雨女ではない、と私は思っている。
そんな私が旅先で雨に遭ったことがあった。しかも土砂降りの雨である。
十七年ほど前、京都の樂美術館へ向かうときであった。傘をさしていても傘の布地を通過して雨が落ちてきた。夫と私はずぶ濡れとなり、服から雨粒が滴っていた。雷の音に驚き、軒下に身を寄せたことを今でも忘れない。
そして数年前『
古城の風景』初回の取材に行き作手で遭遇した雨である。辺りの風景は降り続く雨にすっかり色を失っていた。
担当編集者のTさん、版画家の原田維夫さん、飛び入り参加のHさん、夫と私の五人はこの雨に会話がとぎれた。誰もが吐く言葉は同じで、
「ほんと、よく降るね。誰のせいだろう」
と、雨を見て恨み言をいった。同行者の誰かがこの雨を降らせているに違いなく、それが誰なのか探りたそうな気持ちで皆がお互いをみていた。
時間が経過しても雨は少しも小降りにならず、さらに烈しく降る雨に全員、自動車から出られなくなった。自動車の内からかすかに亀山城址の看板を見ながら作手を後にしたのであった。
別行動で東京へ戻るHさんを最寄のJRの駅まで送ろうと自動車を走らせていた。すると今までのあの天候が嘘のように空が明るくなり、夕陽が射してくるほどに回復してきたのだ。
Hさんを駅近くで降ろした後、自動車内では雨の話で盛り上がり、Hさんが雨男、という結論に達したのであった。Hさん、ごめんなさい。
『古城の風景』は取材をもとにした紀行文である。
夫は菅沼新八郎をいつか小説に書きたいと願い続けてきた。
その念いは通じ『小説新潮』にその場が提供された。初めての日本の歴史小説には、菅沼氏を書く、その強い信念は未知の日本の歴史という世界ではあったが、叶えられた悦びの方が勝っており、夫に迷いはなかった。
『風は山河より』と並行するように『波』でも連載することになった。『古城の風景』というタイトルとなり『風は山河より』に関連する場所を巡るという内容のもので、自分の目でそれらを確認できることは夫にとって喜びが倍加するようであった。
以前、夫と私は菅沼家の墓参をしたことがあった。その用件を終えるとすぐに帰ってしまった私たちであった。その頃は、資料や情報も不充分の状態であったため、何かにつけ二度手間となることが多くあった。最近は資料もふえ、担当のTさんの協力もあってかつてのような失態は少なくなっている。
取材旅行の行程を練り上げ作成した日程表は実に無駄がなく合理的だ。その日程表は旅行の同行者に前もって配られる他に、自動車の運転手にも渡されている。だから取材旅行に参加する全員は予習をしてその当日を迎えるのである。
自動車の運転手にまでなぜ予習が必要なのか。かつてTさんはそう思う何かがあったのだろう。
ある編集者たちと私たちは、名古屋郊外をジャンボタクシーで巡ったことがあった。運転手は私たち全員がいわゆる観光名所を巡る客と思ったようだ。が、私たちが指示する場所が運転手の記憶から外れた聞き覚えのない地名ばかりなので、運転手は強い口調になり、
「この先に行っても、何もありませんよ」
と、仏頂面で答えた。
共に同じ自動車で移動する一員である運転手の存在はその旅行の印象を左右する。
『古城の風景』も「
菅沼の城 奥平の城」「
松平の城」「
一向一揆の城」と三巻になった。この取材旅行で忘れてはならない場所がある。それは市役所、役場といった官公庁で、そこにこそ、その町の顔が反映される。市史や町史を買うために訪れてゆくうちに、自ずと目的以外のことも知るようになっていた。その土地の特産品を知り、気に入った品であったときは、それを入手しようと横道に逸れることもある。それも旅のたのしみのひとつだろう。
振り返ってみれば、私たちが新しいことを始めるときは雨であった。結婚式の日も、小説家として立とうとしていた京都での雨も。そして、初めて日本の歴史小説に挑む前の作手もそうであった。
ひょっとして、雨は私たちにとって吉兆なのだろうか。