新潮文庫


武打星
今野敏

武打星=アクション・スターのこと。世界中を熱狂させたブルース・リーに憧れた青年、長岡誠は、大学卒業後、徒手空拳で香港に渡った。少年時代から続けてきた空手を活かし、アジアの新たな武打星となるために――。猥雑で魅力的なこの都市で、誠は時に喜び、時に苦悩しながら、栄光への階段を一歩ずつのぼってゆく。ストーリーテラー・今野敏の魅力が弾ける、痛快エンタテインメント。

ISBN:978-4-10-132155-4 発売日:2009/01/01

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武打星


     1

 高くて狭い。
 暑くておそろしく湿っぽい。
 香港の街に立ち、長岡誠はそう感じていた。
 湿っぽさはさきほどまで雨が降っていたせいだろうか。ガラス張りの高層ビルが目の前にそびえ立っている。奇妙な形だ。ビルの中ほどに隙間がある。
 なんだか変形してロボットになりそうだな。長岡誠はそんなことを思った。
 その背後に小高い山が迫っている。鮮やかな緑だ。その山の頂上は真っ白にたなびく雲か霧に隠れている。
 周囲には、高層ビルが乱立しているが、明らかに日本の高層ビルとは違う。どこがどう違うのかはわからない。だが、どういうわけか、ひどく幻想的な光景に見える。
 いつか夢に見た風景のようだ。
 長岡誠はそう感じていた。
 「ここが中環(セントラル)だ。香港経済の中心地だな。あの山がビクトリアピークだ」
 隣を歩いていた関戸政夫が説明した。
 大学を卒業したばかりの誠から見ると、関戸はずいぶん大人っぽく見える。だが、実際は二つ年上なだけだ。
 関戸は学生の頃からバックパックを背負って東南アジアなどを回っており、今は香港に住んでいた。
「へえ……」
 誠はそうこたえるしかなかった。我ながら間抜けな声だと思う。中環のビル群に圧倒されていたせいもある。
 だが、彼は日本とは異質の空気に酔ったような気分になっていた。たしかに景色が違う。だが、空気そのものが違うのだ。
 日本を出たのはこれが初めてだった。飛行機に乗るのも初めてなら、海外の空港も初めてだった。
 生来のんびりした性格の誠も、さすがに戸惑うことが多かった。迷い、うろたえ、慌てふためき、ようやく入国管理と税関を通過した。
 出口は人でごったがえしていた。その中に関戸の顔を見つけたときは、心からほっとしていた。
「どうだ、啓徳空港に降りるときはなかなかスリルがあっただろう」
 関戸にそう尋ねられたが、誠は恐ろしくもなんともなかった。
 飛行機がビルすれすれに旋回して、滑走路に進入する。飛行機の着陸というのはあんなものなのだろうと思っていた。ほかに経験がないのだ。ただ、押せば倒れてしまいそうな細長いビルが立ち並ぶ奇妙な風景に見とれていただけだった。
 関戸は、空港を出ると誠を香港の観光案内に連れだしたのだった。なにしろ、初めての海外なので、誠はどこをどう連れ回されたのかわからない。
 バスに乗り、船に乗り、歩かされ、やってきたのが、この中環だった。
 ゆっくりとだが、晴れてきたようだ。ビクトリアピークの緑がいっそう鮮やかに見えてくる。明らかに日本の緑とは違う。濃い緑だ。
「さて、これから本当の香港に案内しよう」
 関戸が言った。
 本当もなにも、ここは間違いなく香港だろう。
 誠はそう思ったが、黙っていた。もともと無口なほうだ。余計なことを言って相手の機嫌をそこねるのもつまらない。
 関戸は、再び誠をバスターミナルに連れて行った。バスがビルとビルの間を通っていく。左手に港が見えた。
 バスに揺られて、誠はついうとうとしてしまった。旅の疲れが出たのだろうか。肉体的な疲れより精神的な疲れが激しい。
 目を覚ますと、真っ暗だったので驚いた。だが、すぐにトンネルの中だということに気づいた。
 トンネルを抜けると間もなく、港に近づいた。
 目の前に開ける光景を見て、誠は眠気が吹き飛んだ。左手に広がる港湾。そこには、水上生活者のジャンクがぎっしりと並んでいる。
 濁った湾内に浮かぶ船の上に屋根を張り、そこで人々が生活している。ジャンクには洗濯物が並び、仕事をする子供たちの姿がある。
 実際には初めて見る。だが、誠にとっては、すでになつかしい風景だった。
「アバディーンですね」
 誠は言った。関戸はうなずいた。
「そうだ。広東語では香港仔(ホンコンチャイ)」
 関戸が言ったとおりだった。
 誠はようやく香港にやってきたという実感を得た。
 そうだ。あの映画。
 誠はバスの窓に張り付くようにして、アバディーンの風景を見つめた。
 あの映画の中で、彼がここからボートに乗り出発する。
 俺が香港に来るきっかけになった映画だ。
 バスを降りると、海のにおい、果物のにおい、香辛料のにおい、そして人々の生活が発する汚臭が一気に押し寄せてきた。
 関戸が振り返り、誠に言った。
「香港へようこそ」

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