの小柄な男がベンチに座ってぼうっとしている。今日みたいに、クラシックギターをぽろんぽろんと弾きながら何か歌っていることもある。男は目が合うと、会釈をしてくる。

 僕は小石よりは小さく、砂粒よりは大きいといったサイズの石を探して手に取る。人差し指と親指の先端でつまむようなサイズ。眼下にはアリの巣がある。巣の入り口を小石でぐりぐりとえぐるようにすると驚いたアリが惑うように出てくる。僕は黒い大小の団子が三つ連結されたようななりをした彼らの頭の部分にあたる団子に小石を押しつけて一匹ずつ殺しながら、また心の中で唱える。頼むから死んでくれ、小路。三匹、四匹、五匹、六匹……途中から面倒になってくるので数えるのもやめる。地面に頭のない、もしくは半分にちぎれた、もしくはお尻のない動かぬアリが増えていく。ちょこまかと動き回るので、狙いが外れて正確に頭をつぶすことができないのだ。頭をつぶしたと思ってもまだ動く個体もいる。そういうアリにはさらに力を込めて小石を押しつけ、形がなくなるまで丁寧にぐりぐりと圧迫して殺してやる。まるで明け方の路上の吐瀉物のよう。アリを殺した回数と同じだけ心の中で呪詛を積み上げる。死んでくれ、小路。それにしても、この穴ぼこの中にはいったい何匹のアリがいるのだろう。殺しても殺しても出てくるのだ。出てこなければ生きていられるのに。殺されるためだけに巣から這い出てくるアリを見ていると、だんだんいらだちが募る。が、同時に愉快な気持ちにもなってくる。と思う間にまた頭のないアリが一匹増えた。ちなみに僕がこの公園をアリ殺しの場所として選んだわけは、めったに人が来ないからだ。幼児がキャッキャと遊んでいるようなところではアリ殺しがはかどらない。

 アリ殺しによって多少憂さを晴らすことに成功し、立ち上がろうとして背後に人がいることに気がついた。振り返るとキリンに男が座っている。そういえば、いつからかギターの音が聞こえなくなっていた。男は親しげな笑みを浮かべ、たくさんやったね、と言った。ずっと見られていたのだ、と僕は思った。僕は逃げるように公園を出た。

 飯田橋まで歩いて戻りながら、西野のことを考える。

 西野は僕みたいに陳腐なことはしないだろう。

 僕のやっていることはいかにも陳腐だ。誰かに虐げられているものは自分よりもっと弱いものを虐げて自分を保つのだというつまらない通説を、僕はまるでお手本のように体現している。しかも、僕にとっての「自分よりもっと弱いもの」はアリ。あまりの凡庸さに笑う。西野は、そういった凡庸さからは最も遠いところにいる。僕みたいにちまちまアリを殺して悦に入っている卑小ないじめられっ子とは一線を画す存在なのだ。

 西野はいったい何を考えて生きているのだろう。パンを口に入れるときに見えるガタガタの前歯と大きな犬歯が思い出される。切れ長の目が思い出される。それからあの、心を別の空間に放り出したような無表情。西野西野西野。近頃の僕は、気づくと西野のことばかり考えている。そのせいか、いま、僕の歩く十数メートルほど先に西野の幻覚が見える――いや、それはまさしく西野だった。松岡カッターによる切れ込みの入ったスカートの裾を揺らして、ゆったりとした歩調でこちらに歩いてくる。ときおりスカートの切れ込みから白い太ももが見える。坂の途中で左に折れたのを見て、僕はあとをつけた。西野は自然な足取りで高架をくぐり、小石川の方へ歩いていく。地下鉄の後楽園駅を過ぎ、白山通りにぶつかる手前で、ホームセンターに入った。

 少し距離を置いて、慎重に自動ドアを通過する。西野は「DIY」と表示があるコーナーに行った。僕は陳列棚の陰から西野を見張る。まるでストーカーのようだ。西野が陳列棚から何かを手に取った。一瞬、周りを見回して慣れた手つきで学校の通学鞄の中に滑り込ませた。西野が移動した後、僕は西野が手を伸ばしたあたりの棚に駆け寄って、そこに陳列されているものを見た。大小のネジや釘が並んでいた。僕は再び西野を探した。鉢合わせしないように気をつけて店内をうろつく。出口付近で西野を見つけた。レジを通らずに店から出て行く華奢な背中を追いかける。西野は来た道を戻り、十五分ほど歩いて神社の裏手にある古ぼけたマンションへ消えた。

 それからの数日間、僕は西野のストーカーになった。

 一週間と少しのストーキング活動によって判明したことだが、西野は万引きの常習犯だった。僕が西野のあとをつけた七日間のうち、西野がまっすぐ家に帰ったのは二日だけで、あとの五日は初日のホームセンターもしくは百円ショップ、スーパーマーケットなどで何かを盗んでから家に帰った。僕は、西野が店の商品を手に取って一瞬だけ周りを見回し、手慣れた様子で鞄に滑り込ませる姿を見るたびに幻滅した。万引きという軽微な犯罪行為によって教室で虐げられる憂さを晴らす女子中学生。僕のアリ殺しと大差ない。僕は、そのような平凡な行為によって西野に西野の神秘性を損ねないでほしかった。

 西野が僕と変わらない凡庸な図式の中で生きる「普通」の女の子だったのだと知り、僕の中で膨れ上がっていた西野に対する興味は簡単に雲散霧消した。超越者のものだと思っていた無表情は、慣れか、いじめに屈しないという強固な意志の裏返しに過ぎなかったのだ。

 それでも僕は西野に対するストーキング行為をやめなかった。というのは西野の神秘性が失われた反面、僕は彼女に対して猛烈な親近感を抱いたからだった。虐げられている者同士の連帯感や仲間意識を僕は西野と共有したかった。ねえ西野、君は万引きをすることで自分を保っているんだね。僕はアリを殺しているんだよ。その言葉を、しかし実際に西野にかけることはできなかった。

 西野の万引きには脈絡がなかった。ホームセンターでは大小の釘や重曹や入浴剤。百円ショップやスーパーマーケットではカッターの替え刃、五百ミリリットルのペットボトル飲料など。

 ある水曜の昼休み、僕は女子トイレに入ることを余儀なくされた。小路のマイブームが、僕を女子トイレに入らせ、驚いた女子の悲鳴を聞くという素晴らしい遊びだったのだ。僕のクラスの女子、というかこれは女子中学生全般に言えることなのかもしれないが、彼女たちには便所にこもってコミュニケーションをとることが親密さを確認し合うのに最良の手段だと思っている節があった。昼休みともなれば女子トイレには常に複数人の女子生徒がいる。だから僕を女子トイレに放り込めば小路は常に悲鳴が聞けて満足というわけだ。

 初めてそのゲームが行われたとき、僕は失態を演じた。突然聖域に入ってきた僕を見た女子たちのリアクションが、きゃあ、へんたい、きもい、などのあまりにも漫画的なものだったので、その一辺倒な反応の安っぽさがおかしくて思わず笑ってしまったのだ。その笑みが居合わせた彼女たちにとってみればとてつもなく気持ちの悪いものだったことは想像に難くない。小路に命令されて女子トイレに侵入しつつそれを楽しんでいる変態野郎という認識をこれ以降、僕は持たれることになった。女子たちは、僕が女子トイレに入るたびに、きゃあ、きもーい、と僕を糾弾しつつキャッキャとどこか楽しげでもあった。不潔な生き物だと僕は思った。でも女王・松岡だけは悲鳴を上げなかった。僕を糾弾することもなかった。つまらなそうな顔で、騒ぐ配下の女子を残し、すぐに女子トイレを出て行った。

 この日もゲームが実施されたが、珍しいことに、女子トイレには誰もいなかった。古いタイル張りの床は汚らしく湿っていた。便所の便所らしい匂いと芳香剤の匂いが混じって不快だった。

 トイレから出て誰もいなかったことを小路に報告しようとドアノブに手をかけると個室のドアが開く音がした。振り返ると西野がいた。西野は悲鳴を上げたりはしなかった。じっと僕を見ていた。僕は女子トイレで西野と二人きりだった。僕は内心、この状況に歓喜していた。西野に声をかけるチャンスだ。西野、万引きしているよね、僕はアリを殺しているんだ。言おうとして息を吸い込んだ瞬間に、ストーカー、と西野は言った。僕を非難するような響き。西野の目にはやはり感情というものがないように見えた。僕はその目に射すくめられたみたいになって、動けなくなった。外から小路たちが「おい、中、誰もいないのかよ」と騒ぐ声が聞こえていたが、しばらくして何も聞こえなくなった。飽きてどこかへ行ったのだろう。

 西野は僕を平板な目で串刺しにしたまま動かなかった。西野の目に串刺しにされながら、僕は、急激に恥ずかしくなってくるのを感じた。西野は、僕の心の内をすべて見透かしているのではないか。虐げられているという一点において親近感を覚え、仲間意識を共有したいと考え、傷の舐め合いを期待して彼女を見つめる僕の心理を。そして、そういう愚かな考えを持つ僕の凡庸さを軽蔑しているのではないか。入学当初から僕が西野を見つめ続けていたことさえ知っているのではないか。やはり西野は凡庸ないじめられっ子ではないのだと僕は思った。僕は西野に軽蔑されたくなかった。西野の目には奇妙な磁力みたいなものがあった。目をそらすことは許さない。そう言われているような気がした。でもこれ以上、西野に僕の愚かな内心を見透かされる恥ずかしさに僕は耐えられない。そう思い視線を外そうとしたタイミングを見計らうようにして、

 「一緒に作る?」

 唐突に西野が言った。その声は先ほど「ストーカー」と僕に言い放ったときよりも優しく、目には一瞬前までにはなかった穏やかさがあった。……作る? と僕が思ったのを察するように、爆弾、と西野は続けた。「爆弾で殺すの。一緒に作る?」

 小さな子供に語りかけるときのような優しい口調。いま西野は僕を仲間として受容する意思を示している。僕はそう感じた。自分の心臓が脈を打つ速さと強さを上げたのがわかった。西野に軽蔑されたくないと思い緊張していた僕は一瞬でその緊張を忘れ、高揚感さえ覚えて胸を高鳴らせた。僕は数秒間、その高揚を味わってから西野にたずねた。

 「殺すって、誰を?」

 僕の問いに、西野は細い首を傾げるだけで何も言わなかった。

 「……もしかして、松岡?」

 西野はゆっくり僕に近づいて僕の手を握った。

 西野の顔が、すぐ近くにきた。不揃いな前歯。

 西野の笑った顔を、僕は初めて見た。

2

 ここで僕は松岡の話をしたい。

 僕は松岡と幼稚園の頃からの幼馴染だった。いまでこそ女王としてクラスの女子の頂点に君臨する松岡だが、昔は正反対だった。いつもおどおどびくびくし、自信なさげな顔をして、声も小さくて、守りたくなるような女の子だった。

 松岡が変わったのは小学校の三年生になった頃からだ。変わった原因ははっきりしていて、それはクラスの男子からちやほやされだしたから。

 松岡の顔面は異性を惹きつけるのに必要な要素をすべて備えていて、猛烈にかわいかった。アーモンド形の二重の目と自然な曲線を描く長いまつげ、鼻は主張しすぎずあるべきところにあるべきサイズで収まり、ふっくらした唇はいつも赤く潤っていた。肌は透けるように白かったし、細く、茶色がかった髪の毛はつやめいていた。その他の女の子とはどこか生物としての種類が異なっているみたいに見えた。でも人形のようとか作り物のようとかいう言葉にあらわされる美しさゆえの近寄りがたい冷たさはなかった。男に好かれるための現実に即した美しさだった。小三の頃からそれが目に見えてはっきりしたものになり、松岡もそれを自覚するようになった。

 中学生にもなると松岡のかわいさと自らを魅力的に見せる技術には磨きがかかり、松岡が目を合わせて軽く口角を上げればクラスの男連中は簡単に恋に落ちた。というか、松岡がそのような技術を使うまでもなくすでにほとんどすべての男子が松岡に恋心を持っていた。というのはとてもきれいな言い方で、おそらくほとんどすべての男子が毎日夜寝る前に松岡の裸を想像していた。裸を想像しないのはクラスではたぶん僕だけだ。それは僕が硬派だからではなく、幼少期から松岡のことを知っているせいで、そういう見方ができないからなのだけど。

 松岡には三人の姉がいた。三人の姉は松岡と違って、あまり顔の造形が整っていなかった。といって三人の姉が特別不細工に生まれていたというわけではない。ただ、松岡だけがたまたま何かの作用で突然変異的に美しく生まれてしまったので、それに比して、ということだ。

 三姉妹は末の妹だけが美しく生まれてきたことを妬み、松岡に対して、物心つく前からおまえはブスだと暗示のようにして言い聞かせ続けた。おまえは私たち四姉妹の中でひとりだけとびぬけてブスだから調子に乗るんじゃないと。その成果は素晴らしく発揮され、信じられないことだが、誰よりも美しい松岡は幼少期、自分のことを誰よりも不細工だと信じ込んで、自分は醜くて見ているものに不快感を与えるから早く死んだほうがいいと思っていた。

 僕は松岡の家の三軒となりに住んでおり、だからよく松岡と遊んでいた。小二までの松岡は三姉妹の迫害を受けて、いつも暗い顔をしていた。僕は松岡のことをかわいそうに思って、いつも彼女を慰めてあげた。くみちゃんはぶすじゃないよ、かわいいよ。僕がそう言うと、松岡はいつも、遭難中にヘリコプターの音を聞いたような、希望を感じさせる顔をした。僕がくみちゃんを救っているのだ、と僕は思った。なので僕は、くみちゃんはぶすじゃないと松岡に言うことを義務のように感じ、繰り返していた。松岡は僕の言葉に救われている、僕の言葉を頼りに生きているという手ごたえが僕にはあった。それは僕の主観に過ぎないが、しかし僕の慰めがまったくただの自己満足に終わっているということはなかったはずだ。でも家に帰れば三人の姉にブスブスブスと連呼され、松岡はぼろぼろにされる。小学校にも上がっていない妹の美貌に嫉妬して三姉妹で結託してそのような扱いをするのだから、女の嫉妬というのは恐ろしいものだといまになって僕は思う。

「おまえは不細工だ」という三姉妹の呪文も、松岡のかわいさが疑いようもなく明らかになってきた小三頃から意味を持たなくなってきた。いくら三姉妹が松岡にブスブスブス、生きる価値がない、と言っても、学校では男子がみなどこか緊張した面持ちで無条件に松岡に優しくするのだ。

 そしてあるとき、スイッチが入ったように人格が変わった。姉からの迫害でたまったストレスを晴らすように次から次へとクラスメイトの女の子をターゲットにしてはいじめを繰り返し始めた。

 松岡がターゲットに選ぶのはいかにもいじめられっ子然とした子ではなく、決まって男子に人気のある女子だった。つまり松岡ほどではないが顔の造形が整っている、あるいは異性を惹きつけるだけの愛嬌や魅力のある女子だった。一度男子にちやほやされだした松岡は、自分以外の女子が男子からの注目を集めることが許せなくなったのだった。三姉妹から不細工だと言われ続けた、その呪いを振り払うために、すべての人間の「ちやほや」を自分に集めたかったのだろう。その姿は病的に見えた。そんなことを繰り返していれば、いつか松岡は手痛いしっぺ返しを食らう。僕はそう思っていたが、幸いにもというのか不幸にもというのか、松岡は頭がよく、次々といじめを繰り返しながら巧みに復讐を避けて女王になった。でも、松岡はどうしてここまでひどい人間になってしまったのか。幼少期における三姉妹の理不尽な迫害は松岡の人格を歪めるのにじゅうぶんなものだった、ということなのだろう。

 誰もが松岡來未を恐れていた。僕が松岡と言葉を交わすことはなくなった。

 僕が松岡に、「くみちゃんはかわいいよ」と言わなくても松岡は自分がかわいいことをちゃんと知っているし、そんな言葉をかけてくれる人はほかにたくさんいる。僕は徐々に松岡と距離をとるようになった。いま思えば、幼いながらにヒロイズムのようなものを感じたくて僕はそうしたのだろう。僕の役目は終わった、とかなんとか、そんなことを思う自分に酔っていたのだ。妙なかっこつけ方をする子供だ。

 そして、思えば松岡がおかしくなり始めたのは、僕が松岡と距離をとって「くみちゃんはかわいいよ」を言わなくなった直後からだった。もしかしたら僕は松岡に声をかけ続けなければいけなかったのかもしれない。ずっとあった僕の慰めは三姉妹の呪いで死にかけの松岡にとっての専用の薬みたいになっていて、だから他の人間のちやほやで代替されるものではなく、僕の「くみちゃんはかわいいよ」がなくなったことで松岡の精神の均衡は崩れたのかもしれない。

 僕が松岡と距離をとらなければ松岡がここまでぶっ壊れた人間になることもなかったのではないか。まあ、いまさらそんなことを思っても遅い。それに、僕が松岡の人格の破綻を止められたかもしれないなどという考え方こそがヒーロー気取りの僕の自惚れであり、たぶん僕が松岡に声をかけ続けても結果は変わらなかっただろう。

 僕の慰めだけを頼りに生きていた松岡は、学校では、僕と目もあわせなくなった。

 松岡の性格の歪みと女王としての貫禄は年を追うごとに増していき、中学に上がって以降、松岡のいる僕のクラスで目立つようなことをする女子はひとりもいなかった。松岡の標的になる可能性があると自覚している女子は誰もが松岡に気をつかい、彼女の傘下に収まることで自分の身を守った。これで松岡は満足して少しは落ち着くだろう、という僕の予想は外れた。松岡は、クラスでいちばん存在感のない女子をなぜか標的にして攻撃し始めた。それが西野だった。西野が男子と話をしているところを見たことはなかったし、西野の顔は、整っている、きれい、かわいい、と評価するには少しアンバランス過ぎた。僕は入学式で初めて見たときからそのアンバランスさに言葉では説明できない、惹かれざるを得ない何かを感じていたが、それはかなり特殊な例だろう。客観的に見て、松岡に向けられる「ちやほや」を西野が奪う可能性はゼロだった。なのに松岡はどうして西野を攻撃するのだろう?

 松岡はとうとう手当たり次第に誰かを虐げて喜ぶ人間になってしまったのだと僕は思った。病的ではなく病気だ。そしてそんな松岡は、西野の言葉が冗談でなければ、西野に爆殺されようとしている。

 西野が爆弾を作っているのは、ある空き地に放置された直方体のコンテナの中でだった。何かの工事を途中で投げ出した跡地のようだ。倉庫に使われるようなコンテナが複数あり、西野はそのうちの一つを爆弾製作の研究所としており、そこでいくつかのものを組み合わせて爆弾を作っていた。六月のコンテナの中は蒸し暑く、入った瞬間に体温が二度ほど上がるような感じだった。

 コンテナの中には何本ものペットボトルが並べられていた。西野が作っているのはペットボトル爆弾だった。五百ミリリットルのペットボトルに水と入浴剤を入れ、ふたをする。入浴剤が水に溶けると炭酸ガスが発生し、その圧力でペットボトルが膨張して爆発するという仕掛けのようだ。酢や重曹など別のものを用いても同じような爆弾が作れるらしい。西野の万引きは爆弾を作るための万引きだったのだとこのとき僕は知った。一度、西野のペットボトル爆弾を見せてもらった。水と入浴剤を入れてふたをし、軽く振って数秒間放置したペットボトルはふたが勢いよく外れて飛んだだけで、爆弾というにはあまりにもしょぼすぎた。小学校の理科の実験レベル。そんな僕の感想を察したかのように、

「いまのは早乙女君に原理を教えるための実験」と西野は言った。「入浴剤の種類とか分量で爆発の威力は変わる」

 西野はコンテナの中に胡坐あぐらをかいて座り込み、数種類の入浴剤の成分表を熱心に読み始めた。スカートの裾から西野の細い内腿がのぞいて、僕はそこにある、猫にひっかかれたような数本の傷が気になった。平行に並ぶ生々しい赤みのある線。僕の視線に気がついた西野は「これ?」と傷を指して言った。

「……それ、松岡にやられたの?」

「違うよ」と西野は言った。「自分でやったの」

「自分で?」

「手首だと目立つでしょ」

 昔は手首を切っていたが騒がれて面倒なので、いまは見えないところにしていると西野は言った。目を凝らしてよく見れば、西野の手首にはうっすらと何本かの傷の跡があった。

 この日から僕は西野と一緒に放課後、空き地の放置されたコンテナで過ごすようになった。西野の体にはたくさんの傷があり、西野はそれらをひとつひとつ僕に見せてくれた。

「体が痛いのは慣れるから、そんなにつらくはないんだけど」

 ブラウスをはだけて、青く鬱血した肩のあざを僕に見せながら西野は言った。それから今度はブラウスを胸の下あたりまでまくり上げた。痩せた白いあばらに、肩にあるのと同じようなあざが点々とあった。それらは西野が自分でつけたものではなかった。

 西野の生い立ちは絵に描いたように不幸なものだった。

 西野には父親がいない。母親は淫乱で、西野がまだ幼いころから家には代わる代わる複数の男が出入りした。ほとんどの男が酒乱で、西野の家にやってきては酒を飲んで暴れた。西野はそれらの男からあらゆる意味での暴力を受けて育った。西野の体にはあざとともに怒りと絶望が蓄積されていった。中学生になってからは、家だけではなく学校でも尊厳を踏みにじられるようになった。松岡によって。

「こうやって私の不幸は増えていくんだって思った」と西野は言った。「体と違って心が痛いのは少しも慣れない。どんどん傷が大きくなってく感じがする」

 西野はひたすら絶望して、ひたすら怒りを溜めていた。松岡にいじめられている最中の西野の無表情は何も感じていないゆえの無表情ではなく、体の外に怒りを漏らさないための無表情だった。あの無表情の下で西野は怒りをたぎらせて、それをペットボトル爆弾に換えて松岡に炸裂させようとしているのだった。

「人の心の痛みがわからない人には、わかりやすく教えてあげなくちゃ。人を傷つけることはいけないことなんだって」

 西野はそう言いながら来る日も来る日もペットボトルに入浴剤や重曹を詰めた。確実に殺すために、より強力な爆弾を作る。そのためにベストな配合を探る必要がある。

「たくさん反省してもらうんだ」

 西野は呪文のように繰り返した。

 ペットボトル爆弾の爆発音は子供の遊ぶ爆竹と変わらない軽く甲高いものだった。だから近所に轟音が響いて、コンテナの中で妙なことをしている人間がいると通報されるようなことはなかった。

 真剣な表情で爆弾作りにふける西野を見ながら、しかし僕は、当初からある疑問を抱いていた。

 はたして、ペットボトル爆弾で人を殺すことは本当に可能なのだろうか? 本当に人を殺したかったら、いくらでも別の方法がある。

 僕は西野の真意を図りかねていた。

 僕にはひとつの仮説があった。

 もしかしたら西野には松岡を殺すつもりはないのではないか。口ではああ言っているものの、爆弾を作ることそれ自体が僕のアリ殺しに相当する精神の安定を図るための行為なのではないか。だとしたら僕が西野に見ていた神秘性はやはり僕の思い込みだったということになる。しかしむしろ僕は、そうだったらいいとさえ思い始めていた。自らの精神安定の儀式を僕に公開することによって、西野は僕と親密になろうとしているのだ。たぶん西野だって僕と同じで、傷の舐め合いを求めていたのだろう。その証拠に、僕が初めてコンテナを訪れて半月ほどたった頃から、僕たちがコンテナに集う目的は少しずつ変わっていった。

 西野は僕に、自分の体を触らせるようになった。

 西野の肌はすべらかで、蒸し暑いコンテナの中でもガラスみたいに冷たかった。西野はコンテナの床にやはり胡坐をかいて座り、僕の手を取って露出した自分の内腿にある、自分でつけたという傷に触れさせた。西野の内腿に平行に引かれた薄赤い線は何かのしるしみたいだった。僕はそのしるしみたいな線を横切るように、西野の肌の上で、ゆっくりと人差し指の腹を滑らせた。最初冷たかった西野の肌は、僕の体温が移ったのか、僕が触れたところから順番に熱を持って人間らしい温度になった。血管が青く透ける西野の薄い皮膚の感触を僕は指と手のひらを使って丁寧にたしかめた。初めて女の子の肌に触れた僕にとってその遊びは新鮮で、何時間触れ続けても飽きることがなかった。僕は西野の肌に触れることができる喜びでおかしくなりそうだった。

 僕が西野に触れている最中、西野は一重の細い目でじっと僕の顔を見た。その顔を見ながら、自分の傷を見せられる相手を西野は探していたのだ、と僕は思った。

 西野の微かな息遣いがコンテナの内部に響いている。僕は衝動的に西野の犬歯を見たくなって、西野の上唇に親指を押し当て、めくるように押し上げた。動作が乱暴になってしまったが、西野はいやな顔をしなかった。

 不揃いな前歯が目の前にあった。大きな犬歯の先端に触れる。触れることで、見るだけではわからない形と質感を確認する。西野の犬歯はつるつるとして、人間のものじゃないみたいに鋭く尖っている。西野は小さく口を開けて僕の指を噛んだ。痛くなる寸前、かゆいような、くすぐったいような強さで長い間、西野は僕の指を甘噛みした。

 すべての指を噛み終えると西野は満足したように僕の手を口から離した。僕はすぐに噛まれた箇所を見たが、歯形はついていなかった。僕はそのことを少し残念に思った。

 西野の唾液に濡れた手で西野のブラウスをまくる。西野の左の肋骨の下に、昨日まではなかった新しいあざができていた。僕はそこに顔を近づけて、そっと舌をあてがった。西野の肌は僕の肌よりも熱くなって、汗ばんでいた。西野の匂いがする。僕は西野に窒息しそうになる。

 薄暗いコンテナの中で、僕たちは文字どおり傷を舐め合った。

3

 松岡の西野に対する攻撃はやむことがなかったが、小路の僕に対するいじめは急激に終息を迎えつつあった。

 コンテナの中で西野の体を触るようになってから、僕は小路からいじめを受けることを苦だと思わなくなり始めていた。なぜならば他人から虐げられていることを共通点として僕は西野とつながっていたのであり、だから僕にとっては小路からあらゆる嫌がらせを受けておもちゃにされることは、西野との共通点を確保するという意味において必要なことだった。しかし、そういう意識があるから僕は何をされても前みたいにうろたえて小路を喜ばせるということがなくなり、すると小路は飽きて僕に手を出すことがなくなった。僕は、僕だけがいじめから脱してしまったことに焦りを感じた。でもそのことによって僕と西野の関係に変化が生じることはなかった。

 近頃、松岡の西野への攻撃はエスカレートしていて、西野のロッカーや机の中にはどこから調達してきたのか、カエルやコウモリの死骸、ムカデ――これは生きたものだったが――が毎日のように出てきた。体操服はハサミでバラバラに切り裂かれ、使い物にならなくされた。給食の汁物にはチョークや画鋲はもちろん、ひどいときは僕の小蜘蛛の何倍もの大きさの黄色と黒の縞模様をした蜘蛛が入っていた。怖いから刃向かいこそしないものの、松岡の暴走に、松岡傘下の手下たちでさえ引いているようだった。気味の悪い生き物を調達するのは松岡の手下たちなのだ。

 西野は相変わらずだった。表面上は、心を別空間に放り投げた顔。

 担任は西野が何も言わないのをいいことに見て見ぬふりだ。こんなことを続けていたら西野の気が変わり、松岡はいつか本当に殺されてしまうのではないか。僕はそのことが心配だった。松岡を爆殺する想像をしながらおもちゃみたいなペットボトル爆弾を作り、僕に架空の爆殺計画を話すことで西野が我慢していられるうちはまだいい。でもその範囲を超えてはだめだ。西野より先に、病的な、いや、病気の松岡に付き合いきれなくなった松岡傘下の女子たちが革命を起こす可能性だってある。松岡はいったい何を考えているのだろう。西野の何が、松岡をそこまでさせるのだろう。

 

 ある日、いつものとおりに西野とコンテナに寄って帰り、家から最も近いところにあるコンビニを曲がったところで僕は松岡と鉢合わせした。十九時過ぎだった。松岡は所属するバレー部の練習を終えたその帰りだった。家まで歩いて七分か八分ほどの地点。三軒となりの家に住んでいるので、普通に歩けばとなり同士、並んで歩くことになる。でも松岡は僕の姿を認めてすぐに、僕の存在を意識から抹消するみたいに目をそらした。あるときから僕たちはこうだ。もう何年も、僕は松岡と会話を交わしていない。

 僕はちんたら歩く松岡の斜め後ろを一定の距離を保って同じスピードで歩いた。松岡の歩き方は一見普通の歩き方に見えるが、でもどこかぎこちなかった。言葉は交わさなくなっても昔から彼女のことを知っているし、いまだって毎日見ているから僕にはわかる。松岡は、僕の存在をとくに意識していない感じ、を出すために苦心している。

 松岡、と僕は言った。僕の中で、松岡はもう「くみちゃん」ではないのだ。

「なに」

 松岡は振り向かずに返事をした。松岡が普通に返事をしたことが意外だった。

「最近、ちょっとやりすぎじゃない」

「なにが」松岡はやはり僕に背を向けたまま短い言葉で答えた。

「西野のこと」

「うるせー、いじめられっ子」

 と言う松岡は教室の女王の松岡ではなかった。昔の、姉たちにブスブスブスと言われて泣いていたくみちゃんの面影がいま、僕の数メートル先を歩く松岡にはあった。もしかして松岡はいまだに自分のことを不細工だと思っているのではないか? 僕は唐突にそんなことを思った。

 一分ほど沈黙が続き、ためらいを感じさせる口調で松岡が言った。あんた最近、西野と何してるの。

 松岡が僕と西野が会っているのを把握していることに驚きつつ、べつに、と僕は答えた。

「いじめられっ子同士で慰めあってんの? そういうの気持ち悪いしみっともないよ。吐き気がする」

 気持ち悪い。みっともない。吐き気がする。それらの言葉の響きの辛辣さに反して、松岡の声は弱々しかった。

 くみちゃんはかわいいよ。いま、僕がそう言えば松岡の歪みを修復することはまだ可能なのではないか。直感的に僕はそう思った。松岡はやはり、唐突になくなった専用の薬を求めているのだ。

「松岡、ブスじゃないよ」

 こちらを振り向いて、は? と言う松岡の顔はひきつっていた。

「松岡、かわいいよ」

 少しの沈黙の後に、そんなの、私がいちばんわかってるし、と、松岡じゃない、くみちゃんの小さな声で松岡は言って足を速め先に帰っていった。

 日曜の夕方にコンテナに呼び出されていたので、出かける準備をしていた。おまえ、彼女でもできたの、と姉に言われた。できないよ、と答えた。

「休日に出かけるなんて珍しいじゃん」

「僕だって出かけることくらいあるよ」

「悪いことすんなよ」

 同級生の体に触ることは、「悪いこと」の内に入るのだろうか。

 コンテナに行くと、小さなクーラーボックスがあった。その上に腰かけて、西野はいままでに見たことのない、すごく嬉しそうな顔をしていた。コンテナの隅には大きなテディベアがあった。小学校低学年の児童くらいのサイズのテディベア。どうしたの、これ、と僕は西野にたずねた。

「ごみ置き場で拾ってきたの」

 西野はおもむろにクーラーボックスから立ち上がり、ふたを開けた。中には透明のビニール袋があり、その内部は白い煙のようなもので満たされていた。内部から発散される空気が冷たい。

「ドライアイス」

 上機嫌な声で西野は言い、僕をコンテナの外に出るように促した。西野もクーラーボックスと二本のペットボトルを持って外に出てきた。試してみたら入浴剤よりこっちのほうがよかった、と西野は言いながら、片方のペットボトルの中に細かく砕いたドライアイスを、トングを使って大量に入れ始めた。ペットボトルの中にはあらかじめ大小の釘やカッターの刃が入っていた。ドライアイスを投入されたペットボトルの口から白い水蒸気が立ちのぼる。西野はドライアイス・釘・カッターの刃がパンパンに詰まったペットボトルに、もう一本のペットボトルから水を注いだ。素早くふたを閉め、それをコンテナの中、テディベアの足元に転がるように投げ込むとコンテナの引き戸を閉め、十五秒くらい、と言った。数秒後、これまでと規模の違う大きな爆発音とともに、コンテナの壁に金属が叩きつけられる音がした。コンテナの引き戸を開けて中を見ると、水蒸気で白く煙った空間の向こうにテディベアの姿が見えた。僕は息を飲んだ。壁際の角に背中をつけて座っていた巨大なテディベアは爆発の前と同じ姿勢でそこにいたが、腹や腕や足や顔に大小の釘やカッターが刺さり、もこもこした布地の表面は引き裂かれぼろぼろになっていた。

 西野は右目があった場所から太い釘を生やしたテディベアの頭に手を置き、ね、と僕に笑いかけて、

「これで殺すんだ。たくさん反省してもらわなくちゃ」

 きわめて通常のトーンで言った。

 その顔と声で、僕は西野のことをまったくつかみきれていなかったのだと理解した。西野は本当に、最初から、松岡を殺すつもりで爆弾の作り方を研究していたのだ。

 分量と爆発までの時間はもうつかんだから、あとはいつ計画を実行するか決めなくちゃ。すぐ溶けちゃうから工夫しないとなー。嬉々として話す西野が僕は怖かった。いまの口ぶりからすると、西野は僕のいないときに、すでに何度かいまのような実験を繰り返しているのだろう。僕は松岡に、このテディベアみたいな姿になってほしくなかった。あのさ、西野、本当に、と僕は言った。

「なあに、早乙女君」

 西野の目はあの平板な目、女子トイレでストーカーと僕に言ったときと同じ、僕の心を見透かすみたいな目で、また僕は射すくめられたみたいになって、言葉を封じられた。本当にやるの? そんなことを言えば西野は僕を軽蔑するだろう。僕は西野に軽蔑されたくなかった。西野にがっかりされたくなかった。

 僕が黙っていると西野は僕の手を取って自分の頬に触れさせ、それから、歯形がつくくらい僕の指を強く噛んだ。鋭い痛みが痺れになって全身に走った。西野の、端正とは言えない顔が、恐ろしく美しく見えた。西野の体から目に見えない何かが立ちのぼっていた。それは匂いみたいなもので、でも匂いとは違って、僕は、西野のことが怖いのに、その匂いみたいな何かに吸い寄せられて西野の体に夢中で触れた。西野の体には腿にも腹にも、また新しいあざができていた。変色した部分を優しく舐める僕の頭を撫でながら、西野は小さく息を漏らした。

 後に松岡を殺傷するはずの釘やカッターが散乱した部屋で、西野の体のあらゆる部分に手や口で触れながら、松岡がどうして西野を攻撃するのか、僕はやっと理解した。松岡が標的に設定する基準が異性を惹きつける女の子だとしたら、西野が選ばれたことは不思議ではない。松岡は、西野の、目に見えない匂いみたいな何かに気づいていたのだ。もしかしたら、僕が西野に夢中になり、西野との遊びに耽溺することにも。

 日が暮れた頃にコンテナを出て僕は西野と別れた。

 松岡を西野に殺させないようにするにはどうすればいいのだろう、と考える。考えながら、軽蔑されるのを恐れて西野に何も言えず、それどころか、さっきまで夢中で西野の体を触っていたのに、西野の顔が見えなくなった途端にそんなことを考え始める自分は愚かな生き物だと思った。でも僕は松岡に死んでほしくはなかったし、西野に人殺しになってほしくなかった。

 西野を説得しても無駄だということはわかる。何より僕は西野のあの平板な目を見たくなかった。では、どうすればいいのだろう。松岡の足元に西野がペットボトル爆弾を転がすだけで、松岡は、死なないまでも大けがを負う。いきなり転がされたペットボトルを爆弾だと判断できるはずがない。なんだ? と思って拾い上げでもしたら、釘やカッターで松岡のきれいな顔はめちゃくちゃになる。

 惨事を想像しながら僕が取った行動は馬鹿げていて、以前、小路の死を願うために通っていた青木神社で祈ることだった。西野の爆弾が爆発しませんように。西野の爆弾が爆発しませんように。西野の爆弾が爆発しませんように。もう一度思う。我ながら馬鹿げている。神頼みが無意味なことは小路が生きている時点で証明されているのだ。

 参拝を終えると後ろに公園のあの男が並んでいて、最近見ないね、と言った。僕は曖昧な会釈をして神社を出て家に帰った。

 西野の「計画」が実行されたのは翌日だった。

4

 机の上にいすが積み上げられたものが教室のベランダに二つ並んでいて、片方のいすの上に西野が立っていた。もう片方のいすには見覚えのあるクーラーボックス。西野の足はベランダの手摺りより数センチ高い位置にある。僕たちの教室は四階で、ベランダの下は固いコンクリートだった。松岡も含めてクラスメイトは教室のベランダとは反対の壁際か廊下にいて、みな西野のことを見ていた。僕はひとりだけ教室の中ほど、西野から一番近いところにいた。

 この日の三限の授業は体育だった。西野は学校を欠席していた。

 体育の授業を終えて更衣室で着替え、おのおの教室に戻ると、西野が前述のような状態でベランダにいた。僕は驚き、ベランダへ向かって教室を横断し西野に駆け寄ろうとしたが、中ほどまで来たところで西野に制止された。

 松岡が傘下の女子を引き連れて教室にやってきたのは一番最後だった。異様な緊張感に包まれて静まり返る教室に、廊下から「なになに、なんかあったのー」という松岡の声が聞こえると、西野はいすの上で少しだけ笑みを浮かべた。

 松岡が教室に入ってきて、いったん松岡に視線が集まった。なに、と松岡が言うと教室の入り口付近にいた女子がベランダを無言で指した。松岡はベランダに目をやり、西野を発見して、そして西野の考えていることを一瞬で察したのか、目を見開いて硬直した。

「松岡さん」と西野が言った。

 廊下でひそひそと何かささやき合っていた女子の声が止まり、完全な沈黙が降りた。松岡は返事をしなかった。できなかったのかもしれない。

「ねえ松岡さん」と西野はもう一度言った。「私、いまから死ぬんだけど、ちょっと聞いてほしいことがあるから聞いて」

 どういうことだ。いまから死ぬ? 西野が?

「松岡さん、松岡さんは、人から傷つけられたことある? それがどれくらいつらいか知ってる? たぶん松岡さんには言葉で言ってもわからないと思うんだ。だからすっごくわかりやすくして教えてあげようと思ったの」

 西野が膝を折ってその場にしゃがみ込むと、不安定ないすが揺れて悲鳴が上がった。僕は西野の視線が教室から外れている隙にゆっくり西野に近づいた。

「こっち来たらいますぐ飛び降りる」

 西野の静かな言葉に、僕はベランダから三メートルのところで動けなくなった。

 西野はクーラーボックスからペットボトルを取り出した。軽く振ってジャラジャラと鳴らし、いい感じ、と言った。ペットボトルのふたは空いていて、そこから真っ白な水蒸気が噴き出している。

「これ、何かわかる?」西野は松岡に向かって言った。

 松岡は啞然として西野を見上げるばかりで、やはり何も答えない。

「爆弾だよ。水を入れると爆発して、中に入ってる釘とかカッターの刃が飛び散るの。でも安心して。これで松岡さんを傷つけるつもりはないから」

 廊下から誰かが走ってくる足音が聞こえた。足音はだんだん大きくなり、担任が教室に飛び込んできた。誰かが呼びに行ったのだろう。

「西野」担任は真っ青な顔で言った。「西野、落ち着け」

「落ち着いてます」真顔で西野は言った。

「そうか、いったんそこから降りろ、な」

 担任は、な、な、と繰り返した。あとから続いて何人もの教師が来た。

「先生すみません、いま松岡さんと話してるので黙っててください」

「ああ、だけど、そこからまずそこから降りろ、な」と言いながら担任が一歩ベランダに近づいた。

「黙ってくれないと飛び降ります。それ以上近づいても」

 西野がいすにかけている体重をわずかに後ろに傾けた。また悲鳴が上がる。

 担任は押し黙り、それ以上西野に近づかなかった。残りの教師にもできることはなかった。

「この爆弾は私を傷つけるためのもの」再び西野は松岡のほうを見て言った。「私、目とかほっぺとか口とかに釘とかカッターが刺さってぐちゃぐちゃになって、すっごく痛い思いしながらここから落ちて死ぬから、それを松岡さんに見ててほしいの。これから起こる爆発が、私の怒りと悲しみと痛みだと思って。いくら人の気持ちがわからない松岡さんでも、ちょっとは何か感じてくれると思う」

 西野がまたしゃがみ、クーラーボックスからもう一本、水の入ったペットボトルを取り出した。その水をペットボトル爆弾に注ぎ出して、目線が教室からいったん外れた。

 もし西野に飛びかかるならいまだ。でも西野が少し体重を向こう側に傾ければそれで終わりだと思うと、僕の足は動かなかった。

 水を注がれたペットボトルの口から噴出する水蒸気の勢いが強くなるのを見ながら、「どんどん傷が大きくなってく感じがする」という西野の言葉を僕は思い出していた。西野が自分でつけた手首や内腿の傷を思い出していた。思い返せば西野が自分の口で松岡を、、、殺すと言ったことは一度もなかった。西野は最初から自分を殺す爆弾を作っていたのだ。西野の傷は、これ以上大きくならないところまで広がっていたのだ

「やっと終わる」

 西野の、つぶやきみたいな小さな声が、おそらく僕にだけ聞こえた。

 僕はなぜか、すごく腑に落ちたような気分になっていた。

 いまから起こる爆発の意味は松岡への当てつけに終始するものじゃない。できるだけむごい死に方をすることで、自分にとってひどいことばかりが起こる世界に西野は復讐したいのだ。呪いを残したいのだ。

 ずっと傷つけられてきた西野は、きっと子供の頃からいつか自分で死を選びたくなることを感覚的にわかっていたのだろう。松岡がきっかけになっただけだ。そして松岡をきっかけにさせたのは、もしかしたら僕かもしれない。ひとつ疑問に思うのは、西野がどうして僕にあのコンテナのことを教えて、テディベアまで用意して爆弾を見せびらかしたのかということだ。西野はどこかで僕に止めてほしかったのだろうか。僕がはっきりと口に出して止めていれば、西野はこんなことをしなかったのだろうか。

 西野がペットボトル爆弾に水を注ぎ終えてふたをし、顔の横にもっていった。清涼飲料水のコマーシャルのよう、と状況にそぐわないことを僕は思った。それから、十五秒くらい、と思った。

 みんな離れないと危ないよ。西野の言葉に、ざわめきとともにクラスメイトたちが次々と廊下に飛び出した。松岡だけが教室の入り口で固まっている。密閉された容器の中で、水がブクブクと泡を立てている。僕の足は前にも後ろにも動かない。早乙女君、逃げないの? 西野が不安げな顔で僕に言う。すでに五秒は経っている。僕の足は動かない。なんで動かないんだ? 拮抗しているのだ。一か八か飛び出して西野を助けたい気持ちと、自分の身を守るために西野を見捨てて逃げたい気持ちが。僕が西野に飛びついてベランダの内側に引っ張り、飛び降りを阻止することができても、爆弾を外に放り出すことができなければ二人とも爆発をくらう。逃げたほうがいいに決まっている。でも、本当にそれでいいのか? 早くしろ、どっちか選べ。でも足が動かない。焦りながら、あれ、と思う。何秒経った?

 まだ十五秒経っていないのか? 僕が動かないのを見て、西野の顔が、焦ったような悲痛なものに変わっていく。僕を巻き添えにすることは西野の計画には含まれていないのだろう。そんな顔をするくらいなら、いますぐそれを向こうに投げてくれ。ペットボトルは爆発寸前に膨らんでいる。一刻の猶予もない。躊躇した分だけさらに猶予がなくなる。だめだ、いま、考えているうちに、確実に十五秒は経った。西野のことはあきらめて窓枠の下に伏せろ。しかし僕の足は床を蹴って、僕はベランダに飛び出していた。両腕を西野の腰に巻きつけるようにして内側に引っ張る。西野は反射的に外側に体を傾けたが、僕の力のほうが強かった。僕は両腕を西野の腰に回したまま、背中から、西野を抱きとめるようにベランダの床に倒れた。僕の顔の三メートルほど先で、釘やカッターの詰まったペットボトルが信じられないほどの大きさに膨張していた。

 事件から一週間が経った。

 学校は事件を警察沙汰にはしなかった。西野は病院に入院している。詳しくは聞いていないけど、西野がいまどういう状態か、だいたいの想像はついた。

 松岡は連日教師と面談をしていた。憔悴している感じではないが、以前の存在感はなくて、松岡に話しかける人間もいない。まあ、あんなことがあったあとなら当然だ。教室全体が妙な空気で、小路でさえ休み時間も静かにしている。でも、もう一週間も経てば元に戻るだろう。だいたいそういうものだ。松岡が女王に戻ることはないだろうけど。

 あのとき、三メートル先に膨張した爆弾を目にした僕の体はまたもや勝手に動いて、無我夢中でベランダの床を這い進み、爆弾を拾い上げて、寝転がったまま、ずしりと重いそれをベランダの外に投げた。ペットボトルは弧を描き、手摺りの向こうに消えた。直後に僕は耳がおかしくなるような爆発音を聞いた。耳鳴りの中、胸に手を当て、どこも痛くないことを確認し、脱力して首を後ろに向けると、西野が泣きそうな顔をしていた。僕はその顔をたぶん一生忘れないだろう。

 手摺りの向こうで爆発した爆弾は幸い一つ下の階の教室の窓を割っただけで、けが人は出なかった。

 西野が退院して戻ってきたとき、松岡はどういう顔をするのだろうか。

 松岡に会って、西野はどういう顔をするのだろうか。

 ちょっと、いまの僕には想像がつかない。二人はもう会わないほうがいいのかもしれない。普通に考えれば、それが自然だ。西野はたぶん、退院したあと、どこか別の学校に転校するのだろう。

 不思議なのはペットボトル爆弾だ。なぜ爆発までにあんなに時間がかかったんだ? 西野はおそらくテディベアのときと同じで十五秒ほどで爆発するように設定していたはずだ。そのとおりに行くとは限らないが、しかし、それにしても、まるで僕と西野が爆発を免れるぎりぎりまで待っていてくれたみたいじゃなかったか。ペットボトルは明らかに膨張の限界を超えているように見えた。もしかして、僕の青木神社でのあの参拝がきいたのか? と考えかけるが、まあそれはないだろう。たぶん死ぬほど運がよかっただけだ。

 さらに一週間経ち、西野から僕と松岡に、担任を介して手紙が届いた。担任は放課後僕たちを二人同時に呼び出して封筒を手渡した。僕が薄緑色で、松岡が水色。僕たちはそれを受け取って帰った。ひと言も言葉を交わさなかったが、家まで二人並んで。

 家に入る直前(僕の家のほうが学校に三軒分近い)、「そういえば、部活は」とだけ言ってみると、「さぼった」と松岡は言った。僕は松岡が家に入っていくのを見届けてから帰宅し、すぐに自分の部屋で手紙を開封して読んだ。

『松岡さんへ 早乙女君をとったりしません。
 もういじめないでください。

西野』

 インターホンが鳴って玄関に行くと松岡がいた。手紙、たぶん、逆、と松岡は言った。

「え、あ、そう」

「まだ読んでないの?」

「うん」

 僕は自分の部屋に戻り、透明のセロテープをきれいに貼り直し、それを持って玄関の松岡の元へ戻った。僕たちは手紙を交換した。

「ごめん、私、読んじゃったけど」

 僕はその場で、松岡に読まれた西野から僕への手紙を読んだ。

『早乙女君へ とりあえず死ぬのはあきらめたので、安心して。

西野』

 松岡もその場で今度は自分宛ての手紙を開けて読み、ふざけんな、と力なく言った。

「なんて書いてあった?」

「教えるか」

 松岡は手紙を乱暴にスカートのポケットに突っ込んだ。

 僕はそれを見て、西野はたぶん転校しないし、退院してしばらくしたら教室に戻ってくるんじゃないか、松岡もそれを望んでいるんじゃないか、そんな気がした。

書店員さんコメント

見事!! そう、こういう物語が読みたかった!!
何気ない日常も ありきたりな毎日も“その先”を見せることによって鮮やかに染めてみせる。これぞ小嶋マジック――。隠したくなる心の闇……目をつぶりたくなる黒い騒めき……きれいごとばかりじゃない人間模様。光と影が激しく交錯し、残酷でもあり美しい……ネガティブな部分がなんと文学的に昇華されていることか……ほろ苦い青春が活き活きとよみがえる。
新たな青春スタンダードの誕生だ!!

三省堂書店 内田剛さん


心がザワザワしたり苦しくなったり、それぞれの作品が心に突きささります!!
言葉にできないもどかしい気持ちがぎゅっとつまった作品だと思いました!!
青春を巻き戻したくなりました!!

紀伊國屋書店福岡本店 宗岡敦子さん


とてもおもしろくて、すごく胸が苦しくなる短編集でした。
神楽坂の象公園を舞台に、ビタースウィートなお話もあれば、ルナティックなお話もあって、いろいろな味の青春模様が楽しめる1冊。どの人間模様も「そうそうこういう感じってあるよね」とうなずきながら読んだので、きっと読者のこころにクリーンヒットして、切なさから布団の上でバタ足間違いないな、と思いました。
どの短編も、小嶋さんの突き放したやさしさがあるので、その距離感のとり方が親しい友人と静かに会話しているような、心地よさがありました。

宮脇書店松本店 月元健伍さん


小嶋陽太郎で、三角関係で、青春小説ときたらもう面白くないはずがないじゃないか!
不格好で歪つで「青春」というよりも青春の一歩手前や後先やナナメ方向あさって方向な彼らを愛さずにはいられないのです。

文教堂二子玉川店 高橋茜さん


読みはじめてすぐに、ああそうだった、青春ってぜんぜんきれいなものじゃなかった! とうなずいてしまいました。自分勝手で計算高くて、でも、なにかにまっすぐな登場人物が、次々とあらわれては消え。最後の短編「友情だねって感動してよ」の科白のシーン。さりげなく配置された言葉につい鼻の奥がツンとなってしまいました。
お気に入りの場面を何度も読み返しながら、青春って苦くてみっともなくて、ぜんぜんきれいじゃないけど、やっぱりいいなぁ…と、かみしめました、

松本駅改造社書店 山村奈緒美さん


欲望と愛の違いってなんだろう。
倉田くんの考察がかつて自分が悶々としていたことともつながり、昔の自分に読ませてあげたいような感覚に陥りました。
青木神社や象公園でつながる人々の関係が悩みの道筋とリンクするようで、私もそんなパワースポットにお参りしたくなりました。
タイトルの意味がわかったときは、鳥肌が立ちました。考えることは感じることなのですよね。

喜久屋書店阿倍野店 市岡陽子さん


ただの青春小説で終わらない短編集。
青春の爽やかさと黒さが同居した作品たち。
大好きになりました!

東京旭屋書店新越谷店 猪股宏美さん


10代特有の複雑な恋と友情や揺れる心情がストレートに伝わりました。
10代~20代の読者に「10代の気持ちを絶対に忘れないで!!今、感じている心を、大切にして!!」というメッセージになる一冊です。

喜久屋書店帯広店 磯野あかねさん


それぞれの短編が神社と公園という1つの共通項をもっていることで、それぞれにつながりを感じ、1つの街の中で、それぞれの人生、青春を過ごし、生きている人がいるんだなと感じることが出来ました。恋と友情と青春を味わうのに最適な短編集だと思います。

興文堂平田店 佐藤優子さん


友情、恋心、友情…?な不安定な感情にハラハラ…時にはニヤニヤしながら柱の陰のあたりから盗み見をしているようでした。金子さんのその後が気になります。

岩瀬書店冨久山店 吉田彩乃さん


自分に自信がある腹黒打算女、イジメのリーダー格の美女、地味な巫女バイト、ヤバい留年大学生、自分の意思を持たない女子行員、そして変わったクラスメイトをもつ僕。それぞれが「好き」という気持ちに気付いたときにとる行動が千差万別。自分本位か、相手の気持ちを尊重するのか。神様はちゃんと見ていますよ。
人を呪わば穴ふたつ…。大切な存在だからこそ相手の幸せを願いたい。

紀伊國屋書店仙台店 齋藤一弥さん

どういう本?

ご推薦!

どこかに置き忘れてきた青臭いすべてを抱きしめて、オールライトと叫ぶには年を取り過ぎたのかもしれない。
それでもムズムズとくすぐったい胸を貫いて、熱いと温かいの真ん中くらいの何かが駆け抜けたことも事実。
既視感のある設定に身構えながら読み始めたけれど、半分を過ぎたあたりから我を忘れてページをめくりました。

後藤正文 (ASIAN KUNG-FU GENERATION)

著者プロフィール

小嶋陽太郎

コジマ・ヨウタロウ

1991年、長野県松本市生まれ。信州大学人文学部中退。2014年『気障でけっこうです』で第16回ボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビュー。他の著書に『今夜、きみは火星にもどる』『おとめの流儀。』『こちら文学少女になります』『ぼくのとなりにきみ』『ぼくらはその日まで』『悲しい話は終わりにしよう』『放課後ひとり同盟』などがある。

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