おかしな男 渥美清


1 出会い

 リハーサル中のスタジオの片隅に、黄色いポロシャツにグレイの夏ズボンをはいた男が背筋をのばして立っていた。天然パーマのかかった豊かな髪にはポマードがべったりついている。
 他人のリハーサルを見ているのか、考えごとをしているのかは判断できない。
 男の出番がまだであるように、ぼくの出番もまだであった。テレビ局での長いリハーサルほど退屈なものはない。
 細い目の男は歩きだした。ぼくに向って歩いてくると、突然、挨拶代りででもあるかのように、小声で「金が欲しいねえ……」と言った。
 渥美清こと田所康雄との出会いである。

「金が欲しいねえ」と彼が言ったのは、本気ではない。ぼくが何者かわからないので、そういう言葉を投げかけて反応を見たのである。(こうした時、相手の様子を見るためにコメディアンが発する言葉として、もう一つ、「お互い、もうからないねえ」がある。)
 渥美清が不審に思うのは当然で、ぼくは場違いであった。それをも含めて、少し説明が必要であろう。
 一九六一年(昭和三十六年)の夏であった。六○年安保が終り、世の中は平穏で、高度成長などという言葉を人々はまだ知らなかった。なんとなく日溜まりにいるような毎日である。
 だが、ぼくこそ金を必要としていた。小さな雑誌の編集長をしながら、それでは生活できないので、テレビやラジオに出ていた。とはいえ、生活の中心は原稿料で、安い原稿を書きまくっていたが、その中に原稿用紙三百枚の長い喜劇映画論、ギャグ論があった。
 それに着目したのがNHKテレビのヴァラエティ番組「夢であいましょう」の台本作者・永六輔である。
「夢であいましょう」はこの年の春にスタートしたが、いまひとつ調子が出ていなかった。だから、ギャグ特集をやりたい、ついては、みずから画面で解説をして欲しい、と、旧朝日新聞社八階のレストラン「アラスカ」で、永六輔と末盛ディレクターにアイスコーヒー一杯で口説かれ、ぼくは承知した。
 当時、内幸町にあったNHKの日比谷スタジオにぼくがいたのは、そうした事情による。
 一方、渥美清はといえば、浅草、丸の内の劇場と這い上ってきて、民放テレビで顔を知られ、この年の春から始まったNHKのドラマ「若い季節」で全国区の人気者になりつつあった。
「NHKは軽くおつき合いして、これが勝負という時のドラマは民放だろうね」
 と、のちに、彼はぼくに語ったが、〈おつき合い〉の「若い季節」(日曜夜)と「夢であいましょう」(土曜夜)は軽く演じているために、かえって結果がよかった。当時は民放のネットが弱かったから、毎週末の土・日の夜に、つづけてNHKの番組に出るメリットは計り知れない。
 さて、どんなに演技力があったとしても、コメディアンはまず〈珍奇なもの〉として大衆に認知される。
 渥美清は唇を斜めにしたり、極端にとがらせたりする〈珍演の人〉〈変な男〉として茶の間に受け入れられた。はっきりいえば、もともと奇妙でないこともない顔を歪めて〈笑い〉をとる、あくの強いコメディアンである。
 頭の良い彼は、一九六一年にはもう〈珍演〉をやめていた。その必要がなくなったからでもある。
「若い季節」は松村達雄、沢村貞子、淡路恵子、坂本九、ジェリー藤尾、黒柳徹子、古今亭志ん朝、小沢昭一、ハナ肇とクレイジー・キャッツ等々が人海戦術のように登場する四十五分番組(当時の番組はすべて三十分か十五分だから四十五分は長い)だが、渥美清はドラマの中の他の人々とは異質な、料理屋の古風な板前である平吉という人物を淡々と演じていた。
 一方、「夢であいましょう」は、後述するように、たまに先輩の喜劇人が出ることもあるが、〈笑い〉は渥美清とエリック・H・エリックが引き受けていた。歌と踊りの合間に〈笑い〉を披露する渥美清は中村八大のモダンな音楽にマッチした芸を見せた。ナンセンス味のあるスマートな〈笑い〉である。
 彼の人気はまだブレイクしていない。だが、この時点で、すでに〈古風な時代遅れの男のおかしさ〉と〈モダンなエンタテイナー〉の二つの道を試みていたのは注目に値する。
 念のために書いておくが、映画「男はつらいよ」が製作されるのは、これから八年後である。
 渥美清、三十三歳。ついでに記すと、ぼくは二十八歳であった。