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第1章 ジュゼッペ ジュゼッペはみんなから「トリツカレ男」ってあだなで呼ばれている。 一度なにかにとりつかれちゃうと、もう、ほかのことにはいっさい気がむかなくって、またそのとりつかれかたが、そう、ちょっと普通じゃないんだな。 たとえばおととし、あるきもちのいい春の朝、あいつは突然オペラにとりつかれた。オペラってわかるかな、うたいながらするお芝居のことさ。ラジオでへたっぴなオペラ歌手がぼやぼやとうたうのをききながら、 「ふうん、おれのほうが、よっぽどうまいよな」 ジュゼッペは思った、その瞬間にだよ、もうはまってたね。オペラに。口にだして、 「おれーのほうが、ららら、よっぽーどー、うーまーいー」 なんてうたっちゃってたんだ。 それから毎日さ。うたいながらのんきに、表通りのレストランまで歩いてく。そこでウエイターをやってるんだな。 「やーあ、いいてんき。ふんふんふん。おや、のら、ねーこーが、ねーてるー」 立ち止まって、ばかっ広く手をひろげ、 「どーして、ねーこは、どーして、ねーこは、おお、ねーてるんだろーっ!」 猫は迷惑そうな顔でととと、と逃げてく、ちょうどそこへ、 「どうしてって、そりゃ猫にとっちゃ、寝んのが仕事だからな」 うしろからパトロールのおまわりがやってきていた。 「おいジュゼッペ、あんまりばかげた歌ばかりうたうんじゃない。猫だけじゃあない、通りじゅうのみんなから苦情がでてんだぞ」 「でも、でも、でーもね、とらら」 とあいつはこきざみに腰をふりながら、 「ららら、じんせいはうた、とらら、くいものはうた、ららら、はとだってねこだってみんな、うた、うた、うたーなのさーっ!」 耳をおさえおまわりも逃げてく。 レストランでのジュゼッペはぱりっとした制服姿、いくら童顔で、やせっぽちの小男ってったって、ネクタイしめりゃまあちょっとした男前さ。けど、けどね、お客にしてみりゃ、たべてるその耳もとで、 「ピザはアンチョビ、とらら! キノコにベーコン、とらら! オリーブオリーブ、しあーげに、たあっぷりのチーズ! うわお!」 大声でうたわれちゃたまったもんじゃない。うまそうなピザを半分残しみんな席を立っちまう。 ある晩、店じまいのあと、店のご主人から、 「ジュゼッペ、お前、このまんまじゃクビだな」 「もうしわーけ、なーいと、おもってーまーす、だんなー……」 ジュゼッペはうつむいて泣きそうな顔つきになる。歌はマイナー調さ。ご主人にだってジュゼッペに悪気がないことはわかってる。しょうがないよな、トリツカレ男なんだから。だからご主人はためいきをつき、しばらく休みをやるよ、その癖がなおったら店にでてきな、そういって二度三度と細い肩をたたく。ジュゼッペはこつんとうなずき、すぐさま上をみあげ涙まじりに両手をひらき、 「うたー、うたー、うたーがなーいとー、おうおうおう、いーきさえ、でーきなーい、ばかなおれー、なーんですー、おうおうおう!」 交通事故にあった友達を見舞いにいっちゃ、陽気に骨折のアリアをうたい、病院からたたきだされた。 こわもてギャングの目の前で、ばくちと銃撃戦のワルツを踊って、半殺しの目にあった。 猫にひっかかれ、カラスにはつっつかれ、膝がしらは犬の噛みあとだらけ、って、そんな毎日だったよ。 それでもジュゼッペはうたうのをやめなかった。オペラの舞台と同じように、寝てもさめても、うたいながら暮らした。てぬきせず、枯れた声をはりあげ、そう、一心不乱にね。そのうち街のみんなも、ジュゼッペの歌に慣れはじめた。あら、このこったら、まねしちゃいけません、なんて、やんわりたしなめられるこどもまでではじめたんだ。ジュゼッペのオペラはじょじょに、街の暮らしになじんでいったのさ。 ところがだ。 夏も終わりに近づいたある夕方、のんびりやのばあさん連中、それに、めしの仕度に忙しい奥さんがたさえ、あれ、なんだか様子がおかしい、って気づいたんだ。ジュゼッペの声がしない。いつものあのばかな歌が、どこからも、きこえてきやしない。そのうち気のいい肉屋のおやじが、ジュゼッペなら公園の空き地でみかけたっけなあ、ほうほう、なんていいだし、みんなそろってぞろぞろとみにいったってわけなんだ。 たしかにジュゼッペはそこにいた。ランニングと短パン姿で。とっとっと、と小走りに駆け、大股で足をかえ、一度、二度、三度! 左左右! と跳びはねて、それを何度も、何度もくりかえしてる。 「おいおい」 と誰かがぼんやりつぶやいた。 「なんだか別のものがとりついたらしいよ」 おーいジュゼッペ、トリツカレ男、とみんなが声をあわせる。今度はいったいなんだい、何にとりつかれてるんだい? ジュゼッペはタオルで汗をぬぐいぬぐい、 「あのさ、ちょっと静かにしてくんないかな、気がちるから」 といったもんだ。 「なんせ、三段跳びは、集中力のスポーツだからね」 翌日からジュゼッペは、めでたく職場に復帰した。レストランへとむかうみちみち、助走をつけて、ホップ、ステップ、ジャンプ! 巻き尺で記録をとり、軽く舌打ちしてくちびるをなめると、またもや左左右! 左左右! 三段跳びの足取りで、通りをぴょんぴょこと進んでく。通行人を器用によけながらね。ジュゼッペの三段跳びは、ジグザグに進むこともできたんだ。 知ってるかい? 三段跳びって、足を交互にだすんじゃない。きき足が右なら、右右左! 左ききだったら、左左右! つまりジュゼッペは左ききなのさ。 「おおいジュゼッペ、たこのスパゲティ、あがってるぜ!」 コックが厨房から呼ぶ、すると店の出入り口につっ立ってたジュゼッペは、一歩、二歩、三歩ちょうどで厨房口まですっとんできて、スパゲティの皿をひっつかみ、こざっぱりしたばあさんがちょこなんと座ったテーブルまで、これまた、ぴょんぴょんのぴょーん! 見事に三度で跳んでいく。皿の中身をこぼすことなんて、むろん一度だってなかったさ。こいつはおもしろい、ってんで、どっさり見物客がおしよせてきて、店は思わぬ大繁盛、ご主人だってほくほく顔さ。 「ところでなあ、ジュゼッペ!」 午後の休みどき、小麦粉をふるいながらご主人が叫ぶと、おもてで水をまいてたトリツカレ男は、早くも厨房んなかまで跳んできている。 「ジュゼッペ、ひとつききたいんだが、なんでまた、三段跳びなんてものにとりつかれちまったんだね」 「うーん、理由は、わかんないんですが」 とジュゼッペ。 「ただ、あの日の夕方、空き地で、ええと、その、バッタをみましてね」 「バッタ?」 「ええ。夏の終わりのバッタが必死に跳んでんのをみて、あ、おれも跳ばなきゃ、って思った。そのきもちがそのときには、なぜかぜんぜん歌にならなくって、からだが前に、前のほうに、自然に動いちゃってた。そう、いつのまにかジャンプしちゃってて、その跳ばなきゃってきもちが、三度目ちょうど、ぴったんこで、すとんと腹の底におちついたんです。季節柄もう、このあたりでバッタはみかけませんが、せめてもおれだけは、しばらく跳んでいようと思うんです」 なるほど、奇妙な話だが、とご主人はいった。お前さんのきもち、わかるような気もするなあ、せいぜい遠くまで跳びな、ジュゼッペ。あいつはにっと笑い、大きく息を吸いこむと、ホップ、ステップ、ジャンプ! 舗道にもどってホースをにぎりなおしたんだ。 日に日に、ジュゼッペの記録は伸びた。伸びまくった。 拍手のなか、厨房口から助走をつける。ホップ、でテーブルを全部跳び越し、ステップ、で大通りをむこうまで横ぎっちまう。ジャンプ、のひと跳びで、むかいのビルの三階窓へとつっこんだ。考えてもみてほしい。この広い世のなかで、朝から晩までこれほど熱心に三段跳びのことだけ考えてる、いや、実際に三段跳びをくりかえしてるやつなんて、どこ探したってほかにいるわけがないんだ。記録が伸びて当然だろうさ。陸上競技の有名なコーチにこっそり電話したやつがいてね、お忍びでピザを食いにきたそのコーチは、ジュゼッペの跳躍に文字どおり度肝を抜かれ、パイプ椅子をがたんとまうしろにけたおし、 「なんてこった! ありゃ、世界新記録だぞ!」 毛むくじゃらのこぶしをぶるぶるとふるわせた。下くちびるから黄色いチーズがびよーんとたれてる。 競技会地区予選の日、がらがらのスタンドに街のみんなが陣取って、スカーフふったり靴鳴らしたり、てんで好き勝手に歓声をおくった。コーチにつきそわれて、ちょっぴりあがり気味なジュゼッペは軽く手をふってよこしたね。拡声マイクでやつの名前が呼ばれ、ピーッ! 甲高く笛が鳴った。ジュゼッペはくちびるをひとなめ、大股で助走を開始。スタンドからばらばらな手拍子。ふみ切板をけっとばし、ホップ、ステップ、ジャンプ! 嘘じゃない、ジュゼッペは試合用の砂場を跳び越えちまったんだ。 はじめての競技会を、世界記録で優勝したジュゼッペは、次の日曜、地方大会の決勝へと進んだ。一度はフライングでミスったけど、ここでも記録を更新し、だんとつの一等賞に輝いた。 「来週はいよいよ全国大会だな」 レストランに集まったみんなは、それぞれがにやつきながらジュゼッペの尻をたたきたたき、ジュゼッペはそのたんびにぺこんとうつむいた。 「おれ、帰ります。練習があるんで」 うしろ姿をみおくりながら、レストランのご主人は、誰ともなしにつぶやいたものさ。 「うーん、来週か。大丈夫かねえ」 はは、なんにも心配いらないよ旦那。みんなは口をそろえる。だってさ、ジュゼッペの三段跳びは世界一だ、ねえコーチ、そうだろ。そうだよな。けむくじゃらのコーチは気取ってウインクし、ぐいと親指を立ててみせる。店じゅうからどわっとむさくるしい歓声がわきあがる。 でも、でもね。やっぱりご主人の心配は当たったんだな。 華やかに花火があがる全国大会の競技場、いくら待っても、競技時間をとうに過ぎても、ジュゼッペは結局姿をあらわさなかった。コーチはぶんむくれ、両手をふりまわしながら帰っちまったが、街のみんなはめいめい顔をみあわせ、しょうがないよな、とあきれたように笑った。しょうがないさ、なんせあいつ、ジュゼッペはさ、ばかげたトリツカレ男なんだから。 レストランのご主人は深々とためいきをつき、ばかといわれても、しかたないかもしれんなあ、といった。やつは別に、世界一になりたかったわけじゃない、賞金が欲しいわけでもなかった、 「ただただ、跳びたかっただけなんだよなあ、バッタみたいに」 ぞろぞろそろって帰る途中のことだ、夕暮れの街なかで、非番のおまわりが声をひそめ、おい、みんな気をつけろ、とささやいたんだ。誰かがおれたちをつけてきてる! 郵便局の角を曲がったところで、皆いっせいにふりかえる、と、トレンチコートに中折れ帽、葉巻をくわえた妙ちきりんな男がこつぜんとあらわれ、それみて拍子抜けしたコックは、 「なーんだ、ジュゼッペじゃないか」 すぐさま全員で、おーいジュゼッペ、トリツカレ男、と声をあわせた。今度はなんだい、いったい何にとりつかれてるんだい? 「しっ、静かに!」 とジュゼッペはくちびるに指をあて、 「お前さんらの前をいく、あのつるっぱげ、よこじまシャツのでぶ男。指名手配の大悪党さ。どうやら近くに手下がいるらしい。首尾よくアジトをみつけたら」 と、おまわりにむけ目くばせをして、 「電話するぜ、旦那。手柄はあんたのもんだ。ひとつ貸しだな」 街の誰もが知ってる、あの、気のいい肉屋を追いかけ、ジュゼッペが足音もなく立ち去ったあと、さもあきれたふうに誰かがこうつぶやいたっけ。 「やれやれ、今度は、探偵ごっこらしいぞ!」 |