憑神



     一

 後世にいわゆる幕末と呼ばれることになる、模糊たる時代の物語である。
 別所彦四郎が余りの蒸し暑さに辟易して蚊帳を這い出たのは、宵っぱりの御徒士屋敷もしんと静まり返った夜更けであった。
 忍び出たつもりが、このごろ年老いたせいか目敏くなった母を起こしてしまった。
「厠へ」と言えば、母は仰向いたまま枕の下を探って、彦四郎の膝元にくたびれた巾着を置いた。
「蕎麦でも食うて、寝酒の一杯も飲んできやれ」
 母というものは、どうして子供の気持ちを察することができるのであろう。涼みがてらに蕎麦でも食うて、寝酒の一合も飲みたいものだと思っていたのだが、彦四郎の懐には小銭すらなかった。
 つい先ごろまでは、寝付けなければ母屋の台所に行って、酒漬け飯をかきこんでいた。それも気丈な兄嫁に「まるで盗ッ人じゃ」と叱りつけられて以来、ままならぬようになった。
 それはまあよい。婿入り先から出戻った義弟に勝手な真似をされたのでは、兄嫁も立場がなかろう。しかし、老いた母を彦四郎の住まう離れに追い出したのには了簡できぬ。
「わしとひとつ蚊帳の中では、母上もよう眠られますまい」
 巾着を額に押し戴いてから、彦四郎はしみじみと言った。
「なになに、おまえは亡うなった父上とうりふたつゆえ、夢見ごこちがよい。母屋で嫁御に気を遣うておるより、よほど楽じゃ」
 老いてもなお愛らしい人である。むしろ仕切り屋の兄嫁よりも、年若い娘のようなところがある。このぼんやりとした気性では、さぞかし竈持ちも悪かろうし、嫁にいびり出されたのも無理はない、という気もする。
「では、お言葉に甘えまして」
 彦四郎は三尺帯を巻いて刀を差し、羽織を着て離れ家を出た。蚊帳の中で母がくすりと笑ったのは、そうした彦四郎の妙な居ずまいのよさに、また亡き夫のおもかげを見出したからなのであろう。
 このごろ自分でもそう思うことがしばしばある。算えの三十二といえば、ほどなく父の享年であった。

 深川元町の御徒士組は、総二十組のうちの十五番組である。北向きの二つの惣門から、三間幅の道が枡形に組まれており、その左右に一軒あたり百三十坪の屋敷が並んでいた。一組の定数は三十人で、むろんその数は昔から増えも減りもしない。
 この深川元町の十五番組屋敷は、下谷御徒士町の界隈に犇めく同輩の敷地よりもよほど広い。何でも有徳院(はちだい)様の御代に埋め立てられた本所深川の新地に、十五番組だけが移ってきたという。だから広さは広いのだけれど、掘割に囲まれた低地というわけで、夏の蒸し暑さは一入であった。
 御徒士の禄は七十俵五人扶持と定まっている。したがって敷地は広くとも屋敷は身分相当で、せいぜい二間か三間の座敷に、かろうじて武家屋敷らしい式台の付いた玄関が備えられている程度である。どの家も余分の土地には畑を養い、あるいは離れを建てて店子を入れていた。
 別所家の離れには、彦四郎が物心ついたころから大工の棟梁が住んでいたのだが、悪い博奕に嵌まって夜逃げをされてからは、世の不景気もあって後の周旋が利かなかった。古びて納屋になっていたその離れに、婿入先から出戻った彦四郎が住んで一年が経つ。そこに母屋をいびり出された母がやってきて、いかにも人生に追いつめられた気のする暑い夏となった。
 南天に眉月のかかった暗い晩である。目が夜闇に慣れるまで草履のあしうらを擦って歩むうちに、涼むどころかすっかり気が滅入ってしまった。
 夜ごと輾転として寝つけぬのは、蒸し暑さのせいでもなければ、盛り切りの一膳飯しか食えぬ空腹のせいでもなかった。蚊帳の中でかたわらの母が寝入ってしまうと、わが身の不運ばかりが鬱々とのしかかって、悔やしまぎれに目が冴えてしまうのである。
 俺は何ひとつ悪いことなどしていない、と彦四郎は夜道をそぞろ歩みながら考えた。
 武家の次男坊は、いずれ養子に出されるのが宿命である。だからよりよい家から請われるようにと、武芸には怠りなかった。学問もさることながら、直心影流男谷道場の免許皆伝まで授かったのだから、婿入り先に不自由はなかった。二十四で婿養子に納まったのは、小十人組組頭三百俵高の井上軍兵衛が家である。つまり彦四郎は、努力の甲斐あって実家とは比べようもない大身の入婿となった。
 俺に落度はなかった、と彦四郎は今いちど思い直した。
 軍兵衛には彦四郎と同い年の嫡男があったのだが、家督を譲ったとたんに流行り病で急死し、とり急ぎ十六の女子に彦四郎を添わせたのである。
 組頭の御役も粗相なく引き継いだ。妻の八重は性格もつつましく器量もよく、心より愛することができた。じきに健やかな男子も生まれた。
 ところが男子を授かったとたん、俄然あたりの空気が怪しくなった。祖父母ばかりではなく、夫の死後も里に戻らず居座っている小姑までが、妻の手から奪うようにして赤児を抱くようになった。祖父のつけた市太郎という名は、死んだ当主の幼名であった。
 じきに祖父母と小姑の、あからさまな婿いびりが始まった。
 今も神仏に誓って思うのだが、彦四郎には何の落度もなかった。しかしことあるごとに、御徒士の素性を罵られた。
 中間小者の出というのであれば、馬鹿にされたところで返す言葉はない。しかし井上の家が御組頭であることはともかくとしても、小十人組の組衆は御徒士とさほどちがわぬ身分であった。ましてや御徒士は小禄ながら、由緒正しき近侍である。将軍家が御成の折には必ず付き随い、一朝戦陣に立てば揃いの猩々緋の陣羽織を着て、影武者ともなるのである。その誇り高き御徒士の出自を、まるで足軽のように言われるのはたまらなかった。
 入婿を早々に排して、市太郎を跡目に立てようとしている軍兵衛の目論見は見えすいていた。抗えば離縁である。彦四郎は父母にかわって詫びる妻に支えられて、針の蓆のような暮らしによく耐えた。
 そうこうするうちに、事件が起こった。城中檜之間の小十人組番所で、上番中の配下がつまらぬ口争いをした。べつだん刀を抜いたわけでも、掴み合いになったわけでもないのだが、罵り声がたまたま近くにいた若年寄の耳に入り、お勤め不行届という譴責を頂戴した。
 処分というほどではない。少々叱られただけである。しかしこの噂を耳にした軍兵衛は、烈火のごとくに怒って――いやたぶん怒りを装ってであろうが、井上の家名を穢した不届者め、腹を切れと彦四郎に詰め寄った。
 申し開きも詫びも聞こうとはせず、あろうことかその晩から、裏座敷に押しこめられた。翌る朝には深川元町から実家の兄が呼ばれた。
 押しこめ座敷にやってきた兄が言うには、軍兵衛殿はことのほかお腹立ちで、次の勤番より自分が組頭に復するゆえ、彦四郎は離縁とする。むろん妻の八重も子の市太郎も井上の者ゆえ、向後一切、夫婦親子の名乗りは罷りならぬ。切腹ばかりは勘弁するので、ただちに屋敷を出よ、ということであるそうな。
 嵌められたのは兄もわかっていたが、こうなってはさしたる後楯もなく、請われるままに身ひとつで婿入りした立場は情けなかった。ことを大袈裟にしたのは明らかに軍兵衛の謀だが、若年寄から譴責を受けたのは事実なのである。誰が仲に立とうがそうと言い張られてしまえば、理屈は親にあった。
 愛する妻と、六つになる市太郎を井上の家に残して、彦四郎は離縁されたのだった。
 育ちざかりの三人の子を抱えた貧乏所帯に、三十を過ぎた無役の弟が出戻ったのでは、兄嫁が剣呑になるのも当然であろう。むろん御公儀も何かと物入りの昨今、どう伝をたどったところで出役などあろうはずもない。ましてや出戻り婿の噂は広まっていた。
 落度はないのだから、悔やむところもありはしない。彦四郎は悪い人間にめぐり遭った不運を、嘆くほかはなかった。

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