ホーム > 書籍詳細:無限花序

小説という虚構の世界に人間の真実を宿らせるには、どうすればいいのか――。

無限花序

宮城谷昌光/著

2,160円(税込)

本の仕様

発売日:2001/01/31

読み仮名 ムゲンカジョ
発行形態 書籍、電子書籍
判型 菊判変型
頁数 232ページ
ISBN 978-4-10-400410-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 2,160円
電子書籍 価格 1,728円
電子書籍 配信開始日 2015/02/06

小説という虚構の世界に人間の真実を宿らせるには、どうすればいいのか。物語を解体した。言葉に疑念をはさんだ。そして、いつしか「おはよう」という挨拶すら容易に口にはできなくなっていた――故立原正秋氏らに才能を評価されながら、著者は郷里に帰り十数年余、研鑽を重ねた。古代中国の世界を描く以前の初期作品を厳選し、デビュー十年を機に刊行する。

著者プロフィール

宮城谷昌光 ミヤギタニ・マサミツ

1945(昭和20)年、愛知県生れ。早稲田大学第一文学部英文科卒。出版社勤務等を経て1991(平成3)年、『天空の舟』で新田次郎文学賞を、『夏姫春秋』で直木賞を受賞。1993年、『重耳』で芸術選奨文部大臣賞受賞。2000年、司馬遼太郎賞受賞。2001年、『子産』で吉川英治文学賞受賞。2006年、紫綬褒章受章。『晏子』『玉人』『史記の風景』『楽毅』『侠骨記』『沈黙の王』『管仲』『香乱記』『二国志』『古城の風景』『春秋名臣列伝』『楚漢名臣列伝』『風は山河より』『新三河物語』『呉越春秋 湖底の城』『草原の風』等著書多数。2013年には10年にわたって「文藝春秋」で連載した『三国志』を完結した。

インタビュー/対談/エッセイ

波 2001年2月号より 〔対 談〕 ランボオのようにさまよい、 重耳の如く遍歴した 秋山駿/宮城谷昌光  ■借り物でないことば ■私でなければならぬ理由 ■もう一歩半、踏み込む ■普通でない死に方

秋山駿宮城谷昌光

借り物でないことば

秋山 『無限花序』を読んでかなり驚いたな。驚いたというのは二つの意味があってね、一つは宮城谷さんは若い頃、古代中国を舞台にした小説でなく現代小説を書いていて、立原正秋に批評されたり、師事したと聞いていた。だから二十五歳から三十五歳にかけて書いた『無限花序』のなかの四作は立原正秋の書いていたような恋愛小説、それも立原のよりいくぶん下手なやつを想像してた。でも、そうではなかった。二点目は、この作品集が過去に多くの作家がやろうとしてできなかった種類のものだったということ。このなかで一番早く書かれた「装飾窓架」が処女作なの。
宮城谷 処女作ではないですね。最初は恋愛小説を書いていたんですが、三、四作書いたところで疑問が生じまして、結果として「装飾窓架」に向かわせることになりました。疑問とは、要するにことばの問題で、それをわかりやすく説明するには、秋山先生の文章を借りた方が早い。「他人から借り物をしていると他人事の人生を生きなければならなくなる」ということです。借りたものなら返せばいいんですが、返さないまま受け取って知らんふりしているといつか大きなツケがまわってきて、ひどいめに遭う。つまり、借り物でないことば、自分にしか持てないことばはないのかという問題に突き当たったんです。小林秀雄もいってる通り、ことばは所有できないし、所有することは無理だと思うんですが……。また、これも借り物ですが(笑)、ヴァレリーが『テスト氏』で書いている「自分にできるだけ忠実であろうとする試み」をやってみたかった。
秋山 なるほどね。こっちも『無限花序』を読みながら、これヴァレリーなんじゃないか、彼の『若きパルク』を思わせる作品だなと思っていたよ。『無限花序』の四つの作品に共通した主題は意識だね。意識は人間の根本だし、広がりを持つから、意識という生き物をとらえようといろんなやり方を試みているね。私とはなにか、意識とことば、意識と行動、その先にある書くこと、また意識が鏡をのぞき込むようなところとか、そのひとつずつをテーマに展開しているね。ただ主題は意識でも、文学の一ジャンルにある「意識の流れ」に属する作品ではない。ヴァレリーの名前が出たけれど、ほかにモデルを挙げれば、それはどういうものだったんだろう。
宮城谷 モデルらしきものはなくて、自分自身にうそのないものを書こうとすれば、どうなるかがテーマでした。そして、文体がどういうふうにそれを満足させてくれるのか試みていました。簡単な例を挙げますと「私は歩いている」と現在形で書けば、既にそこにはうそがあるんです。歩いているのではなく、文字を書いているわけですから(笑)。違う空間に身を置きながら、また違う時間を過ごしながらも、「歩いている」という現在形を矛盾のない形で現出させる文体と構造を成すにはどうすればいいのか。まず最初にとりかかったのは、そういったことでした。
秋山 随分と面白いところから始めたもんだね。ものを書くことの本質的なパラドックスを含んでいる問題だし、解けるわけないと早々に放り出すのにね。日本の文学史で言えば、二葉亭四迷や北村透谷が小説のことばをつくろうと格闘し、横光利一が意識を主題に書こうとしたりと断続的にあらわれては実らなかった試みですよ。また私小説作家、現代詩の詩人が散文詩で似た試みをしているが、それも一、二頁か、長くても三、四頁にすぎない。ごく日常的なレベルに始まって、形而上学的な問題に到る、意識とはなにか、私とはなにかを描くには断片を並べて表現するしかなくて、数頁で終わってしまうけれど、『無限花序』のように徹底してこだわり、これだけの長さになった作品はなかった。だから、日本には類例がない作品ですよ、これは。
宮城谷 四つの作品は同人誌に発表したもので、読んだ同人のなかにはアンチ・ロマンと解釈した人がいました。でも、絶対にアンチ・ロマンではなくて、ロマン(物語)なんです。ロマンの持っている神秘性や陰影をもう少し見える形にして見せようとした。そうすることによって、ロマンの原理が浮かび上がってくるのではないかと考えてました。読書遍歴や書いていた頃の環境を思い出してみると、マラルメから出発していたかもしれません。マラルメはむりやり言葉を構築しようとはしなかったし、崩れるものは崩れるままに任せ、その現象をじっと見据える、いわば自然現象的な詩を書いていましたから。
秋山 やはり、そうか。実を言うと、読みながら「マラルメかな」と余白に書き込んでいたんだよ。しかし、本人を前にして異を唱えると、あなたはロマンと言ったが、私は別のことばを与えたい。意識に始まり認識論や意識がどのように行動に変わるのかといった哲学の命題を哲学のことばでなく、小説のことばで追ってるじゃないか。だからね、アンチ・ロマンかロマンかといった定義ではなく、書名になぞらえれば、これはあなたの哲学序説ですよ。
宮城谷 自分がどれほどのもので、またどれほどの磁力を持てるのか、一度確認作業する必要があり、その磁力を正確に計量する試みをしていたと考えています。
秋山 あなたの多くの読者はこれ読むと、最初イメージが狂って驚くと思うんだ。しかしね、古代中国を舞台にした長編、『重耳』や『晏子』、『孟嘗君』、『楽毅』につながってるよ。ことばについての姿勢やことばに対する回路が同じなんだ。ことばの奥に潜む本当の意味を探ったり、ひとが生きるとはどういうことなのかとか、すべてやってるよ、ここでも。

私でなければならぬ理由

秋山 四つの作品を書き上げるのに十年かかったんだね。序文に「原稿用紙一枚(四百字)を書き終えるのに、一週間かかった」とあるが、実際かかるよ、この文章、この内容なら。しかし途中で放棄しないで、よくやり遂げたもんだな。ずっとやり続けていたら、頭おかしくなるよ。
宮城谷 誰がやっても同じぐらいかかると思いますが、何度も絶望的になりましたよ。同人誌の仲間から「なにをやっているのかわからない」、「きっと次を書くための過渡的な作品なんだろう」と突き放され、立原先生にも「やめた方がいい」といわれました。立原先生も頭がおかしくなると心配なさっていたのかもしれません(笑)。ただ、なにをやっているか、自分ではわかっていたし、ほとんどの人が認めてくれないなかで、不思議なことに家内だけは認めてくれた。それだけは助かりました。家内が認めてくれなかったら、続けられませんから。また自分では過渡的な作品のつもりは全くなく、完成品だと考えてました。
秋山 私がもし同時期に読んでいたら、書くものが少しは変わったかもしれない。それぐらいの作品ですよ。私は小説でなくて批評文の世界で、三島由紀夫が『太陽と鉄』のなかで書いている「秘められた告白と批評の中間の形態の新しい文章の領域」を目指していた。今回これを読んで、宮城谷さんと私は隣り合わせだった、私がある時期やっていたことと類縁のところがあったんだな、とうれしくなったよ。勿論、隣り合わせでも、深い切れ目はあるかもしれない。だけど、追求していたものが同じで、似た問題に引っ掛かっていたと思うんだ。私の場合、日常生活で使うことばにどうにもなじめなくなり、衝突するようになった。たとえば、「社会」ということばはある時期まで使えなかった。『無限花序』のなかでも「私」ということばは最初の方の作品にはなくて、あとで書かれた作品に出てくる。ことばを自分のなかに取り込むことが出来て、初めて使っている。そういう感じがしたよ。
宮城谷 その通りです。日本文学の希薄な部分だと思うんですが、人称に対する意識が低いですよね。主人公の人称が私であっても、彼であってもかまわないような文章がまかり通ってますが、それはやはりおかしい。私なら私、彼なら彼でなければならない理由が必ずあるはずで、そこは曖昧にしたくない。人称がある限り、その独自性を見極めないと、本当に大きな小説宇宙はつくれないと考えてました。
秋山 序文を読んで、ああ同じだと思ったことがあったよ。私も一時期、他人と話すことが困難になった。ことばの問題をやって行くと、どうしてもそうなってしまうんだね。私は話せないだけでなく、笑えなくなった。笑いってなんだろう、おかしいってなにかと考えていたら、なにもおかしくなくなってしまってね(笑)。
宮城谷 他人に話せば、呆れ返るだけでしょうが、本当に話せなくなり、ことばが出なくなるんですよね。秋山先生が著作のなかでお書きになっていた「小市民的な顔をしないといけない苦痛」は、私の問題でもあり、「しないといけない」ということ自体に虚偽、うそがあるのに、東京で生活していると小市民的な顔を強要される。「自分に忠実であろうとする試み」をやるなら、小市民的な顔をしないで済む場所に身を置かなければならない。そこで二十八歳のとき東京を去り、郷里に帰りました。以来、郷里でコツコツやっていたんですが、都会と違って、田舎だと目立つんですね。本人は真剣に生きていたのに、はたから見ると、仕事もしないでブラブラしている人間にしか見られなかった(笑)。
秋山 古代中国の世界を発見し、書こうと思ったのは、いつ頃だったの。
宮城谷 最後の作品「石壁の線より」を書いていたとき、三十代の半ば頃には勉強を始めていたし、はっきりその志向は出ましたね。その頃になると、この文体ならどんなものでも書けると少しは自信のようなものが生まれてました。文体が球体のような感じがしてきて、球はどのように動かしても球だし、どこから光を当てても、そこに映し出される姿は同じに見えた。
秋山 最初の頃の「装飾窓架」や「無限花序」では、ひたすら内面に沈潜しているが、「逢魔時」、「石壁の線より」になると、意識が行動になり、社会とつながりを持ち、激しいことばが出て来るね。
宮城谷 そうです。十年経って、ようやく物語世界へ近づけました。

もう一歩半、踏み込む

秋山 読者のイメージが狂うと言ったが、私自身おかしくなってる(笑)、今度会ったら、藤沢周平と司馬遼太郎を比べたあなたの文章について訊こうと思ってたの。藤沢周平はだいたい同じところで句読点を打っている、と書いていたから、先行する作家のそういうところまで見ていたのかってね。だけど『無限花序』を読んだら、考えが変わった。あなたは最初から自分の句読点の打ち方を持っていたんだね。
宮城谷 そうですか。もっとも、一週間に原稿用紙一枚しか書けないのは、言葉を変えれば、一週間かけてどこに句読点を打つか考えていたことですよ。一字も揺るがせにできなかったし、句読点はその作家の呼吸のようなものですから。
秋山 いや、呼吸じゃないな。句読点は思考の流れ、精神の動きと不可分だし、文章で最も大切なものだよ。イメージが狂ったことはほかにもいくつかある。以前、先行する作家の作品を書き写しているって話してたね。いい作品を書き写すのは一番の勉強ですよ。でも、あなたは自分で文体をつくっていったから、その必要はなかったんじゃないか。
宮城谷 いえ、いまでもやってますよ。短いものだとすぐに終わってしまうから長編を選んで、何年もかけて、なかには十年ぐらいかけてます。書斎から暫く離れていると、リズムが乱れますので、リズムを整えるための作業であったり、迷いが生じたときとか、無心になりたいときはいまだにやってますよ。
秋山 軽く言ってるが、何年もかける持続力は並大抵じゃないし、書き写しながら、いろいろ見てんだろうね。志賀直哉について面白いこと言ってたじゃないか。
宮城谷 志賀直哉は難しい作家で、書き写している文章と活字で読んだ文章は違うという話ですね。『暗夜行路』を原稿用紙に書き写していると、焦点がぼけるというか、定まらない。しかし、同じ箇所を活字で読むと実にクリアで、別の香りがしたり、別のものが見えて来る。ああこの人はやはり名文家、天才だなと感心していたんですが、ただ彼の真似をしようとすると文章が下手になるんです。志賀直哉だけでなく、書き写している作家はほかにもいて、書き写すぶんにはいいんですが、真似してはいけない。他人の文章を書き写していて、あるところまでくると、自分の文章が立ち上がって来る。そういう効果があって、書き写すのはいいものですよ。
秋山 この話、本当に面白いな。こんなこと言う人に初めて会ったし、私は試してないけど、その通りなんじゃないか。あなたは写真にも凝っていたそうだけど、それも『無限花序』の頃?
宮城谷 ええ、ちょうどその頃です。写真の前には水彩画を描いていましたが、水彩画に疲労感を感じるようになったんです。絵は何日も何ヵ月もかけて対象を描いていきますが、写真は一瞬にして写し取る。写真の現実って一体何なんだ、ということだけが不思議で、写真にのめり込みました。
秋山 それは、『無限花序』の試みに結びつく話だね。
宮城谷 そのうちカメラ誌に投稿するようになったんですが、いくら投稿しても入選しない。もう見事なほどに落ちました。なにが悪かったかというと、対象との距離の取り方です。自分が撮りたい対象に対して、撮りたいと感じたときの位置では、弱い写真しか撮れない。もう一歩踏み込むのが基本で、自分が感じたものに近い強さの写真が撮れる。しかし、それでも入選しない。そこで、もう半歩踏み込む。つまり一歩半踏み込んで初めて入選できた。その半歩がわからなかったんです。
秋山 そこは宮城谷さんが小説を書く秘密の一端があらわれてるな。あなたは本当に面白い生き方してるね。
宮城谷 一歩半踏み込まないと対象に触れえない、というのは、小説にも通じる話かもしれませんね。

普通でない死に方

秋山 『無限花序』を書いていた頃はあなたは埋没していた、雌伏のときだったと私は思っていたし、あるところで「この人は死んでいた時間がある作家」と書いたけれど、そこの意味も変わったな。死んでいた時間があるが、普通の死に方ではなかった。あなたは『無限花序』を書きながら、一度は普通でない死に方をしたね。
宮城谷 これを書いていた頃は半ば死んでましたね。生きていく目的みたいなものをなくしていたし、秋山先生が仰る通り、死んでいた時間があったと思います。結果的には十年になりましたが、やっていることが無になる可能性は初めからなかったわけではなく、誰にも読まれない、誰からも理解されないものを書いている自分がいると考えるのはすごい恐怖でしたよ。
秋山 文学のあるモデルがあって、そこに到達しようとして到らなかったり、ある作家の強い影響下から抜け出せなくてもがく、といった雌伏があるが、宮城谷さんの場合は違っていたね。モデルや強い影響らしきものはなく、あるのは日本の文学に対する漠然とした失望で、新しい世界を開拓しようと雌伏をつづけていた。
宮城谷 『孟嘗君』で勇気について書きましたが、それとは別の意味の勇気の出し方を自分はやっていたと思ってます。
秋山 遠い海のむこうにランボオの一節があるじゃないか。「間道に酒をのみ、街道にビスケットを齧り、場所と形とを発見しようとさまよひ歩いた」。あなたもランボオのようにさまよい、重耳のように遍歴を重ねて来たんだね。
宮城谷 いまなお迷いはあり、さまよってますが(笑)。今年は最初に刊行された作品『天空の舟』が出てから十年が過ぎ、この機会に埋もれたままであった『無限花序』を出すことになったんです。ありがたく、またホッとしてます。
秋山 いや、『無限花序』はそんなことがなくとも、出なくてはいけない本、もっと早くに出るべき本だったよ。あなたのファンの期待を裏切るかもしれない。読者に要求するものがあって、一部の人は近づきにくいかもしれない。でも、あなたの十年の結晶体なんだし、この本が出ると、あなたの作家の顔は変わるよ。

(あきやま・しゅん 評論家)
(みやぎたに・まさみつ 作家)

▼宮城谷昌光『無限花序』は、一月三十一日発売

感想を送る

新刊お知らせメール

宮城谷昌光
登録する
文芸作品
登録する
文学賞受賞作家
登録する

同じジャンルの本

書籍の分類

無限花序

全国の書店、または以下のネット書店よりご購入ください。

※ 書店によっては、在庫の無い場合や取扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。

  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • e-hon
  • HonyaClub
  • TSUTAYA ONLINE
  • 紀伊國屋書店
  • エルパカBOOKS - HMV
  • honto

無限花序

以下のネット書店よりご購入ください。

※対応端末でお探しください。

Shincho Live!