信長街道



   まえがき

 新しい作品を書く時には、主人公ゆかりの土地を必ず訪ねることにしている。
 その人が生まれ育った土地や事件の現場に立つと、史料や研究書だけでは分らない生の声が伝わってくるからだ。
 織田信長の場合もそうだった。
 日本経済新聞に連載した『信長燃ゆ』(現・新潮文庫)を書くために、生誕の地である名古屋から最期を迎えることになった本能寺まで訪ね歩いた。
 安土城大手道の石段に立った時には、規模の大きさと幾何学的な美しさに圧倒されたし、急な坂道を一時間近く歩いて観音寺城跡を訪ねた時には、この道を駆け登ったという信長の健脚ぶりに驚かされたものだ。
 なかでも印象深いのは信州高遠城だった。
 桜の名所として知られるこの城では、甲斐、信濃の制圧を目ざす織田軍と、これを食い止めようとする武田軍との間で激戦がくり広げられた。
 五万とも六万ともいわれる織田軍に対して、仁科五郎盛信は三千余の兵をひきいて敢然と立ち向かい、全員玉砕して果てたのである。
 満開の桜の下に立ち、純白の雪をいただいた駒ヶ岳をながめていると、主家に殉じた者たちの心情が思われて哀れでならなかった。
 信長がこの城に陣を張ったのは天正十年(一五八二)三月十八日だから、桜も満開だったのではないだろうか。すでに七日前には武田勝頼は滅亡しているのだから、駒ヶ岳さえ我が物のように感じたことだろう。
 信長が武田征伐をやすやすとなし遂げることができた背景には、信濃の領民が信長を支持したという事情があった。
 織田軍が木曾口から侵攻すると、領民たちは自分の家に火をかけて投降した。
 武田家の圧政に苦しんでいたので、内心は織田家の領民になりたいと望んでいたからである。
  〈内心は、信長の御分国に仕り度しと、諸人願ひ存ずる砌に候間、此の時を幸と、上下御手合せの御忠節仕り候〉
(太田牛一著『信長公記』、桑田忠親校注、新人物往来社)
領民たちが御分国(領国)になりたいと望むほど、楽市楽座や関所の廃止などを断行した信長の政策は支持されていたのである。
 戦国時代は下克上の世といわれる。
 下克上とは、下層の民が上位の者たちの支配を打ち破るという意味である。
 その体現者である信長は、今日風に言えば革命家であった。その政策は上に厳しく下に手厚いものだったがゆえに、多くの民衆の支持を得ることができたのである。
 信長の生涯を戦国大名の合戦譚としてではなく、革命のための戦いという視点からとらえると、彼の行動の意味がより明確に見えてくる。
 彼が直面したのは日本という国のあり方そのものに関わる問題であり、今日の我々にも多くの示唆を与えてくれるのである。
 しかも信長は、圧倒的な力で押し寄せてくる西欧列強と対峙することを余儀なくされた、わが国初の為政者でもあった。
 第七紀行でも触れたが、信長が建造した長さ三十間もの大船は、西洋のガレオン船の技術を導入して造ったものに間違いあるまい。
 つまり、信長は合戦に勝ち抜くためにイエズス会から技術的な援助を受けていたということになるが、その代償として支払ったものは決して小さくはなかったのである。
 本書は信長の足跡を訪ね、天才なるがゆえに苦難の道をたどらざるを得なかった彼の生涯に迫ろうと試みたものである。
 浅学非才の身ゆえ十全を尽くしたとは言い難いが、共に旅に出て信長の時代に触れていただけるなら、これに勝る喜びはない。
 それではまず、信長のゆりかご津島へどうぞ。