まえがき
東京の風景は、日々変化していく。昔なじみの街を久しぶりに訪れて、その変わりように驚くことがある。六本木、汐留、品川といった巨大再開発地だけではない。銀座には次々と高級ブランドのビルが立ち、以前は何の店だったか思い出すのも難しい。表参道には著名な建築家によるビルが競うように姿を現し、変わらないのは美しいケヤキ並木ぐらいだ。
一九四五(昭和二十)年の終戦時、東京は焼け野原だった。あの空だけが広く美しい廃墟と、天に向かって林立する超高層ビルを、二枚の写真で見比べるとき、誰もが深い感慨を抱かずにはおれないだろう。
二つの風景の間には、さまざまな物語がある。東京タワー、新宿副都心、秋葉原電器街といった都市建設にかかわるものだけではない。食糧メーデー、六〇年安保闘争、全共闘運動など、熱い政治の季節にはデモの隊列が道路を埋め尽くした。力道山、大場政夫らヒーローが痛ましい死を遂げ、長嶋茂雄や美空ひばりが花道を飾った。多くの事件があり、若者たちの奇抜な風俗が生まれた。
この変化の激しい巨大都市で何が起きているかを伝える取材基地として、二〇〇三年に共同通信社東京支局が誕生した。「東京 あの時ここで」は、その東京支局が戦後六十年にあたって企画した全四十回の連載記事。戦後の首都で起きた事象を取り上げ、関係者の話を交えながら回顧するとともに、舞台となった街や場所の変遷を描いた昭和東京のスケッチだ。〇五年四月から年末にかけて、多くの地方紙に掲載された。
今回、本書をまとめるにあたっては、さまざまな場所を紹介できるように連載記事を大幅に増補し、さらに編年史的な要素を加え、新旧の写真や地図、図解を添えるなど、一冊の本として東京の変遷を多面的にイメージできるように工夫した。
この本は、東京の戦後史を検証するものでもなければ、都市論や風景論を語るものでもない。この場所でその昔なにが起きたのか。年配者には思い出をひもとく手掛かりに、若者たちには生まれる前の出来事を知る手助けになるだろう。昭和の「東京」が生み出した物語が、この本に詰まっている。
二〇〇八年十一月
共同通信社・前東京支局長(現編集局委員) 石森 洋
第一章 占領から独立へ
皇居見下ろす星条旗 第一生命館
首都に立つマッカーサー
終戦から一カ月たった一九四五(昭和二十)年九月十七日。日比谷の重厚なビルの前に車が止まり、中から降りた一人の大男が足早にビルに入っていった。
サングラスにコーンパイプ、ラフな軍服に身を包んだその男の名は、ダグラス・マッカーサー(1880-1964)。それまで「神」だった天皇の上に立ち、五年以上にわたり敗戦国ニッポンに君臨した連合国軍最高司令官だ。
三年八カ月余り続いた太平洋戦争。緒戦は華々しい戦果を挙げた日本軍だったが、連合国軍の反攻を受けて戦線はじりじりと後退、四五年三月からは各地で無差別空襲を受けるようになり、全国の都市の大半は焼け野原になってしまった。
中でも首都・東京は三月に下町、五月に山の手で大規模な空襲を受けるなど、度重なる攻撃で無残な姿をさらしていた。終戦により進駐してきた連合国軍は、空襲で焼け残った建物を次々と接収、皇居のお濠端に立つ旧第一生命保険本社(第一生命館)が連合国軍総司令部(GHQ)本部になった。目と鼻の先にある皇居を見下ろし、屋上に星条旗がひるがえるGHQ本部は、以後、日本支配の象徴となる。
引き出しのない机
「椅子も机も部屋の内装も、すべて当時のままです」。九三年、隣接する農林中央金庫本店と共同でビルを改築、合同の高層ビル「DNタワー21(第一・農中ビル)」が完成したが、マッカーサーの執務室はビルの外壁などとともにそのまま保存された。現在は一般公開していない執務室を第一生命保険広報課の八木淳が案内してくれた。
広さ五十四平方メートル、床は寄せ木細工。飾り気のない部屋の中央には大きな机がぽつんと一つ。緑色の革が擦り切れた椅子が、六十年の歳月を感じさせる。
「机には引き出しがありません。即断即決を旨としたマッカーサーが好んだと言われています」
地上八階、地下四階の第一生命館は三八年に完成。同社の『五十五年史』は〈高い鉄骨が林立するにつれ、丸の内の一角はさながら巨大なモンスターの占拠するごとく……〉と記している。
頑強な造りが自慢のビルは、否応なしに戦争に巻き込まれてゆく。四三年には東部軍管区司令部が入り、屋上に高射機関砲を設置。地下にも内務省などの分室やNHKの第二放送所が入った。
そして終戦。八月十五日の「玉音放送」以後は激動の日々が続く。三十日、マッカーサーが厚木に上陸。連合国軍の「東京入城式」が行われた九月八日の午後、彼らはGHQ本部の接収先を検分するため、同社を訪問、社長室、貴賓室などを部下とともに見学した。『五十五年史』はその日の様子を淡々と記録している。
〈しばらくしてから一階に降りて「ありがとう」の挨拶をのこして、検分する予定であった他のビルにはたちよらず一路横浜の宿舎にかえった。これでわが第一生命館は総司令部になることにきまったな、と直感された〉
こうして九月十五日正午をもって、生命保険会社の重厚な社屋がGHQの手に正式に引き渡され、二日後、その「主」が本丸に乗り込んできた。
天皇の上に立つ男
マッカーサーはGHQ本部と、宿舎である赤坂の米国大使館との間を日々往復、そうした「規則正しい生活」は朝鮮戦争のさなかの五一年四月、突如最高司令官の職を解任されて帰国するまで続いた。
戦争の記憶がまだ生々しい四五年九月二十九日の朝、日本国民は朝刊に掲載された写真を見て度肝を抜かれた。腰に手を当てて悠然と立つマッカーサーの隣に、モーニング姿で直立不動の昭和天皇(1901-89)が写っていた。戦争に勝った国の指導者と、負けた国の指導者のあまりに明確な上下関係を見せつけた写真だった。
マッカーサー・天皇会談の場所をGHQ本部と思い込んでいる人も多いが、実は米国大使館。新聞掲載の前々日、天皇は通訳を伴って大使館を訪問。会談は三十分余り続いた。会談の内容について天皇は終生明らかにしなかったが、戦争遂行にあたっての全責任を負うと発言し、マッカーサーはこれに感動して、後に天皇を戦争犯罪人として訴追しないことを決めた──と言われている。歴史の転換点ともなった会談が、多くの人の目が集まるGHQ本部ではなく、目立たぬ大使館でひっそりと行われたのも、歴史の面白い一こまだ。
ありがちな誤解をもう一つ紹介する。マッカーサーはGHQの執務室の窓から皇居を見下ろしていたというものだ。だが、執務していた社長室は、日比谷通りを挟んで皇居に面した西側ではなくて南側。天皇と並んだ写真に象徴される「天皇の上に立つ男」のイメージがそうさせるのかもしれない。
「即断即決」の源
占領政策をスタートしたGHQは政治、経済、社会、あらゆる分野で矢継ぎ早に改革を指示した。政治犯をただちに釈放させ、軍人や政治家らを公職から追放させた。女性の参政権が認められ、四六年には戦後初の総選挙で女性議員が誕生。主権在民、平和主義、基本的人権をうたった日本国憲法が同年十一月に公布された。「墨塗り教科書」に代表される教育分野の改革も著しかった。三井、三菱などの財閥解体、農地解放や労働三法の制定で経済の仕組みもがらりと変わった。
こうした歴史的な大変革のすべての指令の源は、この小さな部屋に陣取った男の「即断即決」だった。
改築された高層階のロビーからは、皇居だけでなく、霞が関の官庁街、丸の内のビジネス街、そして遠くに新宿の高層ビル街も一望できる。敗戦でうちひしがれた人々が交錯した廃墟から驚異的な復興を遂げて繁栄を謳歌するわれら日本人の姿を、マッカーサーは想像できただろうか。
