不味い!



   はじめに


 世に美味いものの話を書いた本は数々在っても、不味い食いものの本はほとんどない。これは、現代だけのことかと思って、過去に出された食に関する古文書や出版物を捜して見ても、どうもそのような本には出合わない。いつの世でも人は美味しいものへの憧れや希求、願望を抱いていても、不味いもののことには触れたくない生理的本質を持っているからであろう。
 しかし、美味しいものというのは、逆説的に考えれば不味いものがあるからこそ、それに対比して語られるのであって、そう考えると、不味いものの存在は、実は味覚文化の中に在っては大切なことのひとつと言えなくもないのである。
 食べものの美味さ、不味さは料理に使う材料、料理する人の技量や腕前により決まるのは当然だが、料理人の手元を離れても、それが口に入るまでの過程で不味くなったり、その他さまざまな環境によって変化することがある。また、作る人、あるいは食べる人の心理状態によってもそれが決まるなど、実に多くの要因に左右される。今日の食べものや飲みものには、物質文明や爛熟した社会の中で溢れんばかりに美味いものがある反面、驚くほど多くの不味いものも現実的にあるのである。
 人が美味しいものを食べたいのは当り前のことで、不味いものを自らすすんで求める人など居ない。つまり「不味い」という負のそれは「美味しい」という言わば正の食文化に対して、攻撃的にして破壊的、否定的性格を持ったものであり、「不味さ」はそれが故に、常に標的となる宿命を持ったものなのであろう。
 本書で「不味い」食いもの、飲みものの話を述べるのも、決して興味本位からばかりではなく、さまざまな不味さとの対決を通して、一体、その本質はどこに宿っているのか、また原因や要因は何なのかを知ることにより、美味さとは何であるかを知るところにあるのだ。そこから、美味いものとは一体何なのかを考えてもらえれば、本書の役割は十分である。



   観光地のお膳

 旅に出ての楽しみは、風光明媚な景色を楽しんだり、名所旧跡を訪ねてみたりするほかに、何と言ってもその土地ならではの料理を味わうことにある。山の中にある観光地では、春は山菜料理が楽しめ、秋は茸料理に舌鼓が打てるし、海岸に面したところでは、常に新鮮な魚介類に頬っぺたを落とすことができる。とにかく、その土地で調達した食材というのは、正に新鮮そのものであるから、その地に行ったらそこで育くまれてきた料理を食べるべきであろう。これが旅をする者の心掛けでなければならない。
 ところが、だ。旅人がそのようなものを食べたがっているのに、最近の旅館やホテル、民宿では、まあどこに行っても食えるわい、といった料理を出してくるところが目立つようになったのは面白くないことである。
 先日、講演に行って伊豆半島のある有名な海岸温泉地のホテルに一泊した時、懇親会の膳に出された料理を見て唖然とした。あまり活のよくない赤黒くなったマグロとおぼしき刺身、ハマチと思われる乳白色の刺身が小さな皿に盛ってあって、さらに、伊豆半島では漁れる筈のない鮭の半分凍ったような刺身もその皿に合わさっているのには笑ってしまった。実は最近、こういうミスマッチ刺身が多いのだ。
 そして、それ以上に驚いたのは薄っぺらなトンカツであった。皿の上に繊切りキャベツが敷かれていて、その上に厚さ一センチぐらいのトンカツが切り分けられてのせられている。切り口を見ると、厚い衣の中に、わずかに豚肉らしきものが見うけられる。なんでここでトンカツ食わなきゃならないの?と料理長やホテル経営者の考えを聞いてみたくなる思いに駆られた。天麩羅もあったが、これも実に愉快であった。カニ足の天麩羅かと一瞬感心してみたものの、中身はカニ風味蒲鉾であったし、また近くのスーパーあたりで買ってきたのか、疲れきってぐったりしたエノキダケの天麩羅も入っていた。天麩羅の衣は、パリッと揚がっているのが大切なのだけれども、グチャッとして油まみれになっている。
 お膳の左側に小さな鍋が用意されていて、ここは伊豆だから、これはきっと金目鯛の切り身の入った寄せ鍋かと思って、心ときめかせて蓋をとってみると、これも傑作でありましたなあ。豚肉の切り身に薄く切った鮭の切り身、エノキダケ、ネギ、豆腐、ギンナンの実がスープの中に浸っていたのである。もういよいよこれは駄目だ絶望だと思いつつも、お膳の右側の大き目の皿に置かれたアルミホイルに包まれている料理に最後の望みを託して、これはきっと車エビの塩蒸しではあるまいかと、再度希望的観測を抱きつつ、その包みを持ち上げると、その希望は絶望へと変ってしまった。アルミホイルを開かなくとも中身がわかったのは、手に持ったところが、鶏腿の骨であったからである。ど、どうして伊豆の海を見ながら俺は鶏肉の腿焼きを食わねばならないのかと、またまた悲しくなってしまったのである。
 結局よくよく考えてみると、別に伊豆まで来て食わなくてもよいものばかりであって、そこには旅の情緒も楽しさも無いものばかりであった。料理人も経営者も、サービス精神を大いに発揮して、旅人の心をとらえるような、プロらしい仕事をして欲しいものでありますなあ。
 ところで、鶏腿肉焼きについては別の旅でもひどいものと出合った。表面、とりわけ皮の部分がこんがりと狐色に焼かれていて、とても美味そうに見えたので、行儀は悪いが豪快に食いたくてその腿肉を両手で持ってガブリ、とやった。すると、歯に当った鶏腿肉の感触は思ったより柔らかく、歯は肉にズブリと入った。そこでムンズと手で肉を引っぱり、腿肉を食いちぎってむしゃむしゃと噛んで、まあ、どうという味ではないが、柔らかいのがいい、などと、ふた口目をかぶり付こうと、その腿肉を目の前に持ってきて、ああああ~っと目をむいてしまった。食いちぎった肉のところから血がたれてきているのである。あの時はびっくりしましたねえ。これじゃ噛んだとたん柔らかだった筈で、その腿肉は立派な生焼けだったのである。俺があらためて口の中の肉をモグモグと味わうと、やや軽い塩っぱさの中に鉄の錆びたような匂いがあって、それはまぎれもなく生血からのものだった。すると、一遍にその鶏肉に不味さを感じて、無性に腹が立ってきたのであった。勿論、焼き直してもらって全部をペロリとしたのだが、後味も不味かったなあ。
 旅館でも民宿でも、朝のご飯の時に繊切りキャベツの上に薄っぺらなハムが載っていることが多い。ご飯に味噌汁、納豆、焼いたアジの開き、海苔、生卵、漬け物といった日本の朝食の定番に、ハムが出るのもやや違和感が無いでもないし、しかも、そういうハムには、不味いものが多い。何となくハムらしくなく、口に入れて噛むと不思議な粉っぽさと、パラパラとちぎれる寂しい感覚がそこにあるだけなのである。できることならそのハムの代りに小さくてもいいから冷奴か湯豆腐を付けて欲しいなあ。どうして日本式の朝食にハムを出すのか知らないが、推察すれば、ハムは料理せずに皿に盛って出すだけでよく、面倒臭くないからなのかも知れない。また、今のハムはほとんど合成着色料を加えているのでピンク色が美しく発色し、見た目によろしいというので色どりのためにも使われているのだろう。まあ、若い学生さんたちの団体旅行という場合は、ハムの好きな人も多いから良いのかも知れないが、それにしても年輩の人の朝食にハムは必要ないと思うがなあ。老人クラブや敬老会の団体客の朝食に、ハムにマヨネーズが添えられて、それが定番メニューの中に出たのではどうも様になりませんねえ。朝食に限らず、要は客層に合わせて、喜ぶような料理を出して欲しいということである。
 そういう意味では、これまでずいぶん違和感と申すのか、いっそ出さない方がいいのではないか、というものにずいぶんと出合ってきましたなあ。ある時、山に囲まれた静かな温泉の夕食に出されたアジのフライが、実はよくよく観察してみると干物を使っていたなんていうのはひどすぎるものだったけれども、どこでだったか、ハムフライが夕食の膳に出て、衣の中に薄っぺらなハムが入っていて、ていねいにもそのフライの上にべったりとトマトソースがかけてあったのにも驚いた。その隣には赤黒っぽいマグロの刺身が据えられていたものだから、余計に違和感を覚えたのであった。海岸に面するある旅館の夕食にメンチカツが出され、その隣にメバルの煮付けがあったが、その煮付けの方にばかり食指が伸びたのは、要するにメンチカツは不要というのか、むしろ邪魔になるだけで、雰囲気的にはもう全体が台なしで許されない夕食になってしまうのである。メンチカツを出すぐらいなら、小アジの開きなんていうのを焼いて出してもらった方がよっぽど嬉しいのに。
 さらに馬鹿な!と思ったものに出合ったのは、やはり海の近くのホテルの夕食で、刺身や潮汁といった嬉しいものの脇に、西洋皿の上にキャベツの繊切りが散っていて、その上にスパゲッティ・ミートソース、さらに油でコロコロと炒めたウインナーソーセージが二本のっていたのには唖然とした。そんなもの余計なお世話で、ここでも、そのスパゲッティやウインナーソーセージの代りにせめてサザエの壺焼きの一個も出してもらいたかったなあ。心が籠っていませんねえ。
 観光地での夜の宴会や食膳に最近、ミニ鍋料理が出されることがよくある。お膳の脇に、蓋をされた小さな土鍋が据えてあって、中にさまざまな具が入っている。鍋の下には火を付けると燃え上る青い色の固型燃料が置いてあり、それを燃やして鍋を温め、食べるというものである。多くの場合、寄せ鍋形式で、出汁の中に豚肉、エノキダケ、白菜、車エビ、タラ(鱈)の切り身なんていう具が入っていて、それを煮て、ポン酢のタレで食うのである。実はこの種のミニ鍋料理でも、極め付きの不味いものと何度も出合った。その一例をあげると、山の中の温泉地の大きな旅館でのことだ。出されたミニ鍋は予想通りの寄せ鍋で、それに火を付けて、蓋の小さな穴から蒸気が吹いてきたので、出来上りだと思い蓋をとって食べはじめた。一番好きなのはタラの切り身なのでそれを食うと、かなり塩っぱくて異常に硬くて、うま味が全くない。どんどん噛んでいると今度は、ほぐれてきたタラの身の小さな肉片が歯と歯の間の隙間に入り込み、それが詰まってしまってどうにも爪楊枝が欲しくなった。そこで、割箸に付いていた爪楊枝でハーシーハーシーとやってその詰まった小片をとり出し、すっきりした。このようなタラの切り身は間違いなく冷凍もので、水揚げしたタラを切り身にしてから塩をいっぱいまぶして冷凍したものである。だから塩っぱいのは当り前で、塩で脱水された上、凍らせた時の脱水も手伝って、身が硬くなってしまうのである。
 次に大好物の豚肉に箸をつけた。と、ここで、またひどいことが起った。客に対して失礼な、という思いまで俺に起こさせた。薄く切った豚肉一切れを箸で持ち上げたら、何と何と、三枚一緒に上ってきたのである。馬鹿な!と思いつつ、よくその豚肉を観察すると、三枚の豚肉がピタリと密着している。接着剤で張り合わせたようにしっかりくっ付いていて離れない。ひどいものである。仕方ないから、その三枚合わせの肉を一旦鍋に戻し、そして左手に持った一本の箸で肉を押さえ、右手に持った一本の箸でその肉をはがそうとしたのだが、なかなかうまくいかない。こういうふうに、肉と肉とがくっ付いてしまうと離れにくいのは、急激な温度変化によってタンパク質の構造が変ってしまい、互いに固まって強く密着してしまうからである。例えば鶏卵は液状であるが、それを茹で卵にしたり卵焼きにすると、タンパク質の熱変性によって固まり、固体状になるのと同じ原理だ。つまり、この豚肉は厨房で下ごしらえする時、冷凍庫から出した後、肉と肉をちゃんとはがさずに、凍結したままを切り分けてミニ鍋に入れてしまったのであろう。すると、凍っている冷たい状態の時に急激に加熱されるのであるから、肉と肉の間にタンパク質の変性が強く起り、三枚ともピタリとくっついてしまったのである。
 指を使ったりして、やっとの思いでなんとか三枚の豚肉を離し、それをポン酢のタレに付けて食べたら、今度は肉の表面に灰汁がベトリと付いており、肉はパサパサの状態になっていて、とても不味い寄せ鍋の、あわれな豚肉となってしまっていた。おいおい、俺は客だぞ。忙しかったか、面倒臭かったかは知らないが、いくら何でも、凍ったままの肉を鍋に放り込んで、さあ食え、というのはあまりに失礼ではないかなあ。

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