| まえがき もともと、食事をとるのが面倒で面倒で仕方なかった。料理屋でメニューを見るのさえ面倒くさく、近所の中華屋の主人に「自分が座ったら、なにもいわなくても冷やし中華を出してください」といって、昼夜毎食同じものを食べていた時期がある(冷やし中華のない季節は湯麺にした)。ある日銀行で、女性的な機械の声にあなたのキャッシュカードは使えませんといわれ、事情をきいてみると自動キャッシュコーナーでは紙幣しか引きだせない、小銭はあちらへお回りくださいと、制服姿の中年男性に反り返ったひとさし指で示され、いわれるがまま窓口で三百円を引きだし、ポケットでちゃらちゃら鳴らしながら家に戻った。その日から自炊暮らしがはじまった。 魚屋でまず一尾九十円のアジを買う。家の台所を調べてみると、調味料は、名前が愉快なので買ったクレージーソルトと罰ゲーム用のタバスコしかない。狂気の塩をアジにまぶし、割り箸を口に突っこんで、ガスコンロの上でじわじわと炙る。黒ずんできたのでもういいかと思い、腹の辺りをかじると冷たいものがどろりと顎の先に垂れた。いっそうの強火にかざすうち、塩焼きのつもりのアジはなんだかよくわからないようなものに化けた。 一年ほど過ぎるあいだに、スーパーマーケットで会う主婦たちから、野菜の切り方や、調味料の加減や、魚焼きグリルの使い方などを教わった。グリルのことをずいぶんと長い間、濡れた洗い物を置いておく棚だと思いこんでいたのだった。実家から料理の本を送ってもらい、そこに書いてあるようなものを作ってみようとしたら、毎度割合うまくできるので自分は料理の才能があるのではないかと疑ったが、もちろんそれも錯覚で、本を見てその通りに作れば、だいたい似たようなものができるのである。 自炊をはじめたことを伝えきいたとある知人が、自分の会社のホームページ上で、毎月創作料理を作り、写真付きでエッセイを書くという連載をやらないかといってきた。原稿料だけでなく、材料費も出すという。そこで豚肉を浮かべた善哉や、七色の着色料を肉にはさんだ虹色トンカツなどを作ったが、祖母が生きていたら怒るだろうなとある日思い、そう思ったら急に恐ろしくなってきて、豚肉や蟹や豆を使った冗談はもう辞めにしたい、と件の知人に申し出た。知人はすぐ了解してくれ、それなら、そのホームページで、毎日書いた料理の記録を公開しないかといった。毎日作っている普通の料理のことを書いて、それを誰かが読んでおもしろいのだろうか。まあ、書いてるうちにおもろなってくるかもしれへんし、とアウトサイド・ディレクターズ・カンパニー略してOSDの佐藤理さんはいった。題名は「ごはん日記」でいいんじゃないですか、と同じくOSDの西川公子さんはいった。毎日おおまかなメモをつけ、あとで整理し、数日分をまとめて電子メールで送る。コンピュータなどのことは魚焼きグリルよりわからないので、更新作業や窓口業務は、すべてOSDにしてもらう。 2001年の9月12日から始まっているのはどういった理由か覚えていない。日記を公開するなど不自然なことだからはじめはおずおずと書いている。語りきかせるような語調なのは、OSDのひとたちへ報告するつもりで書いているせいかもしれない。あのまま東京にとどまっていたとしたら、たぶんいまも、ごく短い日々の記録に献立がついただけの、普通の日記のままだったろうし、あるいは、やっぱりおもろくはならんかったな、ということで途中で、みんなバーイバイ、ツートトツー、とアキラ風に終わっていたかもしれない。それが、おもろなってきたかどうかは自分では不明だが、現在もインターネット上で滞りなくつづき、内容もただの日記というより、妙な調味料のかかった、伸び縮みする散文というようなものになっていったのは、一巻目途中で忽然と現れる「園子さん」と「猫たち」、そして2001年10月21日になんという目的もなしに訪れた、「三崎」という町のおかげである。 擬音と動物のまぼろしが飛び交い、その時々の自分だけの流行語が生まれ、小咄が入り、行事の際あるいは旅行中には、一日の分量が一週間分にふくれあがる。私には現実の出来事がそのように見えている。あるいは聞こえている。その現実を支えてくれているのが、「園子さん」と「猫」と「三崎」であり、それぞれの魅力をたたえて日記に登場する、大勢のひとたちである。まるいち魚店をはじめ、三崎下町の商店街の皆様、 今朝の三崎は梅雨っぽい曇り。ぬるいじゅんさいのなかを動いているような感じ。午前中はずっと創作。昼前急に晴れてきたのであわてて洗濯をし、まるいちに走っていき、麦いか三杯とうるめいわしを二尾買った。午後は陽の差し込む二階でゲラゲラと笑いながらゲラ直し。晩ごはんはもらいものキュウリとひこいわしの酢の物、うるめいわしとパセリのオリーブオイル漬け、オクラ納豆、ゆうべホウボウを煮た煮汁で麦いかを煮るとホウボウ茶色くなった。まぼろしの猫たち松本より飛来し夜の海に向かって吠えるギャヒー。ゴウー。初夏の風が吹いている。ツートトツート。日記は今日も無事に更新されている。 2006年6月12日 三崎にて いしいしんじ
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