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すべての見えない光

アンソニー・ドーア/著 、藤井光/訳

2,970円(税込)

発売日:2016/08/26

  • 書籍

ラジオから聞こえる懐かしい声が、若いドイツ兵と盲目の少女の心をつなぐ。ピュリツァー賞受賞作。

孤児院で幼い日を過ごし、ナチスドイツの技術兵となった少年。パリの博物館に勤める父のもとで育った、目の見えない少女。戦時下のフランス、サン・マロでの、二人の短い邂逅。そして彼らの運命を動かす伝説のダイヤモンド――。時代に翻弄される人々の苦闘を、彼らを包む自然の荘厳さとともに、温かな筆致で繊細に描く感動巨篇。

書誌情報

読み仮名 スベテノミエナイヒカリ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 528ページ
ISBN 978-4-10-590129-5
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品
定価 2,970円

インタビュー/対談/エッセイ

驚異と奇跡をめぐる歴史小説

アンソニー・ドーア

2002年に『シェル・コレクター』で衝撃的なデビューを飾り、
短篇を中心に着実に評価を確立してきたアンソニー・ドーア。
このほどピュリツァー賞を受賞した『すべての見えない光』は、
第二次世界大戦中のフランス、サン・マロを舞台とした感動的な大作。
創作の過程と、作品に込められた思いを、たっぷりと語るインタビュー。

聞き手
ジル・オーウェンズ
interview by Jill Owens
翻訳・藤井光
translated by Fujii Hikaru


 アンソニー・ドーアの新作長篇『すべての見えない光』では、二人の物語が並行して語られる。一人は、ドイツ占領下のフランスで暮らす十六歳の目の見えない少女、マリー=ロール。もう一人は、孤児院で育った十八歳のドイツ兵、ヴェルナーである。そして、呪われた宝石〈炎の海〉、マリー=ロールの父が娘のために作るパリとサン・マロの町の模型、貝に覆われた秘密の小洞窟など、魔術的ともいうべき豊かな描写が物語を彩っている。

 僕らが忘れている奇跡

――この小説が生まれたきっかけを教えてください。
 ある日ニューヨークで地下鉄に乗っていたら、携帯電話を使っている男性がいて、通話が切れてしまった。彼は怒り出して、拳で荒っぽく電話を叩きました。それを見て僕は、遠く離れた誰かと話ができるなんて奇跡だということを、僕らはすっかり忘れてしまっている、とノートに書きこみました。そして、ラジオの不思議さを読者に思い出してもらうためにはどうすればいいだろうかと考えた。自分の家にいながら、そこにはいない人の声を聞くことができるなんて、一九二〇年代や三〇年代には本当に奇跡でした。そのことを描こうとしたんです。そしてこの物語は、ラジオが最強のテクノロジーで、ちょうど僕らにとってのインターネットのようなものだった時代のものになるはずだと感じました。

 サン・マロとの出会い

――その後どのような経緯で、第二次世界大戦が舞台となり、少年と少女が戦争の敵味方に分かれたのでしょうか。
 初めのころ頭にあったのは、どこかに閉じこめられた少年と、彼に物語を読み聞かせる少女という断片的なイメージだけでした。どうして閉じ込められたのかも、どんな物語を読み聞かせているのかもわかっていなかった。闇のなかを手探りで進むようなものでした。そんな折に、文芸フェスティバルが開かれていたサン・マロに行ったんです。
 僕らは夜に町に着いて、夕食のあと外を散歩しました。初めて訪れるサン・マロの町は、塁壁に囲まれています。五月の夜のそよ風はすばらしかった。僕は塁壁の上にいて、周囲には花崗岩造りの古い邸宅の三階の窓が見えました。海は暗くて、船の照明がふたつついているだけでした。
 僕はすっかり魅了されました。イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』の都市にいるような気分だった。誰かが想像で作り上げた町のように思えたんです。そんな町を見たのは初めてでした。町全体が砦として築かれ、それでいてすばらしく美しい場所でもある。町の地下には国の認可を受けた海賊たちが邸宅を構えていて、堅固な地下室に略奪品を収めていたそうです。

  遠く離れた誰かと
  話ができるなんて
  奇跡だということを、
  僕らはすっかり
  忘れてしまっている


 編集者に「すごく古くからある、見事な町なんですね」と言うと、彼は「じつは、この町は一九四四年にあなたの国に壊されたんですよ」と答えました。町の八八パーセントが破壊され、ほとんど一から再建しなければならなかったそうです。僕は「それはすみませんでした」と返すほかありませんでした。
 まず町が消し去られ、苦労の末に再建され、そして僕のような間抜けな旅行者が気がつかないほどになった。そう考えていると、これは閉じこめられていたあの少年にぴったりの設定だと閃いたんです。一九四四年のアメリカによる爆撃のとき、その少年が難攻不落の地下室にいて、大きな花崗岩の壁や頭上の梁があれば、押し潰されずに閉じこめられるんじゃないか。そこに彼がいることになったいきさつや、マリー=ロールの身の上が決まったのは、もう一年が経ったころでした。

――〈炎の海〉という宝石には、実在のモデルがあるんですか。
 イエスでありノーですね。よく似たものはロンドン自然史博物館にあって、呪われていると長いあいだ信じられていたサファイアです。でも基本的には、〈炎の海〉はいろいろな本で読んだ話から生まれてきたものです。
 調べてみると、侵攻がはじまったとき、ルーヴル美術館はほとんど警戒していなかったようです。侵攻されるはずがないと高をくくっていた。パリからすべてを運び出す時間は数週間しかありませんでした。レンブラントや〈モナ・リザ〉は布をかぶせられて、首都の外に避難しました。レンブラントの絵がルーヴルの廊下で箱に入れられようとしている写真も残っています。
 次に、パリの自然史博物館のことを考えました。そこにはどんな宝物があったのか。本当に計り知れないほど貴重な鉱物が収蔵されていました。真珠、化石、隕石。運び出せる重さであれば、どうにかして運び出そうと博物館は手を尽くしました。僕はそうした状況について想像をめぐらせたんです。
 そんなわけで、僕が知る限り、パリの自然史博物館には呪われたダイヤモンドはありません。すべて架空のものです。
 目の見えない少女を主人公にすることは決めていましたから、次はこう考えました。「人々の目を奪い、でも視力を失った人にはその力が及ばないようなものは何か?」そこで、宝石だと思ったわけです。
 ただ、僕は読者に、宝石についてのドラマチックな疑問を持たせるだけで終わりたくはありませんでした。その答えが出てしまえば、読者の興味はそこで終わってしまう。僕はふたりの子どもたちの個性をしっかりと描き出して「このダイヤモンドは呪われているのか」とか「宝石は本当にあるのか」という以上の興味を読者に持ってもらいたかったんです。



 手触りで美しさを知る

――短篇集『シェル・コレクター』の表題作「貝を集める人」の主人公も、マリー=ロールと同じように目が見えない人物です。語り手の目が見えないということにはどんな意味があるのでしょうか。
 その質問はよくされますが、答えはないんです。気がついたらそうなっていました。もともと、マリー=ロールの章の一部は、僕自身の作家としての弱点を克服しようとする練習から生まれたものです。僕は視覚的な描写にかなり頼ってしまうので、他の感覚を中心にした文章を書いて、それをリアルなものとして読んでもらえるか試していました。
 それから、マリー=ロールが非常に危険な状況に身を置いていることも理由だったかもしれません。包囲戦のとき、彼女のそばには数日間にわたって誰もいないわけです。それ以上に危うい状況があるでしょうか? それでも、自分の心の奥になんらかの強さを見出して、参ってしまわずにいられるでしょうか? 僕にそれができるかどうかはわかりません。マリー=ロールは間違いなく、僕よりも強く、勇敢です。あの屋根裏部屋の周りには砲弾シェル が降り注いでいるのに、彼女は正気を保つ方法を見つけ出したのですから。
「シェル」つながりでいえば、彼女には貝殻に興味を持ってもらいたいということは、はじめから思っていました。僕はずっと、軟体動物の外見の美しさと手触りに惹かれてきました。子どものころは、いつも貝を集めていました。それが「貝を集める人」とマリー=ロールの両方に吹きこまれています。なぜ自然は、それほどまでの美を目指すのか? 僕にとって、その問いは貝殻に凝縮されています。目が見えないため、指で貝殻の種類を区別して美しさを知るという設定と、うまく噛み合ってくれていればと思います。
 僕は昔から、大学の学問で科学と芸術を分けてしまうことに疑問を感じていました。今までに書いた五冊の本はどれも、そのふたつを結びつける方法を模索するものです。マリー=ロールだけでなく、ヴェルナーを描くときも、僕は世界のこんなところに魅了されているんだよ、と言おうとしています。物語を通じて、他の人たちにもそれと同じ思いを持ってもらえたらと思っています。

 驚異の念を源として書く

――たしかに、あなたの作品ではよく、リアリズムや科学が、神話や想像力と混ざりあっていますね。
 僕にとってはすべてが面白いんです。本当に運が良くても七十年か八十年くらいの人生のあいだに、僕らの目を奪うようなものは世界にひしめいています。ケーブルカーの構造、ビザンチウムの歴史、カルヴァンやホッブスの思想、あるいは、一日もしないうちに死んでしまう蚊の一生のこと。そういったものはすべて存在するし、僕としてはそのすべてを学ぶ時間がほしいんです。
 何かに心奪われて夢中になると、僕はたいてい、それを登場人物に投影して、その思いを分かち合おうとします。世界に対するその熱意が、ささやかではあれ、読者にも伝わるように願っています。

  偉大な物理法則を
  もってしても、
  どの人間が生きるべきか
  死ぬべきかを
  決めることはできません。


 僕は現実に対して醒めた小説には興味がありません。マーク・トウェインやジョージ・ソーンダーズのように、風刺的な作家でありながら、創作においては魂が汚れることのない、すばらしい作家は確かにいます。僕はもっと敬虔なタイプの書き手なんでしょうね。醒めきった気分になっているときは、魂をこめて書くことができないので、自分の作品に関しては驚異の念を源にするようにしています。

――ヴェルナーのノートがすばらしいですね。子どものときに答えを求めていた疑問の数々、たとえば「雷が海に落ちても魚がみんな死なないのはなぜか」といったことが書かれています。あなたもノートを持っていましたか?
 僕は疑問集のノートは持っていませんが、小さなメモ帳をいつも持ち歩いています。八歳のときに初めて書いた本は、軟体動物についてでした。表紙にはエゾバイのスケッチを描きました。
 これだけ情報が手に入りやすい時代になっても、まだ謎はたくさんあるはずです。インターネットは不正確な情報だらけです。それは、僕らの知識には空白があるという証拠です。最良の科学者は、僕らの未知という闇の大きさは、知っていることを遥かに凌駕していると認めているものです。だからこそ、科学はすばらしいんです。これまでに得られた知識のすべてを問いつつ、人類の知識の及ぶ範囲を少しずつ広げていくのですから。

――エントロピー、秩序と無秩序といった概念が、小説の中でたびたび登場しますね。
 僕が試みたのは、ヴェルナーの学校が「我々は人類の進化を秩序化している。劣ったもの、手に負えないもの、くずをふるいにかけて捨てている」という主張を叩き込もうとしているのだと絶えず気づかせることです。人種差別や優生学は確かに存在していました。進化の方向を決められるなんて、思い上がった考えです。自然に秩序を押し付けようとしても空回りするだけ、自然とは無秩序なものなのだ、僕はそう示そうとしたのだと思います。偉大な物理法則をもってしても、どの人間が生きるべきか死ぬべきかを決めることはできません。ホロコーストは、その恐ろしい秩序を押し付けようとする試みだったと思います。

――この作品は、ごく短い、数多くの章から成っていますね。章から章へ、二人の主人公の間、過去と現在の間を行き来するのは、どんな作業でしたか。
 巨大なパズルに取り組むようなもので、楽しいと同時に、とてつもない忍耐が必要でした。大きな模型の家を作っているような気分でしたね。百八十七の章があって、視点や時代が次々に変わるわけですから。
 ときどき、マリー=ロールとヴェルナーのあいだのバランスに気を使いすぎていると不安になったり、どちらかの人生のほうがいろいろな出来事に溢れているような気がしたりしました。結局は、A-B-A-B、過去-現在というリズムを破ってもいいだろうと判断しました。僕はノートカードで章を色別に分けて、読者がどの視点で読むのかがわかるようにして、しょっちゅう順番を変えていました。
 それに加えて、一九四四年と、そこにいたるまでの歳月のあいだでの行き来があります。僕なりに読者を導いていこうと手を尽くしましたが、同時に、どの時代と場所が描かれているのかは読者がわかってくれるだろうと信頼する必要もありました。
 短い章には、物語を中断するという効果もあります。Aの物語をいったん止めて、Bの物語に移っても、Aは読者の頭のなかでまだ生きています。ディケンズから『ゲーム・オブ・スローンズ』まで、大長篇はそうやって緊張感を作り上げていくんです。

――章が長いよりも短いほうが、詩的な文章や言語による実験をうまく取りこめそうですよね。すきまがたくさんあると消化しやすくなる。
 それはよかった! 確かに分厚いですが、空白も多いから読者には親切な本だと思います。次々にページをめくっていけるはずです。
 僕の文章は濃密になりがちです。細部を積み重ねていくのが大好きなんです。読者には、登場人物の感情に入りこんでもらうよりも、その人物の周囲にあるものを描写することで、内面を直感的にわかってもらいたいんです。それはなかなか厳しい要求だという自覚はありますから、章を短くするのは僕なりの親切心みたいなものです。読者にこう言っているような感じです。「気持ちはわかるよ、多くの読者にはちょっと叙情的すぎる文章だけど、空白がいっぱいあるから、そこで立ち直れるでしょう」ってね。

First published on Powells.com, April 23, 2014
http://www.powells.com/

Anthony Doerr
1973年、オハイオ州クリーヴランド生まれ。2002年に短篇集『シェル・コレクター』でデビュー。O・ヘンリー賞、バーンズ&ノーブル・ディスカバー賞、ローマ賞等、数々の賞を受賞。2010年刊行の二冊目の短篇集『メモリー・ウォール』はストーリー賞を受賞した。現在、妻と二人の息子とともにアイダホ州ボイシに在住。『シェル・コレクター』および『メモリー・ウォール』は、岩本正恵訳で新潮クレスト・ブックスより刊行されている。


波 2016年9月号より

短評

▼Ikezawa Natsuki 池澤夏樹

人生には自分で選べないものがたくさんある。たとえば、この小説の主人公であるマリー=ロールというフランスの少女は目が見えない。ヴェルナーというドイツの少年は大戦に巻き込まれる。悲惨とぎりぎりの彼らの運命をその時々に救うのは、貝殻や桃の缶詰、無線で行き交う声と音、いわばモノだ。それに少数の善意の人たち。遠く離れた少年と少女は少しずつ近づき、一瞬の邂逅の後、また別れる。波欄と詩情を二つながら兼ねそなえた名作だとぼくは思う。


▼Jess Walter ジェス・ウォルター[作家]

眩暈のするような叙事詩的な作品だ。ドーアは神話的なるものも親密なるものも美しく描き出す。浜辺の巻き貝、進軍する軍隊、運命、愛、歴史。そしてそれらすべてがぶつかり合う時の、息を呑むような、耐えがたい瞬間のことも。


▼The Washington Post ワシントン・ポスト紙
今年、この小説にまさるものを読むことはないかも知れない。魅惑的な語り、美しい描写、打ち寄せる感情、いくつかの場面では涙を禁じ得ない。
▼The New York Times ニューヨーク・タイムズ紙

アンソニー・ドーアの忘れがたく美しい新作は、可能な限り優美に大回りして語られる、ボーイ・ミーツ・ガールの物語だ。


▼USA Today USAトゥデイ紙
これほどまでにやさしく、しかし決然と、登場人物たちへの深い理解と共感をもたらしてくれる書き手はなかなかいない。繊細に紡ぎ出されたこの物語の中の、どの人物も鮮明で真実味がある。最後のページを閉じたあともずっと、彼らのことが忘れられない。


▼Abraham Verghese エイブラハム・バルギーズ[作家]

物語の宝石とも呼ぶべきこの作品は、精巧なアンティーク時計のようだ。ドーアの生み出す文章とイメージの美しさには胸を打たれる。こんなふうに小説に魅了されるのは久しぶりのことだ。

訳者あとがき

 本書『すべての見えない光』は、アンソニー・ドーアが二〇一四年に発表した長篇小説All the Light We Cannot Seeの全訳である。言うまでもなく、ドーアは短篇作家としてデビューし、それまでに発表した二冊の短篇集『シェル・コレクター』(原書は二〇〇二年刊行)および『メモリー・ウォール』(二〇一〇年)で、その評価をほぼ揺るぎないものとしていた。そうして短篇を次々に書いていきながらも、十年にわたって書き継いできた長篇が、ついに刊行されたことになる。第二次世界大戦を題材とした本書は、ドーアのこれまでの作品を遥かに上回る反響を呼び、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストに二年以上にわたってランクインしている(二〇一六年七月現在)だけでなく、二〇一五年のピュリツァー賞を受賞し、同年には合衆国大統領バラク・オバマの読書リストにも入るなど、あらゆる方面からの注目と賞賛を浴びている。
 本書の設定だけを取り出せば、いささか奇妙な現象ではある。ドーアはベストセラー作家ではなかった上に、『すべての見えない光』の主な舞台となるのは、アメリカではなく、フランスの北岸にあるサン・マロという町である。さらに言えば、小説にはアメリカ人の登場人物はひとりも出てこない。『メモリー・ウォール』の最後に収められた「来世」には、『すべての見えない光』とも共通する設定や描写があるが、「来世」の物語の半分は第二次世界大戦中のドイツ、もう半分は現代のアメリカ合衆国オハイオ州で展開する。『すべての見えない光』は、さらにアメリカから遠く離れて展開するにもかかわらず、アメリカの読者にここまで広く読まれることになった。
 とはいえ、実際に本書を手にとってみれば、そうした疑問はたちどころに氷解する。戦争を背景とした物語のスケールは、長篇の醍醐味を存分に味わわせてくれるし、主人公のふたりをめぐるサスペンスに満ちた展開は、一度読み出したら止めることができないほど緻密な構成を持っている。さらに、そうした物語の骨組みの血肉となるのが、デビュー以来変わらないドーア作品の特徴である、自然と人間との関係という主題、文章に溢れるみずみずしい詩情と、国籍を問わず登場人物への共感に満ちたまなざしである。ときに壮大で、ときに繊細な感覚が詰まったこの小説は、圧倒的な読後感を残す作品として姿を現わしたのだ。

『すべての見えない光』は、ドーアにとっては二作目の長篇小説にあたる。長篇第一作は、二〇〇四年に発表したAbout Graceで、アラスカに住むデイヴィッド・ウィンクラーという男性を主人公としている。未来を幻視できるウィンクラーが、自分と娘の運命を見てしまったがゆえに、そこから逃れようと世界を旅するようすが、詩的な文章によって語られていく。人間と自然の世界の交錯という主題や、アラスカからカリブ海まで世界各地にまたがる設定、登場人物の心情の細やかな描写など、隅々までドーアらしい小説となっている。人は運命を変えられるのか、という第一作を貫く主題は、『すべての見えない光』にも引き継がれることになる。
 そのデビュー長篇の表紙デザインを確認するため、ドーアは二〇〇四年にニューヨークを訪れた。電車がトンネルに入ったところで、携帯電話の電波が届かなくなったことに腹を立てている乗客を目にして、遠く離れた人と通話ができることの不思議さを語るべきではないかという思いが芽生えた、とドーアは語っている。
 それからしばらくして、About Graceのフランス語版刊行にあわせて企画されたツアーで、ドーアは文芸祭が行われていたサン・マロの町を訪れた。当時の彼の脳裏には、生き埋めになってしまった少年と、その少年に本を読み聞かせる少女、という物語の断片的なイメージがあったという。サン・マロの城壁を夜に散策し、市街と海の織りなす幻想的な風景に魅了されたドーアは、同行していたフランス人から、町が第二次世界大戦中にアメリカ軍の爆撃でほぼ完全に破壊されていたことを知る。その瞬間、サン・マロの町が新しい小説の舞台になる、と彼は直感した。
 そこから、物語の枝が四方に伸びるようにして、『すべての見えない光』は、第二次世界大戦を背景とした歴史小説となっていった。パリで父親と暮らしていた、視力を失った少女マリー=ロールと、ドイツの炭坑町ツォルフェアアインの孤児院で妹と日々を過ごす、ドイツ人少年ヴェルナー・ペニヒの人生の軌跡が、戦争によってサン・マロで交錯する物語として。
 その物語は、ふたつの人生の間を行き来するようにして進行する。一九四四年八月、ドイツ軍の占領下にあるサン・マロを襲うアメリカ軍の爆撃で幕を開けたあと、物語は十年前にさかのぼり、戦争前のパリで暮らすマリー=ロールと、ツォルフェアアインで暮らすヴェルナー、ふたりの人生を交互に描いていく。マリー=ロールは、目が見えなくなったあと、自然史博物館で働く父親について毎日博物館に通う。点字を学び、自分の周囲と、それを越える世界について知るようになっていく。一方のヴェルナーは、父親の命を奪った炭坑で働く運命にどうにか抗おうと思ううちに、ある日、壊れたラジオを拾う。そこから、彼にとって世界は、また異なる姿を見せるようになる。このふたつの物語の行き先を、やがて、しだいに濃くなっていく戦争の気配が変えていく。
 そして、ドーアの作品に欠かすことのできない、人間に対する細やかなまなざしは、『すべての見えない光』のひとつひとつのエピソードを忘れがたいものとしている。マリー=ロールとヴェルナーの心の脆さ、強さ、迷い、成長、そして決断を、ドーアの繊細な筆致はていねいに刻みこんでいく。
 なおかつ、ヴェルナーの妹ユッタや彼の同級生フレデリック、あるいはマリー=ロールがサン・マロで出会う大叔父のエティエンヌと住みこみの家政婦マネック夫人、〈炎の海〉を探し求めるドイツ人下士官フォン・ルンペルなど、どの登場人物も紋切り型に陥ることなく描かれており、それが、物語を幾重にも豊かなものとしている。みずからを「ヒューマニスト」と形容し、世界に存在するさまざまな驚異を作品で伝えたいと語るドーアの姿勢は、細部にいたるまで感じ取ることができるはずだ。
 そのドラマの中心にあるのは、〈炎の海〉と呼ばれる、伝説のダイヤモンドである。百三十三カラットのブルーダイヤモンドであり、中心に炎のような赤い色が差している〈炎の海〉は、ドーアの創作による架空の宝石である。想像もつかないほどの価値をもつその宝石を、手を尽くして守ろうとする自然史博物館の努力は、やがて、マリー=ロールと父親の運命を大きく動かしていく。そして、第三帝国のために〈炎の海〉を手に入れるべく、ドイツの下士官が調査を開始する……。
 宝石が物語のなかで放つ輝きだけでなく、「光」は、本書のいたるところに顔を出す、もうひとつの主題である。目には見えない電波が飛び交う無線交信、目の見えない少女マリー=ロールにとっての色に満ちた日常などが、読者の想像力という、もうひとつの目には見えない世界と触れ合うとき、その豊かさは、驚くほどの奥行きを体感させてくれる。世界とはどのような場所かという感覚そのものを大きく揺さぶるような瞬間に満ちているからこそ、この小説は、第二次世界大戦を扱うほかの歴史小説とは異なる境地を切り開いたものとなっている。
 もうひとつ、この物語の魅力に、短いもので一ページ、長くても十ページほどの短い断章をちりばめる形で構成されているというスタイルがある。すでに、『メモリー・ウォール』の表題作や「一一三号村」で試していたその手法を、ここまでの大長篇で採用するにあたっては、並大抵の苦労ではなかったようだ。ひとつひとつの断章に納得いくまで磨きをかけつつ、総数百八十七にものぼるそれらのエピソード群を、どうやって物語全体に配置するのか、ドーアは試行錯誤を繰り返したという。物語に登場する、街のミニチュア模型を作製するのに似た作業だったと言えるかもしれない。こうして、小説の着想から十年を要し、『すべての見えない光』は完成の日を迎えた。原書で五百頁を超える分量でありながら、宝石のように磨き込まれた個々のエピソードの輝きと、物語としての完成度を誇りつつ、さまざまな形で読者の想像力が入りこむ余地をもつ小説に仕上がっている。

 翻訳の進行にあたっては、新潮社出版部の佐々木一彦さんに、スケジュールから訳文のチェックなど、すべての作業を的確にサポートしていただいた。どうもありがとうございました。本書の一部は、同志社大学英文学科でのゼミでも読む機会があった。授業を通じていろいろなことを教えてくれた学生のみなさんにも感謝したい。なお、翻訳に先立ってサン・マロの町を訪れたときには、友人であるベルティーユ・ドゥ・ボーディニエールとその家族が温かく迎えてくれた。
 アメリカで原書が刊行されたあと、作者ドーアから、主に時代背景や文化を踏まえた表現修正の連絡が届けられた。そのため、二〇一四年発表の英語版とは、固有名詞など細部で異なる点があることをおことわりしておく。なお、作中には、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』をはじめとする旅の物語がたびたび登場する。それらの引用については、以下の翻訳版を参考にさせていただいた。
 ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』(朝比奈弘治訳)岩波文庫、一九九七年。
 ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』(村松潔訳)新潮文庫、二〇一二年。
 チャールズ・ダーウィン『ビーグル号航海記』(荒俣宏訳)平凡社、二〇一三年。

 そしてもうひとつ、翻訳について個人的な思いを述べることを許していただきたい。アメリカで『すべての見えない光』が刊行され、その反響の大きさを耳にした日本の読者の多くは、ドーアのこれまでの二冊の短篇集と同じく、岩本正恵さんの翻訳でそれを読む日を心待ちにされていたのではないかと思う。僕自身もその思いでいたのだが、ある日、それはもう叶わなくなってしまった。そのお仕事を引き継ぐことになってから、僕は岩本訳によるドーア作品を何度も読み返し、そのたびに、こんなふうに翻訳ができたら、と憧れずにはいられなかった。それは、やさしさと力が宿る言葉とはどういうものかを改めて知る、豊かな時間でもあった。結果として、僕の力量の問題もあり、岩本さんの訳文と完全に同じものにはならなかったのだが、ドーアの世界の手ざわりが少しでも読者に伝わったとすれば、それは先行する二冊のドーア作品との対話のおかげである。この先もずっと、僕はその対話を続けていくだろう。
 最後に、僕の家族に最大の感謝を。ときどき僕の原稿をのぞきこんでは、ヴェルナーとマリー=ロールの運命を気にかけていた娘と、翻訳のための下調べから完成稿まで、すべての時間をともにいてくれた妻に、本書の翻訳を捧げたい。

二〇一六年七月 京都にて
藤井 光

著者プロフィール

1973年、オハイオ州クリーヴランド生まれ。デビュー短篇集『シェル・コレクター』(2002)で一躍脚光を浴び、O・ヘンリー賞、バーンズ&ノーブル・ディスカバー賞、ローマ賞、ニューヨーク公共図書館ヤング・ライオン賞など、多数の賞を受ける。二冊目の短篇集『メモリー・ウォール』はストーリー賞を受賞し、米主要三紙が年間ベスト作品に挙げた。『すべての見えない光』は2015年度のピュリツァー賞を受賞し、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに100週以上にわたってランクインしている。2016年8月現在、妻と二人の息子とともにアイダホ州ボイシに在住。

藤井光

フジイ・ヒカル

1980年大阪生れ。同志社大学教授。訳書にテア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、セス・フリード『大いなる不満』、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』、レベッカ・マカーイ『戦時の音楽』等。2017年、アンソニー・ドーア『すべての見えない光』で日本翻訳大賞を受賞。著書に『ターミナルから荒れ地へ』『21世紀×アメリカ小説×翻訳演習』等がある。

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