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沼地のある森を抜けて
梨木香歩

はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床が、うめくのだ――「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。

ISBN:978-4-10-125339-8 発売日:2008/12/01


| 700円(定価) |
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沼地のある森を抜けて
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1 フリオのために
夕立が上がった。繁華街の真ん中を流れる川の湿気がそのまま町を包み、猥雑な匂いも喧噪も、川面に垂れる柳の緑も人の思いも、そしてその合間に光るネオンサインも、もやに溶け合って皆半透明のカプセルの中に浮かんでいるよう。こんなに沢山の人々が傍らを通り過ぎて行くのに、何だかそれが一人一人、「人」という実感がない。川の漂流物と同じ、私の両側で無関係に浮いて流れてゆく。向こう側から見れば無表情に歩く私こそ、浮いて流れて見えなくなる500ミリリットルサイズのペットボトルみたいなものなのかもしれない。すれ違う空っぽのペットボトルの群れ。
その風景のカプセルの中を、新しい住まいになったマンションへと向かう。
数ヶ月前、一番下の叔母が死んだ。私と同じように結婚もしないまま一人暮らしで会社員をしていた。同じ町に住んでいたというのに私たちには殆ど行き来がなかった。もっとも昔は親しく往来していた時期もあったのだが、ある頃からぷつんとそれも途絶えてしまった。
死因は心臓麻痺。初めての無断欠勤に、不審がって訪ねてきた同僚に発見された。鍵は掛かっておらず、まだ明るかったのに部屋の中には灯りがついていて、叔母はパジャマ姿で倒れていたという。
私の両親は私が大学の頃交通事故で共に死んだ。私には兄弟がいなかったので、以来家族はない。正式には三人家族だったが、どういうわけだか人の出入りの多い家だった。マンションで、さして広いところでもなかったのに、遠い親戚のような人たちがしょっちゅう出入りしていたように思う。母は三人姉妹の長女だった。
叔母の葬儀は町中の近代的な葬祭場、見た目には何ら普通のシティホテルと変わらないビルの、小さな一室で行われた。「私たちの家の菩提寺って、行くだけで一日がかりだからね。時子の会社の方々がほとんどなんだから、こっちのほうがいいでしょう」姉妹最後の一人となった加世子叔母からてきぱきとそういわれると、何の疑問も持たずに「そりゃそうね」と答えた。
寂しくあっけない葬式だった。
亡くなった時子叔母は、それほど社交的な方ではなかった。が、それでも昔からの友人が一人、火葬場までついてきてくれた。「時ちゃんは小さい人だったのに、しっかりした骨だ」最後の叔母がそういうと、木原さんというその友人はきっぱりした声で「時子さんらしい骨です」といった。そういえば叔母には頑固なところがあった、と私はぼんやり思った。
加世子叔母と二人、故人のマンションの後片づけをしていると、台所の流しの下を開けた叔母がふと手を止めて、何か深刻な宣告でもするようにいった。
――あんたのところに行くしかないわねえ、こうなったら。
――何が?
妙な胸騒ぎがした。
――家宝。
叔母の言葉は簡潔だった。
――カホウって、家の宝と書く家宝?
――そうよ。他に何かある? 果報は寝て待てのカホウ? 残念ながらその果報とはとうていいえない家宝よ。
が、それにしても、家宝とはなにやらものものしい響きではないか。
――そんなものがうちにありました?
――あったのよ。
叔母はうんざりしたような声で答えた。それから、
――私のところには夫の母もいるし、近所に住んでる共働きの娘は、三人目の孫を生んだし。
叔母が何のことをいっているのか分からなかった。瞬きもうなずきもせず、私は叔母の話の続きを待った。
――今年はPTAだって町内会の役員だって引き受けているのよ。
叔母は弁解がましく続けた。
――他にもお中元お歳暮の手配に礼状、病気見舞いに葬式結婚式、年賀状書きに上の孫の塾や姑の病院通いの送り迎え。生協の世話役に、婦人部の宴会係。孫の友達呼んで誕生日のパーティだって。
ほとんど怨念のこもったような声でお経のように続けたあと、
――ね、大変なのよ、所帯を持つって。
急にやつれて隈の出来た顔をこちらに向けた。
――叔母さん、それと家宝とどういう関係が。
――だから私には家宝にさくゆとりがないってことなの。
――それなら売ってしまえばいいじゃないですか。
――売れないわよ。
――でも物好きな人がいるかもしれない。古い物なんでしょ。
――古いことは確かに。それは折り紙付き。
――だったら。
――売れないわよ。だってぬか床だもの。
――ぬか……どこ?
まさか、聞き間違いだろう。私はそう思って聞き直した。
――ええ、そうよ、ぬか床。
――それって、あの、ぬか漬けの。
――そう、他にどんなぬか床があるのよ。
なんで、そんな物が家宝になりうるのか。私は目を見開いて黙って叔母を見つめた。
――なんでそんなものが家宝なのかって、聞きたいんでしょ。
近眼の叔母はじりっと私に近づいてそういった。私は反射的にうなずいた。
――その昔、駆け落ち同然に故郷の島を出た私たちの祖父母が、ただ一つ持って出たもの、それがこのぬか床。戦争中、空襲警報の鳴り響く中、私の母は何よりも最初にこのぬか床を持って家を飛び出したとか。
――身を挺して守り抜いたってとこが家宝の所以なわけね。
――そのとおり。
――でもたかがヌカミソにさくゆとりがないってどういうこと?
――しっ。
叔母は急に緊張した顔になって辺りを窺った。
――二度と『たかが』なんていったらだめよ。
解せない。私はふと思いついて、
――ああ、ぬか床は毎日手入れしなくちゃいけないって聞いたことある。そのこと?
――ええ、それもある。
――でも、もう叔母さん一人だけなんだし、誰も文句いいませんよ。面倒だったら捨てちゃえば。
――捨てられるぐらいだったら苦労しないわよ。一回でも手入れを怠ってごらんなさいよ、大変なことよ。
――臭いの?
――うるさいのよ。文句をいってくるの。私、今度のことで時ちゃんの所へ来て、まず大慌てでしたことは、ぬか床の在処を探って、掻き回すことよ。
ぬか床が文句をいう? 私はもう一度叔母をまじまじと見て、正気を疑った。こういう冗談をいう人だっただろうか。
――おかしいんじゃないかと思ってるんでしょ。
私はまた反射的にうなずいた。何といっても血が繋がっているせいか察しがいい。叔母も同じようにものわかりよくうなずき、
――無理もないわ。でもほんとのことなの。代々の女たちに毎朝毎晩かしずかれて、すっかりその気になったのよ。しかもどうやら代々の女たちの手のひらがぬかになじんでいるせいで、念がこもっているのよ。

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