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チェーホフを楽しむために
阿刀田高

『かわいい女』『桜の園』『三人姉妹』などの作品で日本人に馴染みの深いチェーホフは、著名な劇作家で医者、端正な外見のプレイボーイだった。小遣い稼ぎのために書いた500以上の短編は、男女の様々な人生をペーソス溢れるユーモアでくるみ、読者をひきつける。それまでの文学とは異なる手法を追求した文豪の魅力的な世界を、同じく短編の名手阿刀田高が読み解く。アトーダ式チェーホフ入門書。

ISBN:978-4-10-125532-3 発売日:2009/01/01


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チェーホフを楽しむために
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アントン・チェーホフ、まことに、まことに知恵豊富な人であった。
医者であった。作家であった。病気持ちであった。肺結核と痔疾である。ずいぶんと悩まされた。
生涯を通して手紙をたくさん書いた。短編小説を五百数十編(正確には数えきれない)書いた。戯曲も〈かもめ〉〈ワーニャおじさん〉〈三人姉妹〉〈桜の園〉著名な四大作のほかに十作を越えて創った。流刑の島サハリン(樺太)に旅して入念なドキュメントを綴った。どれもこれも書いて、書いて、書きまくった。
人と会話をすることが好きだった。と同時に嫌いだった。相手次第、気分次第……。手紙では直截な意見を述べるが、その意見が数日前の話とあるいは数日後の話と微妙にずれていたりして、真意をつかむのが結構むつかしい。言ってみれば韜晦趣味。女性相手には特にこれが目立つ。相手は辛いね。女性には関心が深かったが、性的な欲望は控えめだった。チェーホフにかかると馬鹿な女は自分がどう思われているか、つまり好かれているのか嫌われているのか、わからない。奥の手をちらつかせてもチェーホフは、その手には乗らない。優しい人柄であったが、困ったおじさんでもあったろう。
が、それはともかく、アントン・チェーホフは一八六〇年に黒海の北のアゾフ海に面した港町タガンローグで生まれた。没年は一九〇四年。日本の暦なら万延元年から明治三十七年まで。生涯はおおむね明治期にすっぽりと含まれている。四十四年の短い命であった。
ロシアについて言えば、ロマノフ王朝の末期。農奴解放令が一八六一年に発せられ、ご存じロシア革命は一九一七年に起きている。チェーホフの生涯はここにすっぽりと含まれている。解放令が発せられたからといって下層階級の生活が急に好転するわけではない。あい変わらず貧しく苦しい。チェーホフは、こんな時代に下層から身を起こし、
――少しはよいことが起きるかもしれない――
と、それとは知らずに革命を感じ、かすかな光を望みながらひたむきに生きたのではなかったろうか。
チェーホフの作品はつねに暗い。鈍色を帯びている。が、どこかに光がある。遠い希望がちらついている。作品の構成そのものが生きた時代を反映している、と言ったら、うがち過ぎるだろうか。
話を元に戻して、アントン・チェーホフの祖父は農奴であった。すなわち奴隷に近い農民階級である。しかし、この人には才覚があり、努力の人でもあったろう。金銭を蓄え、農奴解放令以前にみずからの金で領主から自由の身分を買い取った。家族の中で娘一人分の代金が足りなかったが、領主が、
「まあ、いい。まけてやる」
この好意で一家六人が自由になったとか。
チェーホフが生涯のところどころで出自の卑しさを(いろいろな意味をこめて)呟くのはこんな事情があってのことである。祖父の才覚と努力の資質はアントンの血にも伝えられたと見てよい。
この祖父の次男パーヴェルがアントンの父である。文豪チェーホフは、正しくはアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフという名前だがこのパーヴロヴィチは父の名を示すものであり、パーヴェルの子くらいの意味、これがロシア式命名の習慣であった。
パーヴェルもまたなにほどかの才能を持ち、上昇志向の持ち主だったろう。信心が深く、また音楽を好んだ。
――これからは読み書きができなくてはいけない――
子どもたちに教育を受けさせたのは出色であった。
とはいえ貧しい階級の知恵には限界がある。
深い信仰も精神の淘汰より形式の尊重に向かい、とかく教会の行事で目立つことを好んだ。自分の家族たちを聖歌隊に仕あげて厳しい奉仕を課した。加えて家庭内では専制的父権の行使である。父ちゃんだけが偉いのだ。母も子もどなられ、なぐられ、恐れおののいて従うよりほかにない。彼は雑貨商を営んでいたが、子どもたちはやたら店番をさせられ、その一方で聖歌隊の務めを強制され、そのうえ学校の成績がわるければ怒られる。つらいことばかりで、後年アントンが「私の子ども時代には子ども時代はなかった」と述懐したのも頷ける毎日であった。子どもらしい楽しさを味わうことなどないに等しかった。
とはいえアントン・チェーホフという存在は“すべて父親を反面教師とすることから成った”という指摘もあって、逆説的には父の影響はきわめて大きかったと言ってもよいだろう。たとえば文豪は一貫して宗教に懐疑的であった。人間関係には父親とはちがって充分な配慮があったし、家族にはなべて優しかった。文学そのものさえもが(父の影響など考えにくい分野のはずだが)独善を排し、寛大で、つつましやかを旨としているところがあった。
アントンは三男坊。幼くして死んだ妹を除けば上に長男アレクサンドル、次男ニコライ、下に四男のイワン、長女マリヤ、五男ミハイル、両親のもと五男一女の家族構成であった。
父のパーヴェルは(祖父がそうであったと同様に)子どもたちの世俗的な安定を期して教育には関心があった。兄弟の下のほうについては、成長したアントンが面倒を見た時期もあったのだが、それとはべつに家族の中に知的な関心と資質があったことは疑いない。アントンだけではなく、ほかの兄弟も作家、画家、教師など知的な職業に就いている。農奴の孫であったことを思えば、これは注目されてよい事実だろう。
チェーホフが生まれ育ったタガンローグはドン川の河口に近く、ドン川はドネツ川やヴォルガ川に通じている。河川による輸送が盛んであった頃には、ロシアの南部と黒海を繋ぐ交易の要所として栄え、とりわけギリシャ系の商人が羽ぶりをきかしていたが、アントンが生まれた頃には港が大型船の投錨に適さず、鉄道の発達などもあって衰えを示し始めていた。父パーヴェルは衰退する町で不如意をかこちながらアントンをギリシャ系の学校へ通わせた。
体罰、店番、聖歌隊、この三つがチェーホフ家の幼い兄弟たちの苦行であったことはすでに述べた。父親は商売にはあまり熱心とは言えず、ともすれば粗悪品を並べて商ったりする。いくら信仰心があっても大ネズミが飛び込んで溺死した油樽の油を司祭に祈ってもらい、
「浄めてもらったから、かまわん」
と売ってしまっては客足が遠のく。万事がこんなふうだった。街にはならず者が多く、みすぼらしい店で夜遅くまで幼い子が店番をするのは楽ではない。あいまを縫って勉強をしても身が入らず、成績がわるければ父の仕置きが待っている。聖歌隊のほうは、兄弟たちはみんな声がよく、教会では評判がよかったけれど、
「よし、よし、もっと褒められろ」
厳しく、たっぷりと練習をさせられ、怠ければ、また鉄拳だ。つらいことばかりだった。長兄のアレクサンドルは父にさからったが、アントンはそれでもおおむね父の命令に、
――厭だなあ、ひどいなあ――
と思いながらも順従であったらしい。この種の反抗は、どの年齢で、どういう扱いを受けたかによって、おおいに異なるだろう。つまり子どもが成長していれば、父に対する抵抗も大きくなる。父のほうもうかうかとなぐったりすると反撃を受けるかもしれない。アントンは年齢的に父にさからいにくかったろうが、同時に人一倍心の優しさがあって両親や兄弟たちに格別な配慮をめぐらしていたようだ。母エヴゲーニャは夫の横暴にひたすら耐えているような古風な女であったが、アントンには期待をかけ、おおいに頼りにしていた。そして、あるとき、この母親は、
「私がまだ小さいときのことだけど」
と少女の頃の体験を話してくれた。

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