ボタニカル・ライフ
─植物生活─


 これはベランダーの手記である。
 ベランダー。ガーデナーとの違いは一目瞭然だろう。庭のない都会暮らしを選び、ベランダで植物生活を楽しんでいるのだ。
 ベランダ園芸という言葉はある。したがってベランダ園芸家という呼称もある。だが、ガーデナーと違って我々の階級には洒落た英語がなかったのである。おかげで、庭もないのにベランダ・ガーデナーなどとひどい語義矛盾がはびこる始末だ。なんだそれは、一体。ベランダなのか庭なのかはっきりしろと迫りたくなる。
 しかし、もうこれからは安心である。皆さんも胸を張ってベランダーと名乗っていただきたい。名乗った途端に不思議と気持ちが張り切り、むしろ庭など金輪際持ちたくないというような無理な気概に満ちてくる。こんな狭い部屋に住んでる私はなんと哀れであることよとか、しょせん仮住まいですからねなどといった消極的な気分はすぐに吹き飛ぶ。人生何事も肯定が必要だ。自己欺瞞とも言う。
 さて、先にちらりと本文を読んだ方の中には、俺という一人称が気になった向きも多いのではなかろうか。園芸に関して「俺」などという語りは下品に過ぎると眉をひそめる奥様方が予想される。
 鉢植えが好きだとか、ベランダで水をまくとか言うと、どうも過度に優しい上品な人間だと思われやすいのである。よく凶悪犯罪のあとの聞き込みで「普段はいい人でした」とか言ってるが、ああいうのも実際は「普段はよくタチアオイに水をやってました」という意味だったりするのではなかろうか。植物を愛することが“いい人”の象徴なのである。だが、どんなに冷たい人間も凶暴な輩も等しく植物を育てる。いい加減で自己中心的な人間も、まめで思いやりにあふれた人間もやはり等しく咲いた花に目を細める。
 ただ、違うのは心がけである。自分はどうもいけない。ひどく冷えると窓を開けるのも億劫になり、それで一日世話が遅れたりする。完全に枯れている植物を見てもなかなか事実を認めようとせず、葬るのを一カ月以上伸ばしていたりもする。肥料のやり方は雑である。底に抜けるまで水をやらないこともしばしばだ。かよわい花を西日に当てて悠然と煙草など吸っていることもある。植物からしてみれば、俺は愛の足りない人間に違いない。
 しかし、それでも俺は十分必死なのだ。しおれた茎には心を痛め、表土を覆ったカビを見ればガクゼンとする。その時、俺はかつてないほど俺以外の生命を愛しているのである。
 人格の不完全さを植物に見守ってもらっている。ひょっとすると、それがベランダーという言葉の真の意味合いなのかもしれない。
 このような不完全な植物愛好者ゆえに、自分はあえて乱暴に「俺」という言葉を使うのである。きちんとした知識のもとに植物を育てているわけでもなく、常に美しくその容姿を整えているわけでもない。まるで山賊が美女でもかっさらってきたかのように不器用に、そしておどおどと俺は植物を見つめてきたのだ。
 それがこのボタニカル・ライフの全貌である。

 ある日唐突に、この手記は始まった。
 誰に頼まれたわけでもない。思いついてどこかの雑誌に持ち込んだわけでもない。
 ホームページである。
 つまり読者も自分、編集者も自分というような状況の中で手記は始まり、しかしなぜか毎月俺は書き続けたのである。実質上締め切りなど存在しない。そのかわり決まった文章量もない。その自由さが俺にはひどく新鮮だった。毎月毎月、書きたくて書きたくてたまらず、文章が伸びていくのにまかせてキーを叩き続けた。
 もともとはカレル・チャペック大先生の名著『園芸家12カ月』にひどく感動したのであった。全編にあふれる無償の愛に圧倒され、はからずも俺は涙を流しながら読み終えたのだ。
 俺も無性に何か書きたいと思った。もちろん先生にかなうはずもないし、真似をしたいと思ったわけでもない。とにかくもう、矢も盾もたまらずとはこのことではないかと思うような激情に駆られて、俺は鉢植えをあらためて仔細に眺め、その成長ぶりを文章にし始めたのである。誰が読むかなどということはまるで頭になかった。ひたすら書きたかった。モヤシが殻を破って伸びてくるのに理由がないようなものだ。
 ところが、読者からのメールがだんだん多くなってきた。さぼっていると「次はいつですか」などと催促してくる。知らぬ間に読者が直接編集者になっているのである。俺は催促されるのが大嫌いだ。もともと締め切りに遅れることは希有で、わりと自己管理がしっかりしているつもりである。したがって、締め切りでもないのに編集者が様子を探ってくると頭にくる。で、かえって原稿が遅くなる。大変なアマノジャクだ。
 それを知らずに読者どもはさかんにせっついてくるのである。こっちは催促されるのがいやさに、次々書いてやろうと勇み立つ。相手を出し抜いてどんどん原稿をアップし、二度と催促出来ぬようにしてやるのだ! どうせならデジカメで撮りためた写真まで載せてやれ!
 こうして、だましたつもりがすっかりだまされたまま年月が過ぎた。そのうち、奇特にも紀伊國屋書店の『i feel』(サイト・マガジンでもある)が連載として扱ってくれるようにもなった。しかも締め切り、文章量ともに自由のままである。ありがたさにまたどんどん書いた。
 ホームページという性格上、どこから読んでもいいように書いてある。したがって本にしてみると冗長な部分も多い。気になるところは直したが、直し過ぎると勢いが消えてしまう。頼まれもせずに書いているというはた迷惑な情熱が冷めるのも惜しく、たいがいはそのままにした。どうか御理解いただき、気になった章から好き勝手に読み捨てて欲しい。どうせ山賊のたわ言なのである。

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