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べつの言葉で

ジュンパ・ラヒリ/著 、中嶋浩郎/訳

1,760円(税込)

発売日:2015/09/30

  • 書籍

「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。

子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。

目次
横断
辞書
雷の一撃
亡命
会話
放棄
辞書を使って読む
言葉の採集
日記
物語
取り違え
壊れやすい仮小屋
不可能なこと
ヴェネツィア
半過去または不完全
毛深い若者
二度目の亡命

三角形
変身
探査する
足場
薄暗がり
謝辞
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 ベツノコトバデ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 144ページ
ISBN 978-4-10-590120-2
C-CODE 0398
ジャンル エッセー・随筆、評論・文学研究、ノンフィクション
定価 1,760円

書評

不完全であるという自由

マイケル・エメリック

 ジュンパ・ラヒリの作品から、冴え冴えとした視線を感じることがある。波に揺られつつ海のなかを懸命に泳いでゆく登場人物たちを、作家が一心に、しかし浜辺を見おろす小高い崖の上から見守るような、常に一定の距離を保った、温度の低い愛情。あるいは「かわいい子には旅をさせよ」という日本語のことわざがもつ自制の雰囲気にも、それは少し似ているのかもしれない。
『べつの言葉で』は小説ではなく、ラヒリの初めてのエッセイ集である。ここにも、あの冷静な感性が全編に滲み出ている。違うのはラヒリが崖の上からじっと眺めつづける対象だ。首まで海水に浸かってもがいているのは、小説中の架空の人物ではなく、ほかでもない、生身のラヒリ自身である。
 本書は、きわめて大胆な言語的・精神的実験の記録といってもよい。生まれ育った西ベンガルを後にしてイギリス、それから米国に移民した両親のもとに生まれたラヒリは、幼いときからベンガル語と英語の両方に浸ってきた。ベンガル語は家族の言葉だったので読み書きはほとんどできず、これまでの著作はすべて英語で発表してきた。しかし、今回の『べつの言葉で』は違う。英語ではなく、ましてベンガル語でもなく、成人してから一種の趣味として学習しはじめたイタリア語で書かれているのだ。
 趣味として勉強しはじめたといっても、本書に描かれるラヒリのイタリア語との付き合い方は真剣そのものだ。まるで俗世を捨て、神に命を捧げる尼僧のように、英語の読書を一切やめてまで、イタリア語に没頭する。あげくの果てには家族を連れてローマに移住してしまうのである。聖書のページを大事に繰る信者のようにイタリア語の辞書で言葉を引き、ノートにメモをとる。やがてはイタリア語で短い文章を書きはじめる。日記、エッセイ、掌編小説。そしてそれが本になったのである。
 バイリンガルのラヒリ氏にとっては、英語とベンガル語はどちらも必須の言語だった。米国社会のなかで生きるために、また愛する家族の一員であるために欠かすことはできなかった。それに対してイタリア語は彼女にはまったく必要がなかった言葉である。不要だが、不要であるからこそ、何より重要で核心的な言葉になる。
「イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う」とラヒリ氏は説明している。

 わたしの言語遍歴に三つめのイタリア語が加わったことで、三角形が形成される。直線ではなく一つの形が作られる。(中略)三つめの点ができることで、昔から仲が悪かったカップルの力学が変化する。わたしはこの不幸な二つの点の娘だが、三つめの点はその二つから生まれるのではない。わたしの願い、努力から生まれる。わたしから生まれるのだ。

 イタリア語を学びつづけることによって、ラヒリは初めて自主的に「自分の言葉」を見つけることができたのである。たとえ死ぬまでその言葉を英語ほど完璧に操れるようにはなれないとしても。
 直接言及されてはいないが、ベンガル語と英語から身を引き、元来自分とは何の関係もなかった言語であるイタリア語へ深く潜っていこうと決心するのは、同時に「文学」への愛情をさらに深める行為でもあるように思う。英語の作家として、それこそ水を得た魚のようにすいすいと、いかにも軽やかにエレガントに泳ぐことのできるラヒリ氏は、成人してから学びはじめたイタリア語で執筆することの不自由さを引き受けることで、もっとも純粋な形で文学者であることを選び直したといえるのではないだろうか。
 文学も、ある意味必要のない、無駄なものだ。本書を読みながら、人間の生存にとって不要である文学が、不要だからこそ、いかに重要であるかを改めて感じることができた。これはとてもいい本の、とてもいい翻訳である。あちこちにちりばめられたイタリア語の単語を意味も分からず口のなかで転がしながら、私も少しだけイタリア語が勉強したくなった。

(マイケル・エメリック 日本文学・翻訳家)
波 2015年10月号より

インタビュー/対談/エッセイ

言葉は差異の最後の砦 聞き手:マイケル・エメリック 翻訳協力・小竹由美子

ジュンパ・ラヒリマイケル・エメリック小竹由美子

 ジュンパ・ラヒリがイタリア語と出会ったのは学生時代。妹と二人、初めてのイタリア旅行の行き先に選んだのはフィレンツェだった。十七世紀イギリス小説へのルネサンス建築の影響について論文を書いていたラヒリは、クリスマス前のある日、夕暮れのフィレンツェに到着する。ポケットには緑色のビニールカバーのついた、小さな伊英辞典。
 それから二十年、「湖の岸沿いを泳ぐように」イタリア語を学び、恋しつづけてきたラヒリは、夫と子ども二人を伴い、二〇一二年、とうとうローマに移り住む。丘の上の家を、マイケル・エメリックさんが訪ねた。

――『停電の夜に』『その名にちなんで』『見知らぬ場所』、そして最新作の『低地』。あなたの作品の登場人物は、故国を離れ、居場所を転々として生きている人が多いですね。
 おっしゃるように、わたしは外国人や移民たちを作品のなかで書いてきました。でもわたし自身、これまで外国人としての生活を実際に経験したことはなかったんです。

――それがいまはイタリアにいらっしゃる。
 四十五歳でローマに引っ越し、突然外国人になりました。そして、長年片思いしてきたイタリア語を話しています。たとえ自信ありげにしゃべっているようでも、まちがいだらけ。理解できない言葉や物事もたくさんあります。
 いまやわたしも両親と同様に、子どもたちを外国で育てています。どうして両親の世代を描くことから自分の小説を始めたかというと、わたしには彼らのことがよくわからなかったからです。両親のことを知りたいとずっと渇望していました。ひとつの国を離れてべつの国にやってきたことは、彼らにとってどんな意味を持っていたのか。書くことによって、深く理解したかった。
 そして四冊の本を書いたあと、こんどこそ自分自身もやってみなくてはと思ったんです。わたしをニューヨークから引き離したものは、とろとろゆっくり煮え続けてきた本物の必然性だったんです。人間として、作家として、こうしなければならないと心底思った。あらゆるレベルで、外国人であるというのが実際どういうことか、いちどじかに自分で経験してみなければならないと。
 わたしにはもちろん、アメリカでの生活があります。そこで育ち、ずっと暮らしてきました。そしてインドの親類縁者たちの世界。複数の文化にふれることは、人間によりいっそうの柔軟性を与えてくれます。それは真の恩寵です。言語の面でも、英語はわたしの第一言語ではありませんでした。まず両親の言葉、ベンガル語があった。そして英語。わたしは父の勤めていたロードアイランド大学の図書館で英語の本と出会いました。図書館は、英語と本の世界、両方の入り口だったんです。それから、英語で書くことを始めました。
 そしていまでは第三言語のイタリア語がありますが、こちらの友人とイタリア語で話していると――あなたならきっとおわかりでしょう? 英語とイタリア語よりもっと異なる言葉を話すのだから――ちがう言葉を使うと、ちがう筋肉を使い、ちがう自分になる。イタリア語だと、わたしはちがう考え方をします。ちがう反応をします。ちがう書き方になります。そうした自分の別バージョンを与えられるのはすばらしいことだと思うんです。

――はい、よくわかります。
 子どものころ、わたしはすでに両親よりも英語がよくできました。英語で書く必要があるとき、両親はわたしに訊いていたんです。両親を守りたいと思うと同時に、ときに恨みがましい気持ちにもなりました。子どもって、親にはなんでも自分以上に知っていてもらいたいものでしょう? うちの子どもたちもそうですよ。ママとパパはなんでも知っている(笑)。外国人である両親のもとで成長した人はたぶんみな同じなのではないでしょうか。
 いまこうしてローマに暮していると、言葉というのは、差異の最後の砦ではないかと思うんです。言葉がちがうとあなたもちがう。言葉にくらべたら、人間はそれほどのちがいがありません。言葉というのはとても緻密で驚くべき発明、存在です。ベンガル語と英語を話し、アメリカで育ってカルカッタへ行き、カレーを食べて、テレビで「ハッピーデイズ」を見ていたわたしのようなハイブリッドの人間とちがって、言葉は融通が利かないんです。(2013.6)

*ラヒリの初めてのエッセイ『べつの言葉で』はイタリア語で書かれました。 新しい言葉を学ぶこと、異国で暮らすこと、発見、困惑、希望、不安、歓び……すべてがつまった必読のエッセイです。 9月30日発売予定。

Jhumpa Lahiri
1967年、ロンドン生まれ。 両親ともインド・カルカッタ出身のベンガル人。2歳で渡米。 東海岸ロードアイランドで成長する。 大学、大学院を経て、1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞、同作収録の短篇集『停電の夜に』でPEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、ピュリツァー賞ほか受賞。 2003年、長篇小説『その名にちなんで』発表。2008年刊行の『見知らぬ場所』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2013年、長篇小説『低地』を発表。


Photograph:Splash/AFLO

波 2015年9月号より

短評

▼Michael Emmerich マイケル・エメリック

母語であるベンガル語から切り離され、アメリカに移住し、英語で生活を営むラヒリの両親が、祖国インドからの手紙を貪るように読み返し、大切にしまっておく場面には胸を締めつけられる。一方、その娘であるラヒリは、ベンガル語と英語を話しながらアメリカで育ち、「祖国も真の母国語も持たない」。そしてやがて、作家として住み慣れた英語という「大邸宅」を捨て、ローマに移住し、イタリア語の「仮小屋に住む」ことを決意する。本書は、そのイタリア語による大胆な言語的・精神的実験の記録である。不完全という自由のなかで紡ぐ一語一語に、真剣で誠実な思いが詰まっている。


▼Panorama パノラマ誌

『べつの言葉で』は秘密の情熱が綴られた日記である。多くのシンボリックなイメージを喚起するジュンパ・ラヒリのエレガントできわめて念入りな文体は、イタリア語との出会いによって、あらゆる不純物が取り除かれて丸裸となり、はかり知れない思考の深みが明らかにされている。


▼il Fatto Quotidiano イル・ファット・クォーティディアーノ紙

英語からイタリア語へ、というのは勇気ある決断で、このような決断には謙虚さを必要とする。だがジュンパ・ラヒリのすばらしさは、まさにその謙虚さにある。文学において到達点はなく、つねに初心者だと感じつづけることが重要なのだ。

著者プロフィール

ジュンパ・ラヒリ

Lahiri,Jhumpa

1967年、ロンドン生まれ。両親ともコルカタ出身のベンガル人。2歳で渡米。コロンビア大学、ボストン大学大学院を経て、1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞、同作収録の『停電の夜に』でピュリツァー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞ほか受賞。2003年、長篇小説『その名にちなんで』発表。2008年刊行の『見知らぬ場所』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2013年、長篇小説『低地』を発表。家族とともにローマに移住し、イタリア語での創作を開始。2015年、エッセイ『ベつの言葉で』、2018年、長篇小説『わたしのいるところ』を発表。2022年からコロンビア大学で教鞭を執る。

中嶋浩郎

ナカジマ・ヒロオ

1951年、松本生まれ。東京大学教育学部卒業。フィレンツェ大学留学。長年、フィレンツェ大学で講師を務め、2023年8月現在広島在住。著書に『フィレンツェ、職人通り』『図説メディチ家』、訳書にジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』『わたしのいるところ』、ミレーナ・アグス『祖母の手帖』、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』、ステファノ・ベンニ『聖女チェレステ団の悪童』など。

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