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パリッと月がくだけた夜、空から記憶が降りてくる――響きあう七つの短篇。

針がとぶ―Goodbye Porkpie Hat―

吉田篤弘/著

1,620円(税込)

本の仕様

発売日:2003/12/22

読み仮名 ハリガトブグッバイポークパイハット
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 206ページ
ISBN 978-4-10-449102-5
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、エッセー・随筆
定価 1,620円

いくつもの物語の向こうにいくつもの記憶が蘇る。月面に眠る猫、クロークルームに残った「運命」のコート、八十日で世界を一周した雑貨屋、常夜灯に恋をした天使、6月の観覧車、B面の小さなかすりキズ、真っ白なレコード・ジャケット……クラフト・エヴィング商會の物語作家が紡ぐ、月と旅と追憶の物語。

著者プロフィール

吉田篤弘 ヨシダ・アツヒロ

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、クラフト・エヴィング商會名義による著作とデザインの仕事を行っている。おもな小説作品に『フィンガーボウルの話のつづき』『つむじ風食堂の夜』『空ばかり見ていた』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『圏外へ』『パロール・ジュレと紙屑の都』『なにごともなく、晴天。』『うかんむりのこども』『電氣ホテル』など。

書評

波 2004年1月号より 金曜日の夜、読みたい本  吉田篤弘『針がとぶ―Goodbye Porkpie Hat―』

小川洋子

 赤く染めたムラサキツユクサでも、雨蛙の口の中を綿棒でこすったのでもいいのだが、何であれ、顕微鏡を覗いていると夢中になり、つい時間を忘れ、接眼レンズから目を離した時、とても長い旅をしてきたような錯覚に陥ることがある。本書はそういう気分にさせてくれる本である。
扱われている題材はささやかなものばかりだ。決して大げさではない。電球、鳥、端の欠けたボウル、黒猫、クロークルームのコート、自転車……。けれどそれらを見つめ、手に取り、頬ずりしたり匂いをかいだりしているうちに、思いもしない場所へ連れてこられているのに気づく。ふとあたりを見回すと、砂に覆われたがらんとした遊園地の駐車場が広がっていたり、浴槽のお湯に浮かぶ上弦の月が、掌の中で揺らめいていたりする。
顕微鏡で覗いていたのはほんの小さな世界だったはずなのに、いつの間にか果てもない遠くのどこかに取り残されている。
それは吉田さんが、一瞬と永遠を平等に描き出しているからだろう。例えば冒頭の一篇「針がとぶ」で、玄関の電球が切れる場面。“わたし”はその一瞬をくぐり抜けて、伯母さんが行ってしまった永遠のあちら側に、おそるおそる手をのばすことになる。
実は私も昔から、電球が切れる時のあの感じを、怪しんではいた。ただ単純に暗くなるだけでなく、見えないスイッチが切り替わって、空気の落し穴に落ちるような、妙な感触に襲われる。そう、特に、“球の中でさらさらと動く小さな音”を聞くと、空気の滑り落ちてゆく音を耳にしたような気がする。
「針がとぶ」の“わたし”も、たぶんその合図を聞いたのだろう。だからこそ、自分一人分の秘密だけ抱え、潔く死んだ詩人の伯母さんの遺品に、手を触れる勇気を得た。彼女は伯母さんの生きた証を保管する、博物館のただ一人の学芸員となり、ただ一人の見学者となったのだ。
遺品の中にビートルズの「ホワイト・アルバム」があった。レコードはB面の最後で必ず針がとんだ。その一瞬は“わたし”に、切れた電球を思い起こさせる。暗闇の向こうに行ってしまった人が永遠に帰ってこないのと同じように、針がとぶ一瞬に隠された音楽を聴くこともできない。
伯母さんも昔、聞こえない言葉を聞こうとしていた。遊園地の駐車場で出会ったバリカンという名の青年。忘れたくない事柄を掌に書く癖を、伯母さんはバリカンから学んだ。彼が言おうとして途中で口をつぐんでしまった、遂に発せられることのなかった言葉を、彼女は記憶しようとした。
人間は永遠というものに触れることはできない。その哀しみが、本書の隅々にまで満ちている。
また一方で、登場人物たちの永遠への憧れと畏れは、不思議な形をとって小説の中にしばしば出てくる。先にあげた博物館もそうだ。「パスパルトゥ」の雑貨屋や百科事典、「少しだけ海の見えるところ」の、すべてを持って歩くおばさんや、森羅万象小売店、あるいは「路地裏の小さな猿」の、すべてを記録する男、等など。
彼らは世界のすべて、というとてつもないものを、何かの拍子に自分の手の中におさめてしまえないか、と思案する。実は世界は、とてつもないものではなく、ぎゅっと縮めてしまえば、これくらいになるんじゃないだろうか、と掌で形を作ってみたりする。対物レンズのピントを合わせ、小さな場所から遠くの場所へ旅をするのと似ている。徒労に終わると分かっていても、一瞬と永遠の境目にあるドアを探している。
最後に、登場人物の中で私が一番愛しているのは、雑貨屋パスパルトゥ。親切で、時々お節介で、犬の親友ハムと一緒に暮らしている。世界がどんなに重いかを知っていて(若い頃百科事典を背負って売り歩いていたから)、なおかつ、すべてを望んではならないと知っている。
一番好きな場面は、ホテルのクローク係が、金曜の夜、本を買って帰る幸福に浸るところ。青い包装紙を抱え、“一週間の中の最良の一瞬”を味わう場面。
仕事に疲れた夜、メールや留守電のチェックなど無視して、ベッドに潜り込み、暖かい毛布に包まり、「針がとぶ―Goodbye Porkpie Hat―」の一ページめをめくる幸せは、きっと他にたとえようがないだろう。

(おがわ・ようこ 作家)

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