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遊廓に泊まる

関根虎洸/著

1,760円(税込)

発売日:2018/07/31

  • 書籍
  • 電子書籍あり

女性一人でも気軽に泊まれます。

売春防止法施行から60年。地図上から「遊廓」は消えても、転業旅館や飲食店として今なおその姿を留める元妓楼があった! そんな希少な現役営業中の「泊まれる遊廓」を渾身取材。独特の意匠を誇る廓建築の内外観を隅々まで撮影し、往時を知る人々の証言を収載。奇跡のように残された20の「夢の跡」へ、ディープにご案内する。

目次
はじめに
新むつ旅館 青森県八戸市
中村旅館 青森県黒石市
高山旅館 青森県八戸市
松山旅館 山形県酒田市
錦旅館 秋田県由利本荘市
金沢屋旅館 新潟県佐渡市
旅館福田 新潟県新潟市
陽月 石川県金沢市
宿や平岩 京都市下京区
多津美旅館 京都府八幡市
静観荘 奈良県奈良市
麻吉旅館 三重県伊勢市
一楽旅館 広島県広島市
芳和荘 山口県萩市
番外
1 八大胡同はいま 中国・北京
2 幻の旧満州・遊廓跡を行く 中国・大連
3 焼肉「江畑」 京都市上京区
4 国指定登録有形文化財 飛田新地「鯛よし百番」全室完全撮影 大阪市西成区
5 生駒山宝山寺の精進落とし 奈良県生駒市
東陽町の転業アパート 洲崎パラダイスの夢の跡
インタビュー 遊廓に生まれて
解説 奇跡のように残された結晶 文=渡辺豪
旅館データ

書誌情報

読み仮名 ユウカクニトマル
シリーズ名 とんぼの本
装幀 関根虎洸/撮影、中村香織/ブックデザイン、nakaban/シンボルマーク
発行形態 書籍、電子書籍
判型 B5判変型
頁数 128ページ
ISBN 978-4-10-602284-5
C-CODE 0326
ジャンル 国内旅行
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,760円
電子書籍 配信開始日 2018/07/31

インタビュー/対談/エッセイ

遊廓観光―ダークツーリズムのすすめ

関根虎洸中山智喜渡辺豪

日本地図から「遊廓」が消滅して60年。しかし、今なお現役の“泊まれる遊廓”がある?! 著者でカメラマンの関根虎洸さん、ともに取材を重ねてきた「実話ナックルズ」元編集長の中山智喜さん、遊廓専門の「カストリ出版」代表で遊廓家の渡辺豪さんという、今日本で最も遊廓に詳しい3人が揃って“夢の跡”へと案内する。本には載っていない、ここだけの秘密のエピソードも飛び出して……。

「精進落とし」にショック!

中山 本日は私が司会を務めさせていただきます。まず、書名を見て驚いた方もいるかと思います。遊廓って泊まれるの? そもそももう遊廓はないのでは? 関根さん、遊廓って泊まれるんですか?
関根 泊まれるんです。厳密に言うと元遊廓の「転業旅館」のことで、この本では、遊廓時代の建築の独特の意匠や風情を楽しめて、意外に料金もリーズナブルな14の宿を紹介しました。
中山 このイベントでは「遊廓観光」と名付けたとおり、それぞれの旅館やその町の魅力などを話していただければと思います。今、転業旅館という言葉が出ましたが、渡辺さん、最初に遊廓の歴史的なことを教えていただけますか?
渡辺 ざっと駆け足でお話しますと――いわゆる売春業は古代から自然発生しているので、起源がいつなのかは不明ですが、制度としての「遊廓」は、明治33年発布の法令「娼妓取締規則」からになります。遊廓とは、字のとおり、郭(くるわ)に囲みを作って、一か所に囲い込んだ場所。江戸時代にはたとえば港町や宿場町に飯盛り旅籠のようなものができて、いろいろなかたちのものが散在、混在していたわけですが、この法令で分離統合され、囲い込まれた遊廓として発展した。
中山 吉原みたいな、周りに塀の囲いがあって、というイメージですね。
渡辺 そうですね。それから時代が下って昭和33年、売春防止法が施行されて公娼制度がなくなり、元遊廓の経営者たちはいろんな職種に鞍替えします。部屋数が多かったというのが一番の理由かと思われますが、最多が旅館業でした。それが「転業旅館」です。それから60年経って、もうほとんどなくなってきたのが今、ということです。
中山 関根さんがそうした転業旅館を取材するようになったきっかけは?
関根 2014年に旧満州の大連へ行ったとき、日本統治時代につくられた2か所の遊廓跡も訪ねたんです。一つは、今では繁華街の小崗子に残る遊廓跡。高層ビルがどんどん建設される中で、このエリアだけは取り残されたように昔の煉瓦造りの建物が並んでいる。当時は中国人向けの遊廓で、今は地方からの出稼ぎ労働者が泊まっているような宿になっていました。もう一つは、中心部から少し離れた場所にある逢坂町遊廓跡。こちらは日本人が働き、日本人が行く遊廓だったそうです。最盛期には約70軒の遊廓に900人ほどのいわゆる「からゆきさん」が働いていた。僕はこの時からからゆきさんについて調べ始めたのですが、ある意味、かなりショックだったんです。植民地に遊廓まで作ってしまう、ということにすごく驚いた。
 昭和5年に刊行された『全国遊廓案内』にこの2つの遊廓が載っていて、僕は国会図書館でコピーをとって大連に持参したのですが、ちょうどそのころ渡辺さんがカストリ出版を立ち上げて、この古い本を復刻された。帰国してそれを知って、買おうと思ったら売り切れていて。いつ入りますか? と連絡を入れたのが渡辺さんとの出会いで、それからいろいろ教えていただくようになったんです。
渡辺 最初連絡いただいた時は、すごいハードコアな人だな、と思いました。
関根 転業旅館の取材を始めたきっかけは、もう一つあるんです。それは伊勢で知ったある言葉なんですが……。伊勢神宮の外宮と内宮をつなぐ参宮街道にかつて古市遊廓がありました。ここに唯一残る現役の宿、麻吉旅館は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てくる築200年以上の建物。坂道に沿って建つ懸崖造りという木造5階建てで、最上階の大広間では多くの芸妓が伊勢音頭を踊って客たちをもてなしたそうです。眺めも良いですし、地元の食材を使ったお料理も絶品ですよ。さて、江戸時代にはお伊勢参りが大流行して、全国から多くの人が歩いて伊勢へとやってきたのですが、お参りをした後に、男衆は遊廓で遊ぶんです。そしてそれを「精進落とし」と呼んだという。そのなんとも都合のいい言い方に、ぐっと刺さってしまいました。
中山 精進落としって、普通はお弔いの後にする、あれですよね。
関根 はい。伊勢に遊廓があったというのも僕には驚きだったのですが、この言葉がすごく印象に残ってしまって。ちなみに、遊女側も、参拝を済ませていない男はお断りしたらしいです。ほんとに精進落としだと大義を作ったわけですね。
 それからもう一つ。旧東海道の赤坂宿に大橋屋という創業360年の旅籠がありまして、残念なことに3年前に宿をやめて今は泊まれませんが、ここは「飯盛り旅籠」、つまり「飯盛り女」のいる旅籠だったと聞きました。そんな言葉、初めて聞いたし、強烈で驚きました。
中山 飯盛り女とは、いわゆるそういうサービスもする女性ってことですか?
関根 そうですね。ごはんを用意するだけでなくて、夜のお世話もする女性という意味です。広重の『東海道五十三次』にも大橋屋の飯盛り女が描かれていますし、近くの二川宿にある資料館では人形で当時の様子を再現しています。そんなショッキングな言葉もきっかけとなって、調べていくうちに、転業旅館がまだ全国に残っているらしいとわかってきて、中山さんと一緒に取材を始めたわけです。

関根虎洸
関根虎洸
今ならぎりぎり間に合う

関根 今日は一つ、取材はできたのに、事情があって本には収録できなかった宿、長岡市の今重旅館を紹介します。住宅街の中にポツンと建っているような、外観はそう変わった感じではない宿なのですが、よく見ると凝った造りをしているのがわかります。どの宿にも共通することが多いのですが、ここにも急な階段があって、部屋もとても小綺麗にしている。昨年いっぱいでご主人が引退して旅館をやめてしまわれたので掲載はやめてほしいとご連絡をいただき、残念だけど掲載を見合わせました。
中山 ほんとに残念でした。
関根 ちょうど昨日(8月2日)から始まった長岡の花火大会は、全国三大花火大会の一つと言われますが、もともとは遊廓業者がお金を出し合って始めたそうなんです。このことをぜひ多くの人に知ってほしいと思いまして、本文にも書いていたのですが……。
中山 ご主人が高齢という意味では、今重旅館に限らず、この本に載っている宿は、いつ営業を終えてもおかしくない、ということでしょうか。
関根 そうですね。僕たちが取材している3年の間に廃業してしまった宿もありましたし。今後10年20年単位で続くとは、ちょっと考えにくいところが多いかな。
中山 旅館は維持管理も大変だと思います。それなのに、どこの旅館も共通して料金がほんとに安いです。一泊3000円というのもありました。
関根 ある旅館なんか、「いくらですか?」と訊いたら、「いくらがいいですか?」って訊き返されました(笑)。
渡辺豪
渡辺豪
渡辺 これから長く存続していくのは難しいと思います。後継者不足と言えばそれまでですが、遊廓の設置経緯と関係している部分が大きいかと。やっぱり遊廓は、町の中心地からはちょっと離れた場所に設置されていたわけですから。
中山 いわゆる観光には不向きな場所にある?
渡辺 はい。繁華街からは隔離されているように離れているんですね。ですので、今インバウンドとかで外国人客が増えているとはいっても、足の便は悪いですし、そうした部分が逆風になっているのかな、と思うんです。ゆえに少なくなってきているわけですが、逆に、中心部から離れているからこそ、再開発の波にのまれずに、こうして60年もぎりぎり残ってきたとも言える。今こそ行くべき場所になっているんだと思います。
中山 たしかに。広島の一楽旅館は繁華街にありましたが、そのほかは町から外れたところにありました。逆に、景色がいい、川や港が近くにある、朝ごはんを市場で食べられるなど、楽しいポイントもありました。

遊廓とグルメの親密な関係

関根 そういう楽しみで言えば、おいしいものは大切ですね。男性が遊廓に行く前に精をつけるという意味で、遊廓とグルメは密接な関係にあります。本でも番外で紹介した京都の五番町遊廓跡の妓楼を改装した江畑は、ひじょうにおいしい焼肉屋さんです。五番町は水上勉の『五番町夕霧楼』の舞台にもなったところで、このお店のほかに、すっぽん屋など精のつく食事処が今も残っています。
 この焼肉屋さんのご主人から、じつはうちには遊廓時代の地下牢がある、と伺いました。僕はもう、その「地下牢」という響きに痺れてしまいまして、ぜひ拝見したいとお願いしたところ、「いいよ!」ってことで、従業員の方に案内していただいた。しかも地下牢の壁には閉じ込められた遊女の殴り書きがある、と聞いて、これはいよいよ面白くなってきたぞ、と期待に胸を膨らませながら地下への階段を下りました。さて薄暗い中、壁をよく見ると、たしかになにやら文字が浮かび上っている。その場では夢中で写真を撮りました。それで帰宅してから大きく伸ばしてみたら……なんか「仕上ゲ」とか「セメント」とかの言葉があって、どうも建築業者が書いたものかな~と。でも、お店の方も遊女が書いた、と信じていらっしゃるので、なんだか言い出しにくくなっちゃって。建築業者が書いたものかもしれない、という曖昧なニュアンスで本に書きました。
中山 破れた壁紙から覗くように見える文字で、さもそのように見えるんです。
関根 ある種のドキドキするような恐怖感がありましたよね、階段を下りながら。
中山 今は遊廓に関して、インターネット等でたくさんの情報が出ている時代ですが、この件については、一切出ていませんからね。

中山智喜
中山智喜

洲崎パラダイス最後の物件

中山 ここでもうひとつ、異色の物件のお話をしましょうか。
関根 都内の洲崎遊廓跡、戦後は洲崎パラダイスと呼ばれた場所にあった転業アパートです。売春防止法施行後、遊廓は旅館のほか、料亭やアパートの経営にも分かれていった。こちらは取り壊す直前のタイミングで撮影する機会をいただきました。銭湯のような木札の鍵の下駄箱は、赤線時代のものをアパートでも使っていたそうです。
中山 一つだけ鍵のない下駄箱があって、こわごわ開けてみたら……空でした。なにか入っていたらいいなと思ったのですが、残念。踊り場のある磨きこまれた階段とか、竹の連子窓や部屋の天井の独特の意匠とか、オーナーさん曰く、赤線当時のママとおっしゃってましたね。
関根 家賃はだいたい3万から4万で、共同の手洗い場やお風呂がありました。
中山 撮影は昨年2月でしたが、これが事実上最後の姿ですね。外観がなんてことない感じなので、あまり知られずに残っていたのかもしれませんが、オーナーさんに確認したところ、このアパートが洲崎パラダイスに残る昔の建物の最後の1軒だったようです。
関根 全国的に遊廓からアパートに転業したというのは、少ないのでしょうか?
渡辺 よくはわかりませんが、一番多かったのは旅館業で、四分の一が旅館に転業したそうです。1部屋ずつ貸して家賃が入ってくるアパート経営は収入が安定しますが、稼働率を高めて1部屋にどんどん人を泊める旅館の方が利益率が高かった、ということなのだと思います。
中山 京都の橋本遊廓で伺ったのですが、旅館業はなかなか許可が下りなかったとか。設備の問題などで、望んだとしても全部が全部、旅館にできたわけではなかった。そんな場合、アパートとして企業の社員寮にしたという話を聞きました。
関根 それから温泉掘って温泉旅館にしようとしたけれども、冷泉しか出なかった話も。生き残りのために、みなさんなかなか苦労されたようですね。
渡辺 旅館にすると、そのまままたそこで売春業を行なってしまうのではないか、という当局側の警戒もあったでしょう。東京の吉原ではボーリングして温泉を掘り当てたようですが、ほかでも温泉旅館街を目指したところが多かったようですね。どこかモデルケースのようなところがあって、みんなそれを真似しようとしたのかもしれません。
中山 この取材では、温泉のある転業旅館って、残念ながら、ありませんでした。
関根 温泉はなかったですが、わりとどの宿からも近いところに、時代がかった銭湯がありましたね。

絶対おすすめの転業旅館、ベスト3

中山 それでは具体的に、とくにおすすめの旅館を3つ、ご紹介しましょう。まずは八戸市の新むつ旅館。本のカバー写真にもなっているところです。ここは、まあ、とんでもない旅館。
関根 初めて行く方にも絶対おすすめの1軒。そこは3人、意見が一致してます。
渡辺 じつは私が泊まったのは一回だけで、その時3部屋あって、2部屋が豪華な感じだったのですが、その2つが埋まっていて、私は布団部屋みたいのに押しこめられてあまり満喫できなかった(笑)。また行きたい。リベンジします。
中山 住宅街にあるんですが、外観がとてつもなく存在感があります。玄関に入ると有名なY字階段。圧倒されます。
関根 明治時代の遊廓の姿をほぼそのまま残している建築自体すごいのですが、この宿は女将さんがとても遊廓文化に理解が深くて、昔の資料類をたくさん残していて見せてくださる。こうした貴重な資料を閲覧できるということも、おすすめできるポイントです。明治32年の「遊客帳」には、接客した女性の名だけでなく、客の容姿や注文した食べ物、飲み物まで記してある。警察と遊廓がつながっていて、犯罪防止にも役立てていたということで、ちょっと意外だった。想像もしていなかったので、ああなるほど、と感心しました。
中山 しっかり管理されていたんですね。こうしたものは行かなければ見られないので、行ったときに、ぜひ。そして、何と言っても、近くの港の市場の朝ごはんがおすすめです!
関根 旅館の朝ごはんも良いのですが、八戸の港でも味わっていただきたいですね。
中山 次は同じ青森県ですが、すこし山間に入った黒石市の中村旅館
関根 こちらは、僕がまだ行ったことのない宿の中で、渡辺さんが一番のおすすめだと教えてくれた旅館でした。雪景色で撮影したいと思い、寒い冬を待って雪が積もった時期を見計らって訪ねました。
中山 中に一歩入ると、やっぱり階段がありますね。
関根 急な階段なのに手摺が低いな、と思って見ていたら、ここの80歳くらいの女将さんがひじょうに味のある方なのですが、「これは階段じゃないんだよ、“顔見世”だよ」と教えてくれた。つまり、ここに女性たちが並んで、下の土間からお客が見て女性を選ぶというものだったんですね。遊廓建築の独特な遊び心が多々見られる素晴らしい宿です。
中山 そしてここも朝食がおいしかった。焼き海苔、納豆、塩じゃけ、目玉焼きに温かいお味噌汁……こんな正当な朝ごはんらしい朝ごはんを出してくれる旅館って、もう珍しいのではないでしょうか。女将さんが作ってくれた、もうそれだけで涙が出ちゃいます。
関根 ええ。朝食だけで見てもベスト3に入りますね。
中山 本当に。旅館に泊まるうえで、朝食ってホントに楽しみだし、大切ですね。
関根 そしてもう一つ、やはりベスト3の朝食を出す、萩市の芳和荘
中山 ご主人が磨き好きで、どこもつやっつや。すごく清潔で、リーズナブル。
関根 部屋から出ると中庭に面していて、景観も楽しめる。中庭をぐるり囲んだ回廊の欄干には、「ちょうしゅうらう」と文字がくりぬかれていて、これが「裏屋号」だったそうです。渡辺さん、裏屋号とはどういうことでしょう?
渡辺 いや、私も初耳です。驚きました。
関根 僕も結局それ以上のことがわからなかったんです。
中山 欄干に文字を入れるというのも独特の遊び心ですね。そして朝ごはん!
関根 東京の名店で修業したご主人が作るそうです。とてもおいしかった!

中山 こうして3年取材して来て、あらためていかがですか?
関根 10年ほど前からでしょうか、チェルノブイリやアウシュビッツ、日本でも広島や東日本大震災の被災地のような、人間にとって悲しみの地をめぐる旅、ダークツーリズムに関心が寄せられるようになって、いわゆる負の遺産を「観光」する価値について考えるようになりました。そうした意味からも、遊廓跡や転業旅館もまた、すこし余裕があったら、ぜひ訪ねていただいて、いろいろ思いを馳せるきっかけとなってもらえたらいいな、と思います。
中山 渡辺さんは現在のお仕事をされる以前から、全国の遊廓地帯などを旅行されていましたね。
渡辺 初めは物珍しさが勝っていたんだと思いますが、なぜそこに遊廓があったのかを調べていくと、その町に漁港があったとか、鉱山があって栄えていたとか、遊廓を通してその土地を知ることができました。遊廓はまさに町の「窓」のような存在で、もしもその土地に遊廓がなかったら、歴史の1ページから大事なものが欠落してしまうようにさえ思えます。ダークという言葉にはいろいろな捉え方があるかと思いますが、人間の業のようなものと結びついていると思う。変に構えなくても、等身大の視点で地域の歴史に接することができるんじゃないか、などと感じながら、訪ね歩いています。
中山 転業旅館に泊まることをきっかけに、ガイドブックに載っていないような場所を探したり、その町を自分で調べる楽しみ方もありますよね。
関根 この本に載せた旅館は、全部自信をもっておすすめできるところばかりです。そこに嘘は断じてないのですが、じつは、到着するやいなや、待ち構えてくれていたようにご主人と酒盛りが始まっちゃった宿もありました(笑)。さすがにそこを1軒目に選んでしまうと、ハードルが高いかも。最後に紹介した3軒は、最初に行くべき宿としても絶対に間違いがないので、ぜひ「遊廓を体験」する旅に出かけて、本書を二倍三倍に楽しんでください。

(せきね・ここう フリーカメラマン)
(なかやま・ともき 「実話ナックルズ」元編集長)
(わたなべ・ごう 「カストリ出版」代表、遊廓家)
神楽坂la kaguにて
波 2018年10月号より

元遊廓の転業旅館を訪ねて

関根虎洸

 かつて満州国があった大連を訪ねたのは2014年。私は古い風俗本のコピーを携えて、大連の街を彷徨い歩いていた。
 昭和5年に出版された『全国遊廓案内』(日本遊覧社)は、戦前の遊廓情報が軽妙な文体で詳細に描かれている。古本市場では好事家の間で人気が高く、数万円の高値がついていた。国会図書館で閲覧できることが分かり、しばらく眺めていると、目次の末尾に書かれた意外な地名に目が止まった。「台湾」「朝鮮」と並んで「関東州」が紹介されていたのだ。関東州とは日露戦争後にロシアから日本へ移行された租借地、現在の大連市一帯のことである。私はそのページをコピーして、日本が満州に建設した遊廓跡を訪ねることにした。
 近代的なビルが立ち並ぶ大連の街角に、時間が止まったままの古びた一角があり、かつて遊廓だった煉瓦造りの建物がひっそりと残っていた。戦争も遊廓も知らない昭和43年生まれの私にとって、日本が満州に建てた遊廓跡を訪ねて撮影したことは強く印象に残る体験だった。
 また大連から帰国した翌年、伊勢神宮へ旅行する機会があった。外宮と内宮を繫ぐ参宮街道には古市遊廓があったということを知り、往時の名残りを留める麻吉旅館に宿泊した。江戸時代にお伊勢参りが全国的なブームになったわけだが、各地から伊勢までの長い道のりを徒歩でやってきた多くの男性旅行者は、参拝を済ませた後に、古市遊廓へ登楼することを楽しみにしていたようだ。私が強い興味を持ったのは、この風習が「精進落とし」と呼ばれていたことである。ちなみに遊女たちは、参拝が済んでいない旅行者と分かれば、登楼を断ったという。そうやって精進落としの体裁は保たれていたのだろう。いずれにしても、満州と伊勢の2カ所で元遊廓を撮影したことが、本書の取材を始める契機となった。
 昭和33年に売春防止法が施行されてから、今年で60年を迎える。売防法によって、遊廓や戦後の赤線は、廃業するか、旅館やアパート、料亭などに転業していったが、現在も営業している転業旅館は、全国に何軒くらい残っているのか。いつの間にか、そんな疑問を持つようになり、古い資料やインターネットを駆使して、全国に残る転業旅館を探すことに夢中になった。港町や門前町などに残る転業旅館を一軒見つけては撮影に赴く。そしてまた一軒探す。すでに廃業した旅館や取材拒否の旅館などもあったが、遊廓時代の資料を大事に残している旅館に出会ったり、旅館の経営者から売防法前後の様子を聞かせてもらう機会にも恵まれた。なにより怪しげでありながら、粋を凝らした意匠の遊廓建築に魅せられていった。しかしながら、ほとんどの旅館経営者はすでに高齢であり、後継者の問題は深刻である。残念ながら、近い将来に転業旅館は町から姿を消す運命にあるだろう。
 3年間にわたる取材は、私にとって今後のカメラマン人生の分岐点になりそうだ。いまでは街を歩いても、住居表示や街並み、住宅の形にばかり目がいくようになってしまった。


(せきね・ここう フリーカメラマン)
波 2018年8月号より

[特別エッセイ]「廓めし」の愉しみ

廓のごはん、だから廓めし。花街にはきっと、美味い物がある――
心ひかれて出かけてみれば、往時の面影がほら、そこここに

東京メトロ三ノ輪駅から土手通りを歩いて7~8分のところにある「桜なべ・中江」。

「こんにちはー。すみません、取材の約束をした者ですがー」

 冷たい雨の降る秋の朝。三ノ輪の通り。まだ暖簾の掛かっていない軒先に立ち、入口の引き戸を開けて隙間に顔を入れる。店内に聞こえるように少し大きな声で挨拶をした。客のいない店内から女将さんだろう女性が姿を見せる。

「いまちょっと社長が出てるんですけど、すぐに戻ると思うので中で待っていてください」

 女性は携帯電話を手に取り、店に取材者が到着した旨を社長に伝えてくれた。小気味良い声とテキパキした所作から「こういう店の女将さんは、やはり下町女性って感じで雰囲気があるな」とボンヤリ感心していた。

 訪ねた店は吉原大門の近くにある「桜なべ・中江」。創業が明治38年という馬肉専門の老舗料理店である。現在の店は関東大震災の翌年、宮大工によって建てられた。戦火を免れて築94年を経た木造の建物には下町情緒が色濃く残っている。入口の上に掲げた「桜肉鍋」の大看板が目印だ。

 玄関で社長を待っていると、不意に背後の引き戸が開いた。振り返ると引き戸の隙間から30歳くらいの男性が顔をのぞかせている。

「いま別館で撮影中なんですけど、社長はこちらにいませんか」

 近くに別館があり、そちらではインターネットテレビの撮影が行われているとのこと。

「中江」の別館「金村」。もと引手茶屋だったというその建物は、ソープランド街のど真ん中で静かに佇んでいる。

「あれ、そっちにいると思ってたけど……“お風呂でも行っちゃったかな”」

 吉原ジョークともいえるパンチラインを耳にして私は静かに呟いた。

「女将さん、流石」

 店の佇まいから貫禄のある社長を想像していたが、現れたのは柔和な表情をした4代目店主の中江白志さん。江戸っ子は「ひ」と「し」の区別がつかないと聞くが、それにしても名前が「しろし」さんとは恐れ入った。

「お待たせしました。どうぞお上がり下さい」

築94年とはいえ、数十年おきの大改装のおかげで清潔感ある店内。
立派な神棚は、この店を建てた宮大工によるもの。「本業だから張り切ったんでしょうね」とは店主の弁。

「廓めし」はスタミナ食

 今回「桜なべ・中江」を訪ねた理由。それは拙著『遊廓に泊まる』に起因する。本書は日本各地にわずかながら残っている、かつて遊廓だった現役の泊まれる旅館を記録した本である。江戸時代から続いた遊廓は、戦後の赤線を経て、昭和33年に施行された売春防止法によって実質的に廃止された。そして経営者はそれまで妓楼として使用していた建物を旅館やアパート、料亭などに転業していったのである。その中で最も多かったのは旅館だったが、今年で売春防止法の施行から60年が経ち、経営者の高齢化と後継者問題もあって、すでに数えられる程度の旅館しか残っていない。

 3年間の取材中の楽しみは、各地の旅館で食べる料理だった。どの旅館も個人経営なので、食事は女将さんの作る家庭的な料理が多い。東京の料亭で修業したご主人が作る絶品の朝食もあった。工事業者の従業員が長期滞在している旅館の夕食はそのボリュームに驚かされ、港町の旅館なら新鮮な海産物がテーブルに並ぶ。

 そして旅館の近くにはたいがい古くから営業している料理屋が残っていた。かつて遊廓や赤線があった場所には、例えば焼肉やスッポンといった“精をつけるための”料理屋が少なくなかったのだ。

 以前、東海道に残る最後の旅籠として2015年まで営業していた大橋屋(1649年創業)に泊まったことがあるのだが、この時は名物として自然薯が食事に供された。ちなみに大橋屋はかつて遊女を抱える飯盛旅籠だったのだが、当時の様子は歌川広重の「東海道五十三次・赤阪旅舎招婦ノ図」にも描かれている。江戸時代は建前として獣肉食の禁忌が守られたこともあり、一般に肉を食べる習慣がなかったので、自然薯は精をつけるためのスタミナ食として食べられていたことが分かる。

 時代によって料理に違いがあるにせよ、改めて遊廓と関係の深い料理店を訪ねてみたい。

 まずは幕府公認の遊廓があった吉原へ向かったのである。

遊ぶ金欲しさに馬を売る

 中江の店内には、小説家の武者小路実篤氏直筆の詩や落語家の3代目三遊亭金馬が描いた馬の絵、帳場には11代目市川團十郎のサインが飾られている。個人的に印象に残ったのは、牛と馬が描かれた「牛負けて馬勝った(うまかった)」の絵。聞けばこの絵は神社仏閣に奉納されるほどの腕前だった2代目店主の祖太郎氏が描いたもの。いずれにしても下町の粋を集めたような雰囲気の中で食べる馬肉は旨いに違いない。

“下町の蹴飛ばし屋”を自称する4代目店主の中江さんは語る。

「吉原遊廓で遊びたいけど金のなかった客が、自分の乗ってきた馬を吉原近辺の商家に売って遊ぶ金を作ったそうです。しかし馬が増えすぎてしまい、横浜では牛鍋が流行っていたこともあって馬を鍋にした、そう聞いてます」

 以来、桜なべは東京下町の郷土料理となり、かつては吉原近辺に20軒以上の店があったという。

看板メニューの桜鍋。中央にそびえる白い脂は意外とさっぱりしていて美味。

 遊廓に関する本を出版しておきながら、もちろん存じ上げていたとはいえ、中江へ今まで訪れていなかったことを激しく後悔した。次回来店する時は店の常連だった岡本太郎氏のリクエストによって考案された人気メニュー「タルタルステーキ」をぜひ食べてみたい。

赤線の記憶は寿司屋のカウンターに

いかにも下町の寿司屋という風情の「満す美寿し」。

 そんな想いを抱きながら、中江から徒歩1分の距離にある「満す美寿し」へ向かった。

 この店には以前来たことがある。気さくな大将に売防法が施行された当時の話などを聞かせてもらい、店内も自由に撮影させてもらった。戦後の赤線時代にはカフェー「マスミ」を経営していたが、売春防止法が施行される直前に転業、昭和33年1月1日に「満す美寿し」の営業を始めたという。建物は遊廓建築を専門とする大工が手掛けたとあって、竹をあしらった船底天井や玉石を敷いた床、豆タイルを施したカウンター等、遊廓特有の贅沢な意匠を残す唯一無二の店だといえる。

土手通りから少し入った場所にあるカフェー「マスミ」の旧店舗。

 しかし実をいうと今回は不安要素があった。電話で取材の申し込みをしたのだが、断られてしまったのだ。しかしながら、なんとかこの企画で満す美寿しを紹介したい。とりあえず客として寿司を食べてから取材の交渉をする作戦を立てた。

 満す美寿しに入店するとランチタイムだったこともあってカウンターはほぼ埋まっていた。座敷席のテーブルに腰を下ろす。カウンターに座る20代の男性客と大将が遊廓に関する話をしているのが楽しげに聞こえた。これは取材を受けてもらえるかもしれない。ちらし寿司を食べ終わり、カウンターの客が店から出るのを待って、大将に声をかけた。

遊廓建築の意匠を今に伝える「満す美寿し」の店内。開店当時は立ち食いの店だった。

「すみません、雑誌の取材としてお話を聞かせてもらうことはお願いできませんか」

 カウンター越しの大将は苦笑いを浮かべて呟いた。

「……いやね、この前もテレビが取材したいって電話があったんだけど、お断りしたんだよ。なんていうかこう、上から目線っていうのかな、取材してやるみたいな感じがしたもんだから、嫌んなっちゃってね」

 大将の職人らしい言い分はもっともである。私はあわてて過去に自分が不躾な取材申請をしたことがなかったか、思い起こしてみた。

「……そうでしたか、僕も気をつけます。実は以前にも来店したことがありまして、その時に聞いたお話しと写真を使って記事を作らせてもらうことは可能でしょうか。ぜひ紹介させてもらいたいんです」

「……ウチの先代はね、売春防止法が成立した時、国会議員のところへ文句を言いに行ったんだよ。……だからさ、これに全部書いてあるから。……これ読んで書いてくれれば、いいよ」

 大将は2012年発行の雑誌「男の隠れ家」を手渡してくれた。日本の裏町特集と題された雑誌には吉原の街と共に満す美寿しが紹介されていた。

「ありがとうございます。分かりました。よく読んで記事を書かせてもらいます」

 大将は目を合わさずに私へ向かって手を挙げた。

 胸をなでおろし、改めて店内の意匠を見渡した。カウンター内の目立たない場所に飾られた木製の看板が目に留まる。

昭和33年、店の開店祝いとして遊廓仲間から贈られた千社額。

 これは築地の場外市場でも見られる千社額。聞けば、店の開店時に遊廓仲間からお祝いに贈られたものだという。

「ニューハッピー、ロマンス、マコト……」

 戦後の赤線ならではと言えるカタカナの店名が並ぶ千社額には、華やかな色町の情緒と押し寄せる時代の変化が刻まれていた。

この店は浅草芸人たちの行きつけでもあった。店内に飾られた若き日の渥美清、関敬六の写真。

『五番町夕霧楼』を訪ねて

 そして最後にもう1軒、拙著『遊廓に泊まる』から京都の焼肉店を紹介したい。私は決してグルメではないので個人的な意見に過ぎないが、今まで食べた焼肉の中で最も感動した店である。

80年前の妓楼を改装した「焼肉・江畑」の外観。2階の手摺りに往時の名残りをとどめる。

 遊廓の取材を始めるまで知らなかったのだが、関西の食通の間では以前から有名な店らしい。創業40年の「焼肉・江畑」は、80年前の妓楼を改装した店である。通りから店を眺めると、2階に今も妓楼だった当時の手摺りが確認できる。往時は手摺りに腰を掛けたお姉さんが手招きしていたのだろうか──。そんな想像を掻き立てる情緒が建物の外観に残っている。場所はかつて通称「五番町」と呼ばれる遊廓のあった西陣地区。現在は住宅地になっているが、当時は西陣織の職人たちも通う庶民的な遊廓があった。この小さな遊廓を一躍有名にしたのは水上勉の小説『五番町夕霧楼』。江畑は五番町夕霧楼のモデルとなった五番町の妓楼を改装した店なのだ。職人が絶妙のタイミングで焼いてくれる焼肉に舌鼓を打った後、店内に飾られた新聞の切り抜きを見つけた。記事には妓楼を改装した店であることや、ご主人が子供時代に見た五番町の思い出が書かれていた。

「江畑」の店内。カウンターでは職人が絶妙のタイミングで焼いた肉を皿に盛ってくれる。

「そうや。ここの地下には地下牢がある。女の子が悪いことしたらペンペンや(笑)」

 愛想の良いご主人が冗談っぽく語った。

 そしてぜひ写真を撮らせて欲しいとお願いし、地下牢を見せてもらえることになったのである。前を歩く若い従業員が語りかけた。

「壁には遊女が書いたといわれる殴り書きがあるんですよ……」

 暗闇の中に浮かんだ地下へ続く階段をゆっくりと降りていく。現在は倉庫として使っている地下室の壁には、確かに殴り書きのような文字が書かれていた──。

地下室の壁に残る遊女の殴り書き。建築業者の書き残しにも見えるが真相は定かでない。
もしくはからかわれた可能性もある。

 ちなみに京都土産で有名な井筒八ッ橋本舗の「夕子」は愛らしいイラストで知られるが、『五番町夕霧楼』の主人公、夕子に因んで付けられた商品名である。

 今回3軒の料理店を紹介したが、お分かりの通り、遊廓があった場所には旨い店が見つかる可能性が高い。スマートフォンでグルメサイトを検索するのも便利だが、私は全国に点在した遊廓跡を探すことをお勧めしたい。遊廓跡の多くはアクセスの悪い場所にあるが、それだけ店へ着くまでの街歩きも楽しめるはずだ。


桜なべ・中江
東京都台東区日本堤1ー9ー2
03ー3872ー5398

満す美寿し
東京都台東区千束4ー38ー12
03ー3873ー3872

江畑
京都府京都市上京区四番町148ー1
075ー463ー8739


関根虎洸せきねここう

1968年埼玉県生まれ。カメラマン。2014年、旧満州に残る遊廓跡を訪ねたことをきっかけに遊廓建築の撮影を開始。著書に『遊廓に泊まる』(小社刊)など。

小説新潮 2018年11月号より

著者プロフィール

関根虎洸

セキネ・ココウ

フリーカメラマン。1968年埼玉県生まれ。元プロボクサー。2001年『DOG&GOD』(情報センター出版局)、2012年『Chelsea・桐谷健太』(ワニブックス)他。2014年、旧満州に残る遊廓跡を訪ねたことをきっかけに遊廓建築の撮影を開始。

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