新潮文庫


マイマイ新子
高樹のぶ子

新子は九歳。気持がざわざわすると、額の真上のつむじ(マイマイ)が立ち上がる。社会が未来への希望に満ちていた昭和三十年、空想好きでお転婆の新子は、友達と一緒にどこまでも野原を駆けていく。毎日が終わらない冒険だ。けれどもきらめく少女の世界の向こうから、もっと複雑な大人の世界が囁きかけてきて……。誰もが成長期に感じる幸福と不安とを瑞々しく描く、鮮度100%の物語。

ISBN:978-4-10-102422-6 発売日:2009/04/01

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マイマイ新子


1 直角に流れる小川に春が来た


 草や雑木で覆われた小川が、北の山からまっすぐ流れくだってきて、田んぼの角をほぼ直角に折れ曲がったと思うとそのまま西に進み、またしても竹やぶにぶつかる。そこでふたたび直角に向きをかえ、少し川幅を広げると、今度は、ゆっくりゆっくりと海に向かうのだ。
 小太郎は、九歳になる孫娘の新子に、この小川の話をした。これは自然にできた流れではなく、人の手で作られたものだと。
「……川というものはな、ふつうこんなふうに直角に折れ曲がって流れるものではないぞ。千年もの大昔、御先祖さまが作った川なんじゃ。ここはな、そのころ周防の国の都じゃった。今の京都のように、東西南北に何本もの道が走っとった。この国衙という地名はな、国の都という意味でな。たぶん、その都を取り囲むように川を作ったんじゃろう。ここに大きな都があって、たくさんの人間がいそいそと歩いているのを想像してみるんじゃ」
 小太郎は新子にその話をするとき、右目を細めて、千年も昔の景色を眺めるようにふんわりと笑った。
 小太郎の左目は、この小川の両岸に生える茅を刈り取っているとき、その鋭い葉の先で傷つけてしまい、それがもとで化膿して、眼球の摘出手術を受けたのだ。お風呂場の歯ブラシの横に、小太郎の義眼を見つけると、新子は、黒目のところが盛り上がったスプーンの先のような陶器の目玉を、宝物のように手の平に乗せて、
「おじいちゃーん、目ん玉、忘れものー」
 と走っていくのだった。
 すると小太郎は、
「おお、ありがとありがと。これが無うては何も見えん」
 と言いながら、左目のまぶたを摘んで、義眼をするりと滑りこませるのだ。
 左目を失うきっかけになったこの小川を、それでも小太郎は嫌いにもならず、春になると新子を小川に連れ出そうとした。まずは新子にこう囁くのだ。
「なあ新子、そろそろ藤蔓の様子を見に行かんとな。今年は蔓を編み直さんといかんかもしれん」
 小太郎は陶器の目でウインクする。新子もウインクを返す。二人の秘密のサインだった。母さん、おばあちゃん、そしてめったに帰ってこない父さんにも内緒だぞ、という二人だけの合図。
 小川の上には、藤蔓で編まれたハンモックのような棚が掛かっている。誰にも知られていない秘密の場所なのだ。
 川幅が二メートルほどのこの小川を、小太郎と新子は「直角の川」と呼んでいた。
 千年も昔の古い都は、考古学者たちの手で発掘が進み、都の中心だったとされる場所には史跡公園ができた。そのとき小太郎は、学者の一人から古い地図を見せてもらい、小川が今とそっくりに直角に折れ曲がって流れているのをたしかめたのだ。
 小太郎は自分の予想があたっていたことを新子にだけこっそりと、しかし大喜びで話した。他の家族に話しても、とりあってくれないばかりか、「おじいちゃん、そんなことどうでもいいでしょう」と言われるのがわかっていたからだ。
 新子の家族は、年齢の順にいくと、祖父の青木小太郎、祖母の初江、父親の東介、母親の長子、それから新子とは四つ違いで五歳になる妹光子の六人。父親の東介は遠い大学で先生をしていて、家にはめったに帰ってこない。研究が忙しくて、大学の近くに部屋を借りて生活していた。
 今日は父親が帰ってくる、という日は、新子にとってもお客さまが来るように気ぜわしい。掃除をしたり、お花を生けたり買物を手伝ったりしなくてはならなかった。
 千年の昔、この国衙は現在の京都のように栄えていたのだと言われても、新子には想像がつかない。何しろ青木家は、田や畑の真中に立ってるのだ。車が一台だけ通ることのできる道から、さらに細い道を入らなくてはならないのだが、麦がさわさわと揺れる季節には、この細い道が、緑色の大海原に浮かぶ船への、一直線のかけ橋に見えた。
 光子が病気になり、医者に連れていくためにタクシーを呼んだときも、運転手さんが家までやってきて、抱えてタクシーまで運んでくれたものだ。光子は急に大人びた顔つきになって、見知らぬ運転手をじろじろと見上げていた。
 たしかにそれは車が通ることのできる道だけれど、走っているのは自転車ばかりだった。人間も歩くし犬も通るが、車はめったに走らない。
 車が行き来しているのは、その道が突きあたった国道、往還と呼ばれる道路の方だ。
 それでも最近は、家の近くまでバタバタと音をたてて原付自転車が入りこんできた。少し離れた吉村さんの家はバタバタに乗っていたが、江島さんのところはラビットと呼ばれるスクーターを持っていた。
 舗装された道路は往還だけだったので、バタバタやラビットが走るようになって、道はぬかるんだ。以前は道の真中を歩いて学校に行っていたのに、端っこを歩かなくてはならず、雨が降るとズックに草の切れはしがくっついた。草むらからヘビが出てくることもあった。
 まったくラビットやバタバタは迷惑な乗り物だわ。
 それでも新子は、父さんもラビットに乗ればいいのにと思った。ラビットは嫌いだが、父さんが乗れば好きになるかもしれない。
 遠い町からバスに乗って帰ってくる東介は、いつも往還のバス停から歩いて帰ってきた。新子のように道の端を歩かず、真中を歩いてくるので、玄関に入ってきたとき靴は泥だらけだった。
 昭和三十年。西暦だと一九五五年。
「キリのいい年だわね。いよいよ大台に乗るのね」
 長子は初江に言う。何かがスッパリと変り、これまでと違う生活がやってきそうな、少し浮きうきとした笑顔でだ。

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