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伝説のかもめが帰ってきた! 幻の最終章、ついに世界公開。

かもめのジョナサン完成版

リチャード・バック/著、五木寛之/創訳

1,404円(税込)

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発売日:2014/06/30

読み仮名 カモメノジョナサンカンセイバン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 172ページ
ISBN 978-4-10-505805-0
C-CODE 0097
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 1,404円

全世界で四千万部を売ったベストセラーへ新たに加えられた奇蹟の最終章──。「飛ぶ歓び」「生きる歓び」を追い求め、やがて精神世界の重要さに気づいたジョナサンだが、彼が消えた後、弟子のかもめたちはジョナサンの神格化を始める。教えの形骸化、自由の圧殺、やがて……。いま開かれる、自由と意志と救いの扉。五木寛之渾身の〈創訳〉が、あなたを変える。

著者プロフィール

リチャード・バック Bach,Richard

1936年米国イリノイ州生れ。元米空軍の戦闘機パイロット。除隊後、地方巡業の曲芸飛行家や・整備士として働いた。1970年発表の『かもめのジョナサン』が世界的ベストセラーになる。他の著書に『イリュージョン―悩める救世主の不思議な体験―』『ONE(ワン)』など。2012年に自身が操縦する小型飛行機の事故により瀕死の重傷を負ったことが、『かもめのジョナサン』最終章発表のきっかけとなった。

五木寛之 イツキ・ヒロユキ

1932(昭和7)年福岡県生まれ。作家。早稲田大学露文科中退後、編集者などを経て『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門 筑豊篇』他で吉川英治文学賞を受賞。『風に吹かれて』『大河の一滴』『他力』『人間の覚悟』『親鸞』『好運の条件』『玄冬の門』など著書多数。

書評

波 2014年7月号より [『かもめのジョナサン完成版』刊行記念特集]伝説のかもめが帰ってきた リチャード・バック/著 五木寛之/創訳  

北上次郎/五木寛之ゆえに


『かもめのジョナサン完成版』が出るという。『かもめのジョナサン』は1970年に書かれたが(日本での翻訳刊行は1974年)、その版ではパート3までしかなかった。今年の2月、アメリカでパート4が新しく加えられ(あちらでは電子書籍でのみ刊行)、日本でもそれを足した「完成版」が刊行されるという。
そうか、あれからもう40年がたってしまったのか。なんだかとても感慨深い。このファンタジーとも寓話ともつかない物語がアメリカで、そして日本でなぜあれほど売れたのか、正直に書くとよくわからない。これがどんな本かということについては、
「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった」
という冒頭の部分を引用すれば充分だろう。そうして飛ぶことのさまざまな練習をする姿を描いたのが本書である。そこにさまざまな意味を見いだすことは可能だ。自分の限界を超えようとするジョナサンに、克己の心を読み解く人もいただろうし、「やがてジョナサンは、カモメの一生があんなに短いのは、退屈と、恐怖と、怒りのせいだということを発見するにいたった」というところに、与えられたものではなく、創造することの重要さを感じ取る人もいたに違いない。飛ぶことの生徒が増えてくる後半の展開に、宗教の成り立ちを読む人もいたかもしれない。'70年前後のアメリカ西海岸のヒッピーたちがまわし読みしているうちにひろがったという伝説があるようだが、それらを重ね合わせて考えると一つの道筋が見えてくるとも言えそうである。
しかし我が国で売れた理由にはもっと別の理由もあったような気がしている。その翻訳者(本書では創訳となっている)が五木寛之であったことだ。
その存在が当時どれだけ大きかったのかを説明するのは難しい。1966年に「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞し、翌年の「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。一躍売れっ子作家に躍り出た――という履歴からは窺い知れない大きさがある。
当時は、小説現代、オール讀物、小説新潮の御三家で百万部を突破するという「中間小説誌の時代」で、それを牽引したのが五木寛之(と五木の翌年に直木賞を受賞した野坂昭如)だった――という話を始めると長くなるので別の機会にするが、この作家の真の凄さは、いま売れているということではなく、いま世界を変革しているという確信(それはグローバルな視野と思想を持った作家が同時代にいるという胸の鼓動だ)を与えてくれたことだ。すなわち、ただのベストセラー作家とは意味が異なる。我が国の戦後エンターテインメントに五木以前と五木以後という区分が出来るほどなのである。
そういう作家が休筆して3年目の1974年に、『かもめのジョナサン』を翻訳したのである。もちろん、アメリカのベストセラーが日本に上陸したので読んでみたという読者も多かったに違いないが、あの五木寛之が翻訳したのか、という読者も少なからずいたに違いない。時代の最先端にいる作家が係わっていることへの興味、と言い換えてもいい。それはけっして無視できない。
今回新たに付け加えられたパート4ではジョナサンがいなくなった世界で何が起きたのかを描いているが、いまでも私はなぜこの物語があの時代に売れたのかわからない人間である。このパート4を加えた「完成版」の意味も、正直に言えばよくわからない。それにベストセラーは嫌いだし。しかしこの「完成版」を手に取ると、どうして五木寛之はこれを翻訳したんだろうと懸命に考えていた若き日の自分が浮かんでくるのである。

(きたがみ・じろう 書評家)


原 幹恵/瞬間が降りてくる


わたしが生まれ育った新潟の小学生は修学旅行に佐渡へ行く。新潟港からのフェリーの甲板で、海空を低く飛び交う沢山のかもめたちに向って、みんなで「ジョナサン! ジョナサン!」と大声で呼びかけていたのを突然思い出した。もっとも、わたしはなぜ、かもめをジョナサンと呼ぶのかわかっていなかった。
つまり、わたしは今回初めて(つまりラストにPart Fourが加えられた〈完成版〉で)『かもめのジョナサン』を読んだのだけれど、読後にまず思ったのは、「自由に生きろ!」というジョナサンのメッセージは、この作品が発表された四十何年前には凶暴なくらい新鮮で魅惑的だったんだろうな、ということだった。
今では、自由に生きることは当り前になっている。実際にできるかどうかは別問題にせよ。わたしはむしろ、自由に生きようとするジョナサンが餌を得るためだけに飛ぶ他のかもめたちを否定するのを悲しく思ったくらいだ。食べるためだけに生きる人生にも幸福や充実はある、と思うから。まあ、他のかもめたちのほうだって、〈飛ぶ〉という自分の道を究めようとするジョナサンをまるで理解せずに、追放までするのだから、どっちもどっちではある。
やがて、ジョナサンは群れへ戻ってきて、少しずつ弟子が増えていく。ジョナサンも心が優しく、柔らかくなっている。そして、Part Fourでは彼がいなくなった後の世界が描かれるのだが、奇妙に崇め奉られたり、真意を理解されないまま歳月がたち、わたしはさみしくなってしまった。ただし、ラストには奇蹟みたいな救いがあって安堵できる。
これは実に不思議な本だ。短い物語だし、一見簡単なようなのに、自分なりに解釈していかないと解らない部分もあるし、明らかに読む年齢と立場によって印象が変わるだろうなと思えるところもある。今のわたしなら「うん、ジョナサンの言うように、自分の信じる道を突き進めばいいんだ」とすぐ賛成できるし、さっき書いたように「自由に生きろ、なんて当り前じゃない」とナマイキな感想も持てる。しかし、五年前ならそうは思えなかっただろう。あの頃のわたしは、まだ周りに合わせようとばかりしていたし、言われた通りのことをしようと努力していたし、交友関係を増やしたくて、苦手だなと思う人とも一緒に遊んだりしていて、疲れていたのだった。この本はそんな自分の変化(個人的には成長と呼びたい変化)を感じさせてくれる面がある。
ジョナサンのさまざまな言葉から、連想はかつての自分へとどんどん繋がっていく。彼のように異端児扱いをされたわけでは全くないけど、わたしは、「グラビアアイドルをやっていることを、事務所の他の人たちにはどう見られているのだろう?」なんて考えている時期があった。わたしがデビューした頃、事務所にグラビアをやっている女の子はいなかったのだ。わたしはまだ十七八歳で、気弱で、上京したばかりで、不安だった。こんなことをしていていいの? 同じくらいの年齢の子が演技の道を進んでいるのが羨ましかった。同時に、お手本もないまま、自分のやり方で道を切り拓くしかないこともわかっていた。女優なり何なり、自分にやりたいことがあるのなら、無我夢中でとにかくやっていくしかない。わたしは他人の目を気にするタイプのジョナサンだったのだ。
デビューから八年たって、おおぜいの人のおかげで、グラビアもバラエティもドラマや舞台もできるようになった。グラビアは今もやっている。もう、衣装でもポーズでも自分の意見を通すようになった。いや、言われるままに撮影しても、八年もやってきたのだから、きっと求められている段階まではクリアできるとは思う。しかし、自分なりに意識をして撮影に臨むと、こなしている自分、作り上げている自分――そんな無難な自分ではない、いつもの自分以上のわたしが出せる時がある。そんな瞬間が、現場を吹き抜ける風や、窓から射す光や、青々とした自然の匂いや、鳥の囀(さえず)りや寄せては返す波の音や、カメラマンの方と一緒に作りあげた心地よい空間のせいで、ふいに降りてくる。
毎回ではないし、意図してもできない。撮影が終わる頃になって、やっと降りてくることもある。しかし、いったん降りてくると、その日の最後までそれは続くのだ。例えば、ハワイで撮影した『楽園』という写真集ではそんな瞬間を数多く経験できた。テレビの『嬢王3』では、最終回に一人で泣く大切な場面があり、この連続ドラマへの思い入れが強すぎたわたしは本番前に感情のコントロールがきかなくなったのだけれど、本番では不思議と醒めている自分もいて、苦手な涙を流す演技をどうにか演じ切れたようだった。
『かもめのジョナサン 完成版』を読みながら、ジョナサンがあり得ないスピードで空を飛ぶ時に感じる、エゴもこだわりもない、純粋な自由みたいなものを、ああいう瞬間にわたしも味わえているのだろうかと考える。ジョナサンが若いかもめに言うように、わたしも練習すればいつでも味わえるようになれたらいいな、と考える。

(はら・みきえ 女優)

波 2014年7月号より [『かもめのジョナサン完成版』刊行記念特集]伝説のかもめが帰ってきた リチャード・バック/著 五木寛之/創訳  

北上次郎原幹恵

北上次郎/五木寛之ゆえに


『かもめのジョナサン完成版』が出るという。『かもめのジョナサン』は1970年に書かれたが(日本での翻訳刊行は1974年)、その版ではパート3までしかなかった。今年の2月、アメリカでパート4が新しく加えられ(あちらでは電子書籍でのみ刊行)、日本でもそれを足した「完成版」が刊行されるという。
そうか、あれからもう40年がたってしまったのか。なんだかとても感慨深い。このファンタジーとも寓話ともつかない物語がアメリカで、そして日本でなぜあれほど売れたのか、正直に書くとよくわからない。これがどんな本かということについては、
「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった」
という冒頭の部分を引用すれば充分だろう。そうして飛ぶことのさまざまな練習をする姿を描いたのが本書である。そこにさまざまな意味を見いだすことは可能だ。自分の限界を超えようとするジョナサンに、克己の心を読み解く人もいただろうし、「やがてジョナサンは、カモメの一生があんなに短いのは、退屈と、恐怖と、怒りのせいだということを発見するにいたった」というところに、与えられたものではなく、創造することの重要さを感じ取る人もいたに違いない。飛ぶことの生徒が増えてくる後半の展開に、宗教の成り立ちを読む人もいたかもしれない。'70年前後のアメリカ西海岸のヒッピーたちがまわし読みしているうちにひろがったという伝説があるようだが、それらを重ね合わせて考えると一つの道筋が見えてくるとも言えそうである。
しかし我が国で売れた理由にはもっと別の理由もあったような気がしている。その翻訳者(本書では創訳となっている)が五木寛之であったことだ。
その存在が当時どれだけ大きかったのかを説明するのは難しい。1966年に「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞し、翌年の「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。一躍売れっ子作家に躍り出た――という履歴からは窺い知れない大きさがある。
当時は、小説現代、オール讀物、小説新潮の御三家で百万部を突破するという「中間小説誌の時代」で、それを牽引したのが五木寛之(と五木の翌年に直木賞を受賞した野坂昭如)だった――という話を始めると長くなるので別の機会にするが、この作家の真の凄さは、いま売れているということではなく、いま世界を変革しているという確信(それはグローバルな視野と思想を持った作家が同時代にいるという胸の鼓動だ)を与えてくれたことだ。すなわち、ただのベストセラー作家とは意味が異なる。我が国の戦後エンターテインメントに五木以前と五木以後という区分が出来るほどなのである。
そういう作家が休筆して3年目の1974年に、『かもめのジョナサン』を翻訳したのである。もちろん、アメリカのベストセラーが日本に上陸したので読んでみたという読者も多かったに違いないが、あの五木寛之が翻訳したのか、という読者も少なからずいたに違いない。時代の最先端にいる作家が係わっていることへの興味、と言い換えてもいい。それはけっして無視できない。
今回新たに付け加えられたパート4ではジョナサンがいなくなった世界で何が起きたのかを描いているが、いまでも私はなぜこの物語があの時代に売れたのかわからない人間である。このパート4を加えた「完成版」の意味も、正直に言えばよくわからない。それにベストセラーは嫌いだし。しかしこの「完成版」を手に取ると、どうして五木寛之はこれを翻訳したんだろうと懸命に考えていた若き日の自分が浮かんでくるのである。

(きたがみ・じろう 書評家)


原 幹恵/瞬間が降りてくる


わたしが生まれ育った新潟の小学生は修学旅行に佐渡へ行く。新潟港からのフェリーの甲板で、海空を低く飛び交う沢山のかもめたちに向って、みんなで「ジョナサン! ジョナサン!」と大声で呼びかけていたのを突然思い出した。もっとも、わたしはなぜ、かもめをジョナサンと呼ぶのかわかっていなかった。
つまり、わたしは今回初めて(つまりラストにPart Fourが加えられた〈完成版〉で)『かもめのジョナサン』を読んだのだけれど、読後にまず思ったのは、「自由に生きろ!」というジョナサンのメッセージは、この作品が発表された四十何年前には凶暴なくらい新鮮で魅惑的だったんだろうな、ということだった。
今では、自由に生きることは当り前になっている。実際にできるかどうかは別問題にせよ。わたしはむしろ、自由に生きようとするジョナサンが餌を得るためだけに飛ぶ他のかもめたちを否定するのを悲しく思ったくらいだ。食べるためだけに生きる人生にも幸福や充実はある、と思うから。まあ、他のかもめたちのほうだって、〈飛ぶ〉という自分の道を究めようとするジョナサンをまるで理解せずに、追放までするのだから、どっちもどっちではある。
やがて、ジョナサンは群れへ戻ってきて、少しずつ弟子が増えていく。ジョナサンも心が優しく、柔らかくなっている。そして、Part Fourでは彼がいなくなった後の世界が描かれるのだが、奇妙に崇め奉られたり、真意を理解されないまま歳月がたち、わたしはさみしくなってしまった。ただし、ラストには奇蹟みたいな救いがあって安堵できる。
これは実に不思議な本だ。短い物語だし、一見簡単なようなのに、自分なりに解釈していかないと解らない部分もあるし、明らかに読む年齢と立場によって印象が変わるだろうなと思えるところもある。今のわたしなら「うん、ジョナサンの言うように、自分の信じる道を突き進めばいいんだ」とすぐ賛成できるし、さっき書いたように「自由に生きろ、なんて当り前じゃない」とナマイキな感想も持てる。しかし、五年前ならそうは思えなかっただろう。あの頃のわたしは、まだ周りに合わせようとばかりしていたし、言われた通りのことをしようと努力していたし、交友関係を増やしたくて、苦手だなと思う人とも一緒に遊んだりしていて、疲れていたのだった。この本はそんな自分の変化(個人的には成長と呼びたい変化)を感じさせてくれる面がある。
ジョナサンのさまざまな言葉から、連想はかつての自分へとどんどん繋がっていく。彼のように異端児扱いをされたわけでは全くないけど、わたしは、「グラビアアイドルをやっていることを、事務所の他の人たちにはどう見られているのだろう?」なんて考えている時期があった。わたしがデビューした頃、事務所にグラビアをやっている女の子はいなかったのだ。わたしはまだ十七八歳で、気弱で、上京したばかりで、不安だった。こんなことをしていていいの? 同じくらいの年齢の子が演技の道を進んでいるのが羨ましかった。同時に、お手本もないまま、自分のやり方で道を切り拓くしかないこともわかっていた。女優なり何なり、自分にやりたいことがあるのなら、無我夢中でとにかくやっていくしかない。わたしは他人の目を気にするタイプのジョナサンだったのだ。
デビューから八年たって、おおぜいの人のおかげで、グラビアもバラエティもドラマや舞台もできるようになった。グラビアは今もやっている。もう、衣装でもポーズでも自分の意見を通すようになった。いや、言われるままに撮影しても、八年もやってきたのだから、きっと求められている段階まではクリアできるとは思う。しかし、自分なりに意識をして撮影に臨むと、こなしている自分、作り上げている自分――そんな無難な自分ではない、いつもの自分以上のわたしが出せる時がある。そんな瞬間が、現場を吹き抜ける風や、窓から射す光や、青々とした自然の匂いや、鳥の囀(さえず)りや寄せては返す波の音や、カメラマンの方と一緒に作りあげた心地よい空間のせいで、ふいに降りてくる。
毎回ではないし、意図してもできない。撮影が終わる頃になって、やっと降りてくることもある。しかし、いったん降りてくると、その日の最後までそれは続くのだ。例えば、ハワイで撮影した『楽園』という写真集ではそんな瞬間を数多く経験できた。テレビの『嬢王3』では、最終回に一人で泣く大切な場面があり、この連続ドラマへの思い入れが強すぎたわたしは本番前に感情のコントロールがきかなくなったのだけれど、本番では不思議と醒めている自分もいて、苦手な涙を流す演技をどうにか演じ切れたようだった。
『かもめのジョナサン 完成版』を読みながら、ジョナサンがあり得ないスピードで空を飛ぶ時に感じる、エゴもこだわりもない、純粋な自由みたいなものを、ああいう瞬間にわたしも味わえているのだろうかと考える。ジョナサンが若いかもめに言うように、わたしも練習すればいつでも味わえるようになれたらいいな、と考える。

(はら・みきえ 女優)

目次

完成版への序文
Part One
Part Two
Part Three
Part Four
ゾーンからのメッセージ
1974年版あとがき

判型違い(文庫)

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