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王国―その3 ひみつの花園―

よしもとばなな/著

1,320円(税込)

発売日:2005/11/24

  • 書籍

嫉妬、譲れないもの、そして決断。長篇最大のクライマックスへ。

雫石の不倫相手、真一郎の協議離婚が成立した。新しい生活が始まろうとするその矢先、壁が立ち塞がる。それは、真一郎の亡き親友が遺した美しい庭と、その庭を守り抜こうとする若く魅力的な義母の出現だった。真一郎の思いを見抜き悩む雫石――。落ち込んだ自分を見つめ、自分が何に耐えられないのかを知ろうとする雫石の心の旅。

書誌情報

読み仮名 オウコクソノサンヒミツノハナゾノ
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 200ページ
ISBN 978-4-10-383407-6
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,320円

インタビュー/対談/エッセイ

波 2005年12月号より 気が紛れることのない辛さを生きること  よしもとばなな『王国―その3 ひみつの花園―』

よしもとばなな

 よしもとさんは以前に、『王国』シリーズを教養小説、成長小説として書いているところがある、とおっしゃっていたことがありました。「その1」「その2」を経て、今回の「その3」にまで至ると、主人公の雫石はだいぶ成長をしてきて、しかしここで大変な試練、大きな壁にぶつかったという感じですね。
雫石はまだ青春期といっていい年齢だと思うんです。だとすれば、若い頃は常に正しい相手とつき合うわけじゃないし、自分が居るべき正しい場所にいられるわけでもないから、雫石は今はまだ途上にいるわけです。だから辛い目、ひどい目にもあう。
雫石に今以上の成長を求めなければ、恋愛関係にある二人があのままうまくいくほうが普通なのかもしれません。何となくうまくいっていない二人を別れさせるのも、うまくいっている二人を結婚させるのも簡単なんですけどね。でもね、この場合は、そうしなかった。女が悪いんです。雫石が悪い。雫石の言っていることは正しいかもしれないけど、相手の真一郎の側に立って考えれば、とんでもない言い分ですよ(笑)。やっぱりね、まだ子どもだから自分本位なんです。子どもっぽいんだと思います結局。
 女性はそもそも生き物としての「勘」を生まれつきちゃんと持っているから、正しい選択をしているんじゃないでしょうか。男のほうが平気で間違う……。
 いやあ、私のまわりには間違ってる人しかいないから(笑)。女が正しいとはとても……。ただよく考えると、二人はお互いにさほど好きではなかったんじゃないか、とも思えるんですね。ほら、よくあるじゃないですか、社員旅行だの歓送迎会だので急にいちゃつきだす男女とか。広い大きな意味で言えば、同じようなものかもしれないですよ、雫石と真一郎は。お互いに自分たちの設定を変えたいときにたまたま出会って、でもお互いの役割を終えたから別れることになる。でもその別れはきれいごとでは済まなかった――そういう話かもしれないです。
雫石は一見、純粋で無垢なものにも思えるけれど、よく考えてみると物凄いパワーを持っていて、何もかも破壊して進んでいく恐るべき存在かもしれない。破壊して、そして再生させる力のようなものを持ってる。使い方を間違えたら、全部がメチャクチャになってしまいかねないほどの力だと思う。雫石の働き先での、占い師とパトロンの関係だって、雫石が現れて以降は大きく影響を受けるでしょう? だから、修復不可能なぐらいの破壊と、新しいものを再生できるような破壊とは、どこがどう違うものなのか、これも『王国』で探っていくテーマだと思いますね。
 真一郎の親友が丹精して作り上げた園庭の美しさ、その親友が亡くなった後でも生々しく息づいている園庭の迫力は、雫石のパワーに負けていないですね。雫石を圧倒します。自然の力を出してきたのはなぜですか?
「その3」のもうひとつのテーマが、人はなぜわざわざ自然を模すのだろう、ということなんです。風景画や静物画を描いて残すのは、なんのためだろうって。考えてみると不思議ですよね。
ちょっと前に商店街のある住宅地に引っ越してきたんですけど、近所にはお年寄りがいっぱいいるんです。そうすると、もう朝から夕方まで、庭だの生け垣だのプランターだの、花や草をいじってる、黙々と。私の知っている人なんて、入院する直前まで庭いじりをしてました。あの夢中な感じって何だろうって。
デレク・ジャーマン(註:エイズで亡くなった映像作家)の庭の写真集も凄いし、『夢見つつ深く植えよ』のメイ・サートンも、それからカレル・チャペックの『園芸家12カ月』なんかも読み返したりしましたね。園芸に捧げる人の情熱ってどういうものなんだろう、何が共通するんだろうって。
「その3」に描かれる園庭は、美しさだけではなくて、何か邪悪なものが見え隠れする恐ろしさもあるような気がします。
 人が作り出すものって、やっぱり両方含んでいると思います。小説の最後の最後で雫石は答えを見出すんですけど、私もそれに近い気持ちですね。人が自然に介入するっていうのはどういうことなのかという。まあそれを正面きって真面目に書き始めたら大変なことになっちゃいますから、『王国』はファンタジーのスタイルで書き隠すようにして書いてはいるんですけど。
 ファンタジーとして書かれている一方で、雫石が真一郎と別れていく心理の葛藤は、息もつけないぐらい濃く、深く掘り下げて書いてますね。嫉妬というものの生々しさ。よしもとさんもこれぐらいの嫉妬に駆られることがあるのかと……。
 意外にね、ないんです。きれいごとで言ってるんじゃなくて、本当に人のことが気にならない。だけど自分も雫石のような別れはしょっちゅうやってましたよ(笑)。でも普通は誰もあんな濃い感情には支配されないんじゃないかしら。『王国』がファンタジーだというのは、つまりあの登場人物たちは『王国』という物語の「箱庭」で暮らしているんです。私たちの普通の暮らしって、もっと気が紛れるものが他にもいっぱいあるでしょう? テレビ見ちゃったり、晩ご飯つくらなきゃとか、明日までにこれをやっておかないと困るとか、友だちが遊びに来るとか、いろいろあるんですよ日常って。携帯もパソコンもあるし。人間ってそうやっているうちに忘れていったり、濃い感情を薄めていくんですよきっと。なかなか純粋に辛いままではいられないものなんです。でも『王国』の人たちは、気の紛れる雑事を取り除いた後の純度の高い「箱庭」で生きているから、二十四時間自分の感情に向き合わざるを得ない。だから深く濃くなっちゃう。そこが『王国』という物語がファンタジーであるゆえんです。
 今回は台湾も重要な舞台として登場しますね。なぜ台湾を選ばれたのですか?
 何度か旅をしたんですね台湾は。たとえば翡翠を売っている市場が面白い。何が面白いって、同じ市場のなかに偽物と本物が混ざって売られてる(笑)。翡翠は台湾の人たちにはとても馴染みの深い石なんです。日本は翡翠はあまりとれないから、翡翠と思われているものも実は瑪瑙だったりする。玉造神社のあたりでとれる勾玉も瑪瑙らしいですね。『王国』には翡翠を登場させたかったから、台湾で取材して物語のなかに取り入れています。
それから雫石のおばあちゃんですね。おばあちゃんは純粋な日本人じゃないんじゃないかって思うんです。自分が書いている人物だから「日本人じゃない気がする」っていうのはヘンかもしれないけど(笑)、でも私が小説を書くときって、その人がどういう人かっていうのは、本人にインタビューしながら書いているようなものだから、次第にどういう人で何を考えているのかがわかっていくんですよ。ただ、戦争がらみで満州や韓国や台湾の血が入っていると書いてしまうと、ファンタジーで書いているものが何か大変なことになってしまうでしょう? でも雫石のおばあちゃんはどこか日本人じゃない血が混じっている人らしい、と感じるんですね。日本にいても山奥で暮らしていたし、どこか居づらい感じがあった。そういう謎がおばあちゃんにはあるんです。
その謎はたぶん最後まで明かさないと思う。だけど、『王国』に出てくる人たちには何かとんでもない部分が隠れていなければ駄目だなと思っているんです。「詳しいことは言えない」みたいな……。だからおばあちゃんの過去には、何らかの「悪」から転じて、ああいう仕事を始めたんじゃないか、という疑いがある。
『王国』の「その1」や「その2」の段階では、「悪」というものは雫石とともに生きている人たちの外側にあって、つまり「悪」から隔てられた聖域に生きている。だから「王国」なのではないか、と思っていたのですが、「その3」を読むとどうやらそうではないらしい。何かに守られていたはずが、危機はすぐ隣にある。ひりひりと、さらされる感じが出てきますね。
 身内を失うような危機ですから、雫石にとって最大の危機です。雫石は身内が死んだりすることについては全然こたえないタイプだと思うんです、意外に。でも自分のものだと思っているものが失われることに関しては、すごく感情的に問題がありそうな人だなと思ってました。書きながら雫石にインタビューしているうちに、雫石の危うい部分が見えてきていた。
 そういう危機を雫石なりに乗り越えていく場面で、読者を泣かせる書き方をよしもとさんはされませんね。どちらかと言えば「泣けばいいっていうもんじゃない」というか、踏みとどまって考えぬきなさい、その痛みをよく見て何かを見いだしなさい、と言っているような感じを受ける。感動に流さない、涙に昇華させないで、ぐっと踏み止まっている感じを受けました。
 感動にはいろんなレベルがあると思うんです。音と映像が伴うものは低いレベルのものであっても人の心を動かしやすい。それはどうしたってそういうものなんです。それがわかっていて、わざわざ文字だけ並べて書くことを選んでいるんだから、そういうレベルの低い感動に訴えかけることはないんじゃないか。そういうふうに私は思っています。
『王国』は「その3」でいったん区切りがつく、とうかがいました。「その4」や「その5」はしばらく先になりますか?
「その4」の語り手は、雫石の次の世代になるんじゃないかと思ってます。雫石や楓たちを「親」や「おじさん」として見る若い世代が中心になるような気がする。「その1」から「その3」までの物語を過去のものとして見渡せるようになった場所から、次の世代がその顛末を見ることになると思います。
今実際に親として子どもを育てていて、親として子どもを見るのと、子どもの視点で親を見るのと、自分の経験に照らし合わせて双方向から見ることができるわけでしょう? だからもう少し自分の子どもが大きくなって――といってもうちの子どもが十七歳になってバイクに乗って「おふくろォ」なんていう年まで待つというんじゃなくて(笑)――今ちょうど面白いようにしゃべるようになったから、彼が小学校にあがる前ぐらいまでに「その4」と「その5」を書くことになるんじゃないかな。
小さな子どもにとって親は絶対的なものだっていうのは頭ではわかっていたんだけど、どれくらい絶対的なものかということについての私の読みがちょっと甘かったということに最近になって気づいたんです。そこをもう少しちゃんと見て、書いてみたい。
私は自分の書く小説の主人公とだいたい折り合いがいいんだけど、雫石とはどうも違う。だから丁寧に雫石にインタビューして書いているわけです。「自分だったらこうはしないなー」と思ったり、「こんな厳密には生きて行けないよ」と思う珍しい主人公なんですよ。だからまだしばらくは時間をかけてじっくりつき合っていくつもりです。

(よしもと・ばなな 作家)

著者プロフィール

よしもとばなな

ヨシモト・バナナ

1964(昭和39)年、東京生れ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1988年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、1989(平成元)年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、『TUGUMI』で山本周五郎賞、1995年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアでスカンノ賞、フェンディッシメ文学賞〈Under35〉、マスケラダルジェント賞、カプリ賞を受賞。近著に『吹上奇譚 第一話 ミミとこだち』『切なくそして幸せな、タピオカの夢』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた単行本も発売中。

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