そして殺人者は野に放たれる



 あとがき

 凶悪犯罪には必ず重大な「結果(被害)」が伴います。現場を訪れた警察やマスコミは、その「結果」だけは明白なので、ひたすら「なぜ(動機)」を問い、動機が不可解であれば犯罪自体が「なかったこと」にされてきてしまいました。
 これは世界的な現象なのか、そして、日本では大昔からそうなのか。私は終章でこのような問いを立て、そうではないことを示しました。

 では、なぜそのような不条理が繰り返されてきてしまったのでしょうか。その問いを抱えて取材し続け、およそ一〇年がかりで本書が成りました。
 理不尽さの原因は、主に三つあります。一つは、刑法三九条です。もう一つは、その条文を拡大適用し暴走させてきた司法界の思考停止。そしてとりわけ日本には、刑法三九条を適用された凶悪犯罪者を専門に処遇する施設が皆無だった、という事実が不条理を極限的に募らせてきたのでした。

 他のテーマなら、数週間も取材をしていれば多数の同業者に出会うものです。しかし残念ながら、「精神障害犯罪者」というテーマに真正面から挑み続けている取材者は、この一〇年間を振り返っても、日本では他に誰も見あたりませんでした。しかし、何か大きな事件が起きるたびに、この問題は浮上してきます。
 私が孤立無援だったかと言えばそんなことはなく、多くの被害者遺族、少なからぬ検察官、精神科医、マスコミ関係者からも(なぜか密かに)激励されました。刑法や司法精神医学などの各学会やシンポジウムに何度も呼ばれ、そのような専門的な議論の場でも、たくさんの質疑はなされましたが、私の主張が破砕されることは一度もありませんでした。ただし、もちろん弱点や不備も幾つかあったので、それらを補強修正する貴重な機会となったことに感謝しています。

 私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に罹患したままです。もちろん、こうした経験があったからこの本が書けた、ということはないと思います。
 ただ一〇年ほど前、「入院仲間がときどき人を殺したくなると言っている」と兄が私に話してくれたことがあり、そのとき、ああこの問題から逃げてはいけない、と自覚したのは確かです。
 犯罪や事故で遺族になった体験は、少なくとも、あらゆる事件取材を通じて被害者の存在を無視しない、という厳格な縛りをもたらしてくれたことだけは疑いありません。これは当然もつべき視点ではありますが、これまで日本の書き手は、ノンフィクションでもフィクションでも、ひたすら犯人側の「動機」に寄り添うのが常で、被害者や遺族に襲いかかる喪失感や理不尽さを描くことは、まずありませんでした。

 加えて一面的な“人権”意識から、この問題を安易にタブー視してしまうという悪循環が、これまで日本のマスコミ界にあったように思います。被害者遺族としての実体験と、身内に精神障害者がいる、という二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました。
 取材を始めたときには全く結論など見えていませんでしたが、本書『そして殺人者は野に放たれる』の執筆によって、ようやく着地できた、という実感があります。数百人におよぶ取材協力者に心から感謝申し上げ、あまりにも長い時間をかけてしまったことをお詫びしなければなりません。

 本書は、最初から単行本として世に問うことを前提に出版の話が進められてきたのですが、資料集めと取材だけは順調なのに執筆がまったく捗らない(いつもの)事態に逢着して仕切り直し、月刊「新潮45」に連載することになったのでした。
 その途中、自ら取材した犯罪の惨たらしさを正視することに堪えられず、何度も筆を投げ出したくなりながら、未だ声を上げられないでいる人々に励まされ、ようやく取材し考えた「すべて」を文章に結実させることができました。

 本書に登場する凶悪犯罪者は、特別の断りがないかぎり実名です。日本の警察やテレビや新聞は、犯罪が異常になればなるほど犯人の名を隠し、なぜか被害者の実名だけは許可も得ず報じる、という傾向が今も続いています。
 私の原則は以下のとおりです。少年犯罪者でも精神障害犯罪者でもそれは変わりません。

 一、証拠上も明らかで本人も自白している殺人者は実名表記
 二、人命に関わらない犯罪では匿名または仮名
 三、人命に関わらない被害者は原則として匿名または仮名
 四、本人または遺族の許諾がある場合にのみ被害者を実名表記とする

 甚大な被害にあってから、初めて現行刑法の不条理を知る、というのは悲しいことです。
 本書が、そうならないための一助になることを祈りつつ――。

二〇〇三年 初冬
日垣隆

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