春の数えかた


目次

春を探しに
赤の女王
動物行動学(エソロジー)としてのファッション
ボディーガードを呼ぶ植物
カタクリとギフチョウ
ホタル
夏のコオロギ
植物と虫の闘い
八月のモンゴルにて
シャワー
スリッパ再論
街のハヤブサ
冬の花
鳥たちの合意
効率と忍耐
チョウの数
諫早で思ったこと
灯にくる虫
動物の予知能力
洞窟昆虫はどこから来たか
秋の蛾の朝
モンシロチョウの一年の計
幻想の標語
人里とエコトーン
暖冬と飛行機
わけのわからぬ昼の蛾たち
緑なら自然か?
チョウたちの夏
セミは誰がつくったか
おいわあねっか屋久島
ヴァヌアツでの数日
ハスの季節
ペンギンの泳ぎ
二月の思い
ヒキガエルの季節
春の数えかた
 あとがき
 文庫化にあたってのあとがき
  解説 椎名誠




























春の数えかた

春を探しに

 新年のことを新春というが、このことばは、子どものころのぼくにはどうしてもしっくりこなかった。
 その理由はじつに単純であった。こんなに寒いのに何が春なんだ? ということである。
 ぼくが子どものころといえば、第二次大戦のまっ最中。もともと隙間だらけで火鉢しかない日本家屋で、すべての物資が不足している状態では、正月は寒い。寒々とした飾りつけの正月用の部屋は、なおさらわびしい感じがする。けれどそこに置いてある新聞には、「新春を壽ぐ」などと大きな活字で書いてある。うそばっかり! 大人ってどうしてこんなうそを平気で信じられるんだろう? 子ども心にはそう思わざるを得なかった。
 ぼくにとって春といえば、せめて三月。暖かくなって、庭に植えたチューリップの芽が出る。外へ出れば、明るい日射しの中を、小さな虫がキラキラ光りながら飛んでいる。捕えてみると、冬を越してきたマグソコガネだ。小さなチョウチョがちらりと姿をあらわす。ルリシジミだ。そんなのを見てはじめて、ぼくは春だと思えるのだった。
 戦争が終わって、ぼくらの世界は広がった。クリスマス・カードなどというものも復活した。いや復活したというより、話にしか聞いていなかったクリスマスが現実のものとなり、ぼくらはそれに惹きつけられた。
 今から見ればずいぶん地味なものであったけれど、クリスマス・カードは色とりどりで華やかであった。筆で「新春」などと書かれた年賀状より、はるかに楽しかった。
 クリスマス・カードには二つのタイプがある。キリストの生まれたときの様子を描いたものと、現実の場でのものとである。
 ぼくは後者に興味をもった。ヨーロッパ風のものは、雪が積もっていたり、ヒイラギの赤い実が描いてあったりして、現実の冬を映している。そんなものがあまりポピュラーでないアメリカのは、赤いポインセチアが主流である。ポインセチアなどという植物をキリスト様が知っていたはずは絶対にないのだから、これはこっけいにも思えたが、とにかくその人々が現実に見ている世界を描いた、素直なものだと思った。「新春」とはまるでちがうなと思った。
 日本にはどうしてこんなにうそや約束ごとが多いのだろうと、いささかうんざりして、ぼくは現実の春を探して歩くようになった。
 それは意外に近いところにあった。
 正月には無理だが、それでも道ばたの枯れ草の根本をちょっとはぐってみると、何とそこには新しい芽が生えてきているではないか。二月ごろ、寒さにふるえながら、郊外の池のほとりを歩いてみると、ハンノキの花があの独特な風情でたくさん枝から下がっている。
 植物だけではなくて、虫もいた。
 そのころは東京でも、ちょっと郊外へいけば、あちこちに雑木林が残っていた。林の中を歩きまわっているうちに、ふと枯れ木にカワラタケがたくさん生えているのに気づく。サルノコシカケをうんと小さく扁たくしたような、乾いたキノコである。キノコの表面には上から落ちてきた粉のようなものがたくさんついている。もしやと思って目をこらすと、いる、いる、キノコムシと呼ばれる小さな甲虫が二、三匹、キノコの裏を歩いている。
 林の中に、一羽の小鳥が死んでいた。近づいてみると、またべつの小さな甲虫が十匹ほど、ぼくの気配に気づいたのか、小鳥の体の上をチョコチョコ走って逃げだした。チビシデムシだった。その日はどんより曇った寒い日であったが、この小さな虫たちの元気なこと! 彼らにはもう春だったのだろう。
 けれど、寒さをこらえながら春を感じるのはやっぱりむずかしい。ときには少し汗ばむくらい暖かくて、風も快く、心底から春だなあと思えるのはやはり四月になってからだ。
 四月下旬の山すそは本当に楽しい。花はそこにもここにも惜しげもなく咲いている。種によって思い思いの形と色をしたそれらの花たちには、それぞれにお目当ての虫がいるのだろう。
 歩いていくうちに、道は林の中へ入っていき、両側が崖になったほの暗い場所になる。そのほの暗い地上に、突如として明るい点々が広がる。ネコノメソウの密生だ。
 高さ一○センチほどの小さな草であるネコノメソウは、少し暗くて水のしたたっているような崖の下に好んで生える。いちばんてっぺんの対生の葉は、緑ではなく明るい黄色である。一つの平面の中で向きあった明るい色の二枚の葉の間にはさまれて、暗色の小さな花がある。これを上から見ると、いかにもネコの目ということばがぴったりだ。
 このネコの目はもちろん、何も見ていない。けれどそこにしばらく佇んで、地上に広がるたくさんのネコの目を見ていると、そのネコたちの目もぼくをじっとみつめているような気がしてくる。
 それはふしぎな感覚だった。ごく最近、植物に電極を差しこんで植物体の電流を記録していると、植物が人間のことばに反応して、電流の強さがいろいろに変わるというテレビを見た。そんなことがあるのかどうか、ぼくは知らない。ネコノメソウのネコの目がぼくを見ているなどということは、あくまでぼくの幻想にすぎない。けれど、動物も植物も、それぞれがそれぞれの論理で生きているということ、ネコノメソウがネコの目のような葉をつけることにも、ネコノメソウなりの理由があるのだということに、ぼくがおぼろげながら気づいたのは、このときであったような気がする。

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