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灼恋
諸田玲子

徳川の中期、将軍綱吉の時代。零落した公家の娘染子は侍女として大奥に出仕する。綱吉に見初められてその寵愛を受けるが、大奥に囚われるのを拒んだ染子は、重臣柳沢吉保の側室となり、綱吉の子を生す。二人の男との三つ巴の関係のなかで激しい恋情に身を焦がす染子。絢爛な元禄の歴史を背景に、権謀術数の渦中でも、志に燃え恋に心解き放つ女と男の、強靭な恋愛を描く長編小説。

ISBN:978-4-10-119427-1 発売日:2008/05/01


| 700円(定価) |
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灼恋
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序
眼裏で白光がはじけ、染子は夜具の端をにぎりしめた。固く合わせた歯の隙間から押し殺したあえぎがもれる。
刹那、染子は忘我の境地にいた。隣室の声がすっと遠ざかる。体の芯を稲妻が駆けぬけた、と思ったそのとき、染子の体は荒海に放り出された。
五代将軍綱吉は体を離し、ごろりと仰向けになった。
波にもまれる小舟のように、染子はまだ身をふるわせている。昂りが鎮まるのを待って身を起こすと、綱吉は目を閉じ、荒い息を吐いていた。
染子の耳に隣室の声が戻ってきた。側用人の柳沢出羽守保明がよどみなく『論語』を読み上げる声だ。そうせよと命じたのは綱吉。いとしい男の声が羞恥を呼び覚ます。染子はふるえる指で脱ぎ捨てた間着を引き寄せた。
それにしても、と、染子は思う。隣室にいても閨の様子は手にとるようにわかるはず。襖ひとつ隔てて染子と綱吉が抱き合っているときに、保明はどんな顔で字面を追っているのか。
放心していると、
「出羽」
と、綱吉が隣室に向かって声をかけた。たった今、染子の耳にささやいた睦言より、はるかに甘い声音である。
染子は眉をひそめた。
綱吉の閨での振る舞いは、このところ常軌を逸していた。閨事の間中、隣室で染子の夫である保明に儒学書を音読させる。事が済んだ後は保明を呼びつけ、汗にまみれた体を清めさせる。
綱吉にとって、これは省くことのできない情事の総仕上げだった。染子は、保明にしどけない姿を見られる恥ずかしさと、男二人の間に流れる侵しがたい空気に圧倒され、いたたまれない思いをする。
襖を開け膝行した保明に、綱吉はいつも通り汗をぬぐうよう命じた。
保明は、枕辺に置かれた金貼の盥の湯に絹布をひたし、固くしぼって、綱吉の体を拭き清める。袖で顔をおおって息をひそめている染子には、この間の保明の表情を見ることはできないが、たとえ「見ておれ」と命じられたとしても、見る気にはならないだろう。
とはいえ、見ざる言わざるはともかく、耳だけはふさぐわけにはいかない。
綱吉は、染子のことなど忘れているようだった。熱に浮かされたような激しさは消え失せ、憑かれたような声音で保明に話しかけている。
たった今、上さまに抱かれたのは、だれ――。
綱吉は染子の体を傀儡にして、柳沢出羽守という寵臣を抱いたのではないか――そんな考えが脳裏をよぎるのはこんなときだ。そもそも染子を保明に下賜したのは、寵臣との絆を深めるためではなかったか。
「のう出羽、母者は御鷹部屋の鷹を新島へ放てと申すが、そのほうはどう思う」
綱吉の口調は、子供が甘え、だだをこねているようにも聞こえる。
「三の丸さまの仰せ通り、解き放つがよろしいかと存じます」
保明も子を諭すような口調で応じる。
二人が寝所で政の話をするのは、今にはじまったことではない。情事の名残がたちこめる空間でいとも簡単に政の話に入ってゆける男というものが、染子には理解できない。
身じろぎせずに待っていると、衣擦れの音がした。綱吉が身を起こし、保明が主君に着物を着せている。かつて小納戸役として主君の身のまわりのご用を務めてきた保明は、万事、手際がいい。
身支度を終えると、綱吉は染子に視線を向けた。
「のう、染子」
染子は顔を上げた。
綱吉が保明の手を取り、愛しげに撫でまわす姿が目の中に飛び込んできた。染子に見られても、綱吉は一向にたじろぐ気配がない。むしろ見せびらかすつもりか。
「出羽ほどの忠臣はおらぬ」
「はい」
返事とは裏腹に、染子は視線を逸らせた。
「そなたを出羽にやったは妙案だった。どうだ。大切に扱うてくれよう」
大切になど扱ってもらわずともよい――。
染子は胸の内で言い返す。それより、この忌まわしい絆を断ち切っておくれ。
保明はだが、この日も淡々とした顔をしていた。穏やかな表情を見る限り、主君に逆らう意志はなさそうだ。
綱吉は保明の機嫌をとるように甲を軽くたたき、手を離した。おもむろに立ち上がる。このあと御座の間へ戻り、茶菓のもてなしを受ける。しばしくつろいだのち、城へ帰る。
「この冬は大雪になるやもしれぬ。体をいとえ」
言い残して、綱吉は腰を浮かせた。
保明は襖を開けて主君を通し、染子に一礼して退出した。その間、一貫して目を伏せたままだった。
主従が退出するのを見届け、染子は這うように寝床へ戻った。鉛を呑み込んだように体が重い。夜具へ身を横たえると、香と汗の入り交じった体臭が鼻孔をくすぐった。身を起こし、間着の匂いを嗅ぐ。間着に、綱吉の残り香がまとわりついていた。
染子は顔をしかめた。保明への恋慕がつのるにつれ、綱吉への嫌悪も増している。
気がつくと染子は、間着を脱ぎ捨てていた。
「幾江」
甲高い声をはりあげる。
襖が開き、側仕えの幾江が廊下に両手をついた。
「お呼びにございますか」
「なにをしておる。すぐに湯浴みの支度を」
染子が、従順な見かけとはちがって炎のような激しさを秘めていることに、幾江は気づいている。炎は檻に閉じ込められた獣のように、出口を求めて彷徨っていた。うっかりふれれば火傷する……。
幾江が逃げるように出て行くと、染子は夜具の上に突っ伏した。胸の中にも体の芯にも燃え立つものがあり、どうすれば消せるのかわからなかった。
わらわをなんと思うておられるのか――。
保明の落ちつきはらった顔を思い浮かべる。
耳をそばだてると、御座の間から男たちの談笑が聞こえた。

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