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若くして命を落とした弟。身重の妻と結ばれた兄。

低地

ジュンパ・ラヒリ/著、小川高義/訳

2,700円(税込)

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発売日:2014/08/26

読み仮名 テイチ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 478ページ
ISBN 978-4-10-590110-3
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,700円

過激な革命運動のさなか、両親と身重の妻の眼前、カルカッタの低湿地で射殺された弟。遺された若い妻をアメリカに連れ帰った学究肌の兄。仲睦まじかった兄弟は二十代半ばで生死を分かち、喪失を抱えた男女は、アメリカで新しい家族として歩みだす――。着想から16年、両大陸を舞台に繰り広げられる波乱の家族史。

著者プロフィール

ジュンパ・ラヒリ Lahiri,Jhumpa

1967年、ロンドン生まれ。両親ともカルカッタ出身のベンガル人。幼少時に渡米し、ロードアイランド州で育つ。大学・大学院を経て、1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞受賞。同作収録のデビュー短篇集『停電の夜に』でニューヨーカー新人賞、ピュリツァー賞ほか独占。2003年、第一長篇『その名にちなんで』発表。2008年刊行の『見知らぬ場所』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2013年、長篇小説『低地』発表。『べつの言葉で』は夫と二人の息子とともに移住したローマで、イタリア語で書かれた初のエッセイ集。

小川高義 オガワ・タカヨシ

1956年横浜生れ。東大大学院修士課程修了。翻訳家。『緋文字』(ホーソーン)、『老人と海』(ヘミングウェイ)、『停電の夜に』『見知らぬ場所』『低地』(ラヒリ)、『また会う日まで』(アーヴィング)、『イースタリーのエレジー』(ガッパ)、『五月の雪』(メルニク)など訳書多数。著書に『翻訳の秘密』がある。

書評

波 2014年9月号より [ジュンパ・ラヒリ『低地』刊行記念特集] 美しい感情の抑制と爆発

山田太一

カルカッタに、十三歳の少年と彼から一年三ヶ月離れた弟がいた。物語のはじめ、二人はいつも一緒だった。かばい合っていた。父はインド鉄道の事務職員で、やがてその息子が二人とも大学に進学したことが町の噂になったりもした。母は仕立ての内職をして家庭教師代を助けた。インドの都会の勤め人の家庭など一向に知らないから、当り前のように書いてあることに「へえ」と思ったりした。
それから兄はアメリカに留学してしまう。
弟は少しも周囲に気づかせなかったが、政治革命を信じて当時の西ベンガル州政府の弾圧に抵抗していた。チェ・ゲバラや毛沢東が神だった。親が決めた相手ではなく、自分で決めた妻と一緒にもなっていた。
突然その弟は官憲に逮捕される。
兄弟が育った「低地」にあった池の端で妻や人々が見ている前で射殺されてしまう。
物語の要約はここまでにしておこう。
まだほんの序の口だが、これ以上話すと、はじめて読む人の楽しみを損ってしまう。決してストーリーで維持しているような小説ではないのだが、物語もよく考えられていて深いのだ。一章ずつその章にじっくり腰を据えて季節の描写、人物の細部、経緯(いきさつ)に集中して少しも慌てないのだが、次の展開が読めないことが私には何度かあった。「あ。そう来ますか」と作家の才能を楽しんだ。あらかじめ語って、その邪魔をしたくない。敬意といってもいい。
主な舞台はアメリカに移る。インドにもいくらかは戻るが、メインは東部のロードアイランドである。カリフォルニアも少し。
弟の「正義のための死」は兄に影を落さないわけにはいかない。しかし、兄は政治的な人間ではない。といって弟の死を誰にでもある死として片付けることはできない。目前ですべきことは、せめて弟の妻をインドから救い出すことだった。反体制で処刑された政治犯の未亡人として生きなければならない人生から救わなければならない。感情ぬき愛情ぬきで、アメリカで彼女を妻にして逃げ場をつくる。とりあえず、それが兄ができる弟に向っての「正義」だった。
その妻にとっても他の選択肢はないように思えた。娘がうまれる。それは兄の子ではない。死んだ弟との子だった。兄はそれにも耐える。「大義」のために死んだ弟の自己犠牲に比べればそのくらいなんだろう。娘を愛する。妻も新しい夫を受け入れて幸福をつかみかけたように思う。
しかし、ある日、妻は失踪してしまう。射殺された夫の記憶を忘れて幸福になることはできないと思ったのかもしれない。アメリカに来てから熱中した西洋哲学を足場にして、過去を振り切って自己の物語を娘を捨ててでも新しく生きたいと願ったのかもしれない。いや、周囲には暴力となるような行動は、そんな意味づけの余裕がないものなのかもしれない。
ああ、要約している。しないといったのにしている。物語にも魅力があるのだ。しかし、この小説は要約してはいけないとも同時に思っている。要約では、語り口の静けさ美しさは、伝わらない。兄の情事――弟が元気なころのアメリカでの白人の中年女性との情事と別れもはぶくしかない。時に荒涼となるロードアイランドの海辺で風に向ってはばたく鳥が止っているように見えるとか、ミミズの死屍累累の光景とか、「ドゥルガー祭の直前の週だった。ヒンドゥー暦のアシュウィン月。これから満月に向かおうとしていた」というような言葉のかもし出す味をぬきにこの小説はあり得ない。
ともあれ親しい人が「正義」のために死んだら、残されたものは、「では、自分はどう生きるのか」という問いと無縁でいることは難しい。たとえ、その死者の「正義」が色褪せたとしても、人々のために身を挺した事実までおとしめることはできない。兄も妻も娘も、それぞれがその問いに本気でこたえようとしたところに、この小説の独特の生真面目さと品格があるのではないだろうか。呑気に幸福であればいいという生き方を封じられた人生。あえて封じた人生。
そのためか、それぞれの人物の感情の抑制が(そして作者のそれが)この作品の底を流れる美しさになっている。その爆発も。

(やまだ・たいち 脚本家・小説家)

[→][ジュンパ・ラヒリ『低地』刊行記念特集]【インタビュー】ジュンパ・ラヒリ/構想16年、待望の新作長篇

インタビュー/対談/エッセイ

波 2014年9月号より [ジュンパ・ラヒリ『低地』刊行記念特集] 【インタビュー】構想16年、待望の新作長篇

ジュンパ・ラヒリ

故郷を書く/現代史を書く/三角関係を書く/半開きのドア

聞き手・クレシダ・ライション 翻訳協力・小川高義

ジュンパ・ラヒリの新作長篇『低地』は、インドのカルカッタで育った二人の兄弟、スバシュとウダヤンの親密な少年時代の描写から始まる。片時も離れなかった二人が、二十代の若者となり、人生の道を画然と分かつことになる。子どもの頃から度胸のいい弟のウダヤンは、過激な共産主義革命運動に身を投じ、学究肌の兄スバシュは渡米して、ロードアイランドの大学院で研究生活に入る。
やがて弟が、暴力闘争の果て両親と身重の妻の眼前で殺されると、兄は、若い寡婦となった妻をアメリカに連れ出し、ともに生きようとする。弟ウダヤンの死によって、遺された者たち――兄スバシュ、妻ガウリ、父亡きあと誕生した娘ベラ、そして兄弟の両親――の人生はどのように変わり、続いてゆくのか。

故郷を書く

――『低地』はコルカタとニューイングランドを行き来して語られます。ニューイングランドのなかでもロードアイランドと言えば、まさにご自身が育った土地ですね。

ラヒリ 以前から、いわば偽装したようなかたちでは、ロードアイランドのことを書いてきました。明らかにマサチューセッツとわかるように設定してみた作品もあります。もちろんマサチューセッツにも住んだことはありますけどね。でもこれまでは、今度のようにロードアイランドと特定できる作品はなかったはずです。どうしてなのかよくわかりませんが、育った場所そのままでは書きにくかったのかもしれません。
たとえば『その名にちなんで』はボストン郊外という設定ですし、『停電の夜に』という最初の本には、頭の中でロードアイランドを思い描きながら、そうとは明かしていない短篇もあります。こうなると場所の設定なんて、コネティカットでも、マサチューセッツでも、ロードアイランドでも、どこでもいいということになってしまいますね。でも今度の長篇では、はっきりとロードアイランドについて書きたかった。これは初めてのことです。
何年か前、『ステート・バイ・ステート』という本に一文を寄せました。これはショーン・ウィルシー、マット・ウェイランドの共編で、各州ごとに一人の作家が、その州と自身との関わりを書いたものです。ちょうど『低地』の執筆にかかろうとしていた時期で、このエッセーを書くことによって、自分がロードアイランドで育ったという人生の事実に初めて真正面から向き合って――じつはいまでも完全に馴染めたのかどうかわからない土地ですが――これなら大丈夫、今度の本はロードアイランドを書こう、と思ったのです。それでやっと解放されたというか、ロードアイランドについて、じっくり考える、書く、思い出す、ということができました。

――実際の風景、とくに海岸線がスバシュにとっては大事ですね。スバシュの視点を意識しながらロードアイランドを見直す、考え直す、というようなことはありましたか。

ラヒリ ええ、スバシュが研究生活を送る設定にしたキャンパスまで、彼になったつもりで車を走らせたり、小さな浜辺を歩いたり、彼が見るであろうものを見ようとしました。何度もロードアイランドへ足を運んで、彼が毎日どういう暮らしをしていたのか考えたことも、人物造形をかためていくうえでは大事でした。その海岸の近くに小さな教会があるのですが、ああ、これはいい、これを彼が見ることにしよう、なんて思ったりもしました。

現代史を書く

――ウダヤンは、一九六〇年代のカルカッタで、ナクサライト(インドの過激な共産主義革命運動)と深い関わりを持ちます。そういう時代背景を描くのに、文献を調べたり、当時を知る人に話を聞いたりなさったと思いますが、まず書いて、あとから細部を詰めたのか、それともあらかじめ歴史をのみこんでしまおうと考えたのか。どちらでしょう。

ラヒリ のみこんで、しっかり消化してから書くつもりでした。ところがうまくいかなくて、だいぶ長いこと苛々していました。借り出した本が二冊あって――父が勤めている図書館から借りたのですが、結局、七年も借りたままになってしまって。ときどき読み返しては、メモをとって、しまい込んで、また読み直してメモをとってという繰り返しでした。何年こんなことを続けるんだろうと不安でした。
四分の三くらいまで書き進んだころ、コルカタへ行きました。それまでにも、当時のインドを知っている両親の知り合いに、「どんな時代でしたか、何があったんですか」というようなことを聞こうとしていたのですが、コルカタで現地の人に詳しく話を聞くうちに、かちりと鍵が開いたような気がしました。それまでとっていたメモと符合したというか。
そしてやがて、あるときとつぜん、もう調査や資料といったものを松葉杖にしなくても書けると思えたのです。その段階になると、登場人物のイメージがはっきりして、行動の動機もだいたい固まっていましたから、こういう感じの人がこういう世界に暮らしている、このまま掘り下げていけばいい、と吹っ切れました。第一段階は調べることばかりで先が見えませんでしたが、そのうちに調べた歴史が少しずつ見えてきて、しっかり見えてくるほどに、もう見なくてもよくなった、ということですね。

三角関係を書く

――『低地』は、いままでの作品とは文体が変わったと感じるところもあります。短く切り詰めたようなセンテンスがあって、断片的な構文を多用しているとも思えますが、それだけに緊迫感のある語り口ですね。

ラヒリ 少し変えてみようとは思っていました。ストーリー、題材、状況、時代背景、どれもこれも重たいので、文章まで重くするのがいやで、言うべきことはできるだけ簡素にというつもりでした。いくらか軽みがあってもいいのかなと。ですから、いつもよりもっと削ったかもしれません。草稿の段階ではもっと重かったんです。情報量が多すぎて、歴史にこだわりすぎて、思い入れたっぷりで、これは軽くしてやらなければと思ったんです。

――アメリカ議会図書館の分類によると、『低地』は「兄弟」「ナクサライト運動」とならんで「三角形(人間関係として)」という下位区分にも該当することになっています。三角関係と言うなら、もちろん、兄のスバシュと、弟のウダヤン――ウダヤン本人よりはその記憶――それから寡婦となるガウリ、という三人ですね。そういう関係はほかにも、スバシュ、ガウリ、娘のベラ、といった形で見られます。三角関係というのは、作家にとって何か意味があるのでしょうか。

ラヒリ ずいぶん前になりますが、ボストン大学で創作を学んでいたとき、物語をつくるうえで便利だと教わったんです。三角は坐りがいいけれども、四角のような安定はない。だからドラマを作りやすい。私は三角の連続を意識して書いているので、作品のいたるところに出てきます。いろいろな行き方がありますが、私は小説というのはとりわけ、家族とは何なのかを考えるものではないかと思っています。何人でも家族になりえますが、少なくとも三人はいないと二世代におよぶ家族は書けません。

半開きのドア

――ニューヨーカーの小説特集号に、『低地』の一部が先行して掲載されました。掲載されたのは、ウダヤンの子を宿したガウリに、兄のスバシュが、一緒にロードアイランドへ行ってはどうかと誘うところまでです。その後のアメリカでは、どういう展開もありえた。二人がそれなりに幸福に暮らすという展開も一つの可能性ですが、複雑な現実にぶつかっていくことは初めから想定されていたのですか。

ラヒリ ええ、そうです。緊急避難のように工作した解決法が、ある意味では間違っていたけれど、それでいて間違いでなかったともわかる、ということを考えていました。必要だと思えたことが、必ずしも解決にならなかった。人生そんなものではないでしょうか。何かをするとして、それがベストではないけれど、そのときは仕方ないというような。そういう方向性でしたから、二人のハッピーエンドはまったく考えていなかった。ものすごく複雑な、困った展開になるのだということ以外は何もありませんでしたけれど。

――ロードアイランドへ行ってからの結婚生活については、あらかじめ計算なさっていたのですか。

ラヒリ お腹の子が生まれることは予定どおりでしたが、夫婦がどうなるかまではあまり決めていませんでしたね。ガウリとスバシュは子供に対する情緒という点でくっきり分かれますが、そのあたりを考えあぐねて時間がかかってしまいました。誰が何をどう思うかというようなことで。ガウリが子供につよく愛着を感じるという可能性もあったと思います。いまなお愛する亡夫の子なのだから、子どもが生きがいになって、スバシュが脇に追いやられるとか。そういう成り行きもあったかもしれない。でも実際に子どもが生まれてからの二人を追いかけて書いていたら、やはり違う方向へ進んでいました。

――ウダヤンの死をもっとも重く受けとめるのがガウリですね。かけがえのない人を失って、子どもが生まれても、代わりにはならない。仕事を持つようになるとある程度は埋め合わせられますが、いささか不毛なやり方でしょう。ガウリはもっとも悲劇的な軌跡をたどりますが、それでいて最後には彼女にもちらりと希望の光が差している。

ラヒリ もっとエンディングを暗くしたらどうかとも思ったのですが、でも、やっぱり違うかなと。これは作家の都合みたいなものですけれど、娘のベラを書いていると、その人物像に私の気持ちが入っていって、もっと彼女のことを考えてあげたくなったんです。実の父親が革命の過激派で、殺されたことも知らずに、秘密やら嘘やらに生かされて、この上さらに母親が自殺するとか、一生ついてまわる重みを背負わせて終わったら、いくら何でもひどすぎやしないか。ここはベラを守ってやりたいと思いました。それにガウリ自身だって充分ひどい目に遭ってますからね。
ですから、ちゃんと解決してやらないまでも、ひょっとしたらどうにかなりそうな、半分開いたドアのように終わることにしたんです。

“Unknown Territory” by Cressida Leyshon
Taken from The New Yorker, 18 Oct, 2013.
Copyright © 2013 Condé Nast

[→][ジュンパ・ラヒリ『低地』刊行記念特集]山田太一/美しい感情の抑制と爆発

短評

▼Yamada Taichi 山田太一
親しい人が「正義」のために死んだら、残されたものは、「では、自分はどう生きるのか」という問いと無縁でいることは難しい。たとえ、その死者の「正義」が色褪せたとしても人々のために身を挺した事実までおとしめることはできまい。兄も妻も娘も、それぞれがその問いに本気でこたえようとしたところに、この小説の独特の生真面目さと品格があるのではないだろうか。呑気に幸福であればいいという生き方を封じられた人生。あえて封じた人生。そのためか、それぞれの人物の感情の抑制が(そして作者のそれが)この作品の底を流れる美しさになっている。その爆発も。

▼San Francisco Chronicle サンフランシスコ・クロニクル
『停電の夜に』に見られた静かな記憶を残す絶妙な語り口は、長篇小説でも健在だ。物語を呼び覚ます声の力と鮮烈なイメージが、読む者を陶然とさせる。

▼The Independent インディペンデント
新作が待ち遠しく、出るたびに大喜びする。ラヒリはそういう作家になった。

▼The Los Angeles Review of Books ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックス
ラヒリは「移民系」の作家ではない。アメリカの現実を書く文学の系譜にある。この見事な出来映えの小説は、どこに帰属すればよいのかという果てしのない探究によって、きわめてアメリカ的な状況を描き出している。アメリカでは誰もが外からやってきた。誰もが移民なのである。

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