魂萌え!〔上〕



「ところで、あなた。お名前は」
「関口敏子と申します」
「お歳は」
 風呂の中で伝えたはずなのに、と思ったが、敏子は素直に答えた。
「五十九歳です。来年還暦になります」
「まだ、お若いわ。あなた」
 宮里が羨まやしそうに首を傾げた。上品な仕種だった。
「宮里さんはお幾つなんですか」
「あたしは七十六です。来年、喜寿。すみませんね、あたしばっかり話してしまって。敏子さんは何か悩みがおありになるの。お幸せそうな奥さんなのに」
 話を聞くだけで一万円、と宮里は言っていた。是非、聞いて貰おう、と敏子は決意した。
「一万円お支払いいたします。どうぞ私の話も聞いてください」
「いいですとも」
 宮里は鷹揚に頷いた。敏子は、二カ月前に夫が突然亡くなり、それだけでも打ちのめされたのに、夫の愛人の存在が発覚したこと、長男がアメリカから帰って来て、同居を迫っているため、悩んでいることなどを包み隠さず話した。伊藤昭子について話す時は、不覚にも涙ぐんでしまった。すると、宮里が背中をさすりながら、囁くのだった。
「いいのよ、敏子さん。お泣きなさいよ。泣かないと、あたしみたいに失声しますことよ」
 エレベーターが開いては、泊まり客が戻って来たり、新しい客がチェックインしに来た。ほとんどが、昨夜見かけたような若い女で、これから夜通し遊びに行くのか、皆、張り切って見えた。が、敏子は一人、ソファで涙ぐんでいるのだ。宮里は慰めるようにゆっくり言った。
「あなたのお話はよーくわかりました。辛い思いをなさったのね。それも、苦労を知らない奥さんだったから、ショックが大きいんでしょうね」
 その通りだった。何も知らずに、気楽に暮らしてきただけに、子供たちでさえも何を考えているのかわからないと知った時の心許なさは言葉にできないほどだった。
「敏子さん、あなたがこのあたしに聞きたいことって何ですかねえ」
 宮里がペットボトルの茶をひと口飲んで尋ねた。敏子は頭を巡らせた。
「あのう、私にとって一番怖いことって何なのか、考えてみたんですが、それは歳を取ることなんだと気付いたんです。だから、歳を取るってどういうことかと思って」
 宮里はしたり顔に言った。
「はいはい、よーくわかります。あなたがどういう年寄りになるのか、誰にも想像できませんものね。心配ごとは山ほどありますわよね。病気で寝込んだら、誰が世話をしてくれるんだろう、その時、お金はいくらかかるか、そして、呆けたらどうしよう、と。あたしたち夫婦も、よくそんな話をしましたよ。蓋を開けてみたら、結局、先に逝った方が勝ち。あら、ごめんなさい。お宅もそうでしたわね。あなたのところは、突然亡くなられたんでしょう。まだお若いから大変だったでしょうが、ポックリはいいですよ。うちなんか、患ってからが長かった。我儘放題言って、医療費をさんざん遣ってお金はすっからかん。なのに、最期はあたしに手を取られて安らかに死んでいったんですよ。あたしに何もかも押し付けて。押し付けられたものの中で、最も重いのは借金じゃないんです。生きていくことです。残された人間は、たった一人で老いを生きていかなきゃならない、ということです。老いという初めての経験を一人で迎えるのは怖いですよ。あたしは、きっとそのことに絶望して自殺を考えたんだと思いますよ」
 敏子は、あまり答えになっていないと思ったが、一応真剣に頷いた。宮里が破顔した。二本しか残っていない前歯が目立った。
「つまりは、諦めですよ。諦めて淡々と生きるしかないでしょう」
 宮里は敏子の表情を横目で窺った。
「あら、何だか不満そうね」
「いえ、そんなことありません」
 何を諦めるというのだろう。歳を取ることに抵抗するな、ということだとしたら、自分は今、抵抗している真っ最中なのだろうか。敏子はよくわからなくなった。
「ま、人間なるようになるわよ」
 宮里は敏子の肩をぽんと叩いた。
「あのう、宮里さん。私は一人で生きた方がいいでしょうかしら」
 宮里は敏子の目を見た。
「それは、どういうこと」
「子供と一緒にいる方が寂しくない、と思う気持ちも強くあるんです」
 敏子は羞じらいながら言った。強い宮里の前で人恋しさについて述べるのは、勇気が要ることだった。
「奥さんは、ご家族と一緒がいいですよ」
 宮里はきっぱり言った。いつの間にか、呼びかけが「敏子さん」から、「奥さん」に戻っている。
「でも、私は嫌なんです」
 敏子は、彰之一家と狭い家に住む不安を述べた。

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