子子家庭は大当り!

 
 1

「ねえ、お姉ちゃん」
「うん」
「僕ね、今日学校の帰りにさ――」
「へえ、良かったね」
「僕、まだ何も言ってないだろ」
 と、和哉がプーッとむくれる。
「――え? おかわり? よく食べるのね」
「おかわりじゃないよ。ちっとも話聞いてくんないで」
 弟の言葉に、坂部律子はハッと夢からさめた、とでも
いう様子で、
「ごめん。――つい、考えごとしてたの。でも、聞いて
なかったわけじゃない。本当よ。学校の帰りに、どうし
たの?」
「お姉ちゃん、何だか変だよ。具合でも悪いんじゃない
の?」
「ちっとも。どこか具合悪そうに見える?」
 と、律子はギュッと腕を曲げて、力こぶなどを作って
見せた。
「やっぱりだ」
「何が『やっぱり』なのよ」
「何か心配ごとがあるんだね。そうでもなきゃ、お姉ち
ゃんがそんなことするわけないもん」
 律子はため息をついた。――全く、和哉ときたら。小
学校三年生のくせに、この勘の良さ!
 姉の立場ってもんがあるでしょうが。
「確かに、少しばかり悩みごとはあるわよ。でも、あん
たには関係ないの。だから、いちいち気にしない。――
分った?」
「うん……」
 和哉も、賢い子である。それ以上は訊こうとしなかっ
た。
「それで? 学校の帰りに何があったの?」
 と、律子はご飯を食べながら言った。
 ――坂部律子には、確かに目下のところ悩みがあった。
それも、十二歳の小学校六年生にとっては、やや珍しい
悩みだった。
 お金がない!
「一つ、いいことしたんだ」
 と、和哉は言った。「文房具屋の前の横断歩道でね、
おじいさんがなかなか渡れなくて困ってたんだよ。車だ
ってさ、ちゃんと、そのおじいさんのこと、見えてるん
だから、停ってあげりゃいいのに、と思うんだけど、一
台も停ろうとしなくてさ、僕が手を上げて停めて、手を
引いて渡してあげたんだ」
「へえ。偉かったね」
 と、律子は言ってから、「――文房具屋さんの前? 
でも、あんた、あそこを渡る必要ないじゃない。こっち
側を歩いて来るんだから」
「うん?――まあね」
 と、和哉が目をそらす。
 律子は、ちょっと笑って、
「分ってんだから。また本を立ち読みしてたんでしょ。
遅いと思った」
「そうじゃ……ないわけじゃないけど」
 と、ややこしい言い方をして、「でも、そのおじいさ
んを渡してあげたのは本当だよ。とっても喜んでくれて
さ、これ、くれたんだ」
 和哉が、ズボンのポケットからクシャクシャになった
紙きれを取り出す。
「何よ、それ?」
 と、律子が手を伸ばし、「――これ、宝くじじゃない
の」
 広げてみると、確かにオモチャでもないらしい。
「そう。何枚も持っててさ、そのおじいさん。お礼に一
枚あげるから、どれでも好きなのをお取り、って言われ
て……。中の一枚、自分で抜いて来たんだ」
「ふーん。ま、いいことしたわけだから、それはそれで
偉い」
 と、律子は言った。「じゃ、これ、あんたが持ってな
さい。あんたがもらったんだから」
「僕じゃ、失くしちゃうもん。お姉ちゃん持っててよ」
 和哉も自分のことはよく分っているようである。
「分った。――当るといいね」
 と、律子は言って、その宝くじをテーブルに置いた。
「一等は一千万円だよ。凄いよね。僕、当ったら、何買
おうかな」
「当ったら、あんた、ケチだから、きっと全部貯金する
とか言い出すよ」
「いやだよ、そんなの。僕、油絵の道具買って、パリに
行くんだ」
 絵の好きな和哉は、実際なかなかうまい絵を描く。
「当るように祈っとこ」
 と、律子は肯いた。
「僕も、ちゃんとナンバーを手帳に書いといたから。発
表は来週なんだよ」
 結構本気で楽しみにしているらしい弟を見ながら、律
子はもちろん、それを冷やかしたり馬鹿にしたりするよ
うなことはしない。
 ただ、「当ったらいいのに」と切実に思っているのは、
むしろ律子の方だろう。
 坂部律子と和哉の姉弟は、目下のところ二人だけで暮
している。
 世に「父子家庭」とか「母子家庭」は少なくないだろ
うが、この坂部家は、いわば「子子家庭」。
 父親は、実直な勤め人だったが、会社の違法献金が発
覚したとき、一人でその責任をかぶって逃亡。――逃げ
た先々で働いては、少しずつ送金してくれる。
 しかし、父親も、まさか自分が家を出たその同じ日に、
妻の由紀子――つまり、律子たちの母親が、前から付き
合っていた恋人と駆け落ちして姿をくらましてしまった、
とは思ってもいないだろう。
 おかげで、小学生の姉弟は誰の助けも借りずに――多
少は律子の親友、江田香織が力になってはくれているが
――暮していくはめになっていたのである。
 そう……。それにしても、困った!
 責任感が強く、力も強い(?)律子としては、家のこ
とや弟の面倒をみること自体は嫌いでない。むしろ楽し
んでやってしまうくらいだ。
 けれども、両親ともいないということは、全くの無収
入でやらねばならないわけで、いくら父親からたまに送
金があるといっても、不定期の収入ではあまりあてにで
きない。
 このところ、父親からも送金がなく、もともと大して
残っていなかった貯金も、底をつきかけている。律子も、
考えられる限りのバイトをして稼いでいるが、小学生で
はたかが知れている。
 いつもは元気一杯、くよくよしていることのない律子
が、珍しく考え込んでいるのは、そのせいだった。
 ――宝くじか。
 本当に、一千万円――とは言わないけど、十万円でも
当ってくれたら、ずいぶん助かるんだけど……。
 でも、もちろん宝くじなんてもの、そうめったやたら
と当るもんじゃないってことは、律子も承知している。
本気で「当ってほしい」と思っているわけじゃ、むろん
なかった。
 ただ、万に一つ――もしかして、ってことぐらいは、
律子だって人間だから、考えないでもなかったのである。
「――おかわり」
 と、和哉が言って、「お姉ちゃんのおかわりする分、
ある?」
「あるわよ、それぐらい!」
 本当に、気が回り過ぎるんだから、この子は。
 律子は、ついため息をついてしまったのだった……。

「――分った。いいよ」
 と、江田香織は即座に言った。
「ごめんね」
 律子は、香織と並んで帰り道を辿りながら、「できる
だけ早く返すから」
「いいよ、いつでも」
 香織は首を振って、「それくらいなら、私、自分の口
座の貯金から出しておけば、パパにも知れないですむわ。
いつまでにいるの?」
「いつ、って……。まあ、いつでもいいけど――」
「はっきり言ってくんなきゃ、そういうことは。早い方
がいいんでしょ」
「うん……。まあね」
「じゃ、今日帰ったら、すぐ近くの銀行に行って、カー
ドでおろしとく。それだけで足りるの?」
「大丈夫。感謝するよ」
「よして。少々のお金の貸し借りくらいで、律子と私の
仲がどうかなるなんてこと、ないでしょ」
 そう言われてしまうと、律子の方も黙っているしかな
い。
 ――下校時、少し空は薄ぐもり。
 律子の気持のような空だった。
 同じクラスの江田香織とは、正反対のキャラクターだ
が、なぜか気が合う。
 香織は、律子の家の事情をすべて理解している、賢い
子である。それに、大金持の娘としてのマナーも身につ
けているのだ。
 律子は、これまで何とか香織のところに助けを求めず
にやってきた。それが今日初めて、
「お金、少し貸してくれない?」
 と、散々迷ったあげくに言ったのだった。
 もともと香織の方は、以前から「援助させて」と言っ
ていたのを、律子が断っていたのだ。だから、律子が頼
めば香織がいやと言うわけはない。
 でも、そうと分っているからこそ、律子としてはため
らってしまうのである。
「律子って、本当に頑固なんだから」
 と、香織は笑って、「どうしても気になるのなら、今
度、うちの片付けのとき、手伝ってもらおうかな」
「いつでも言って!」
 と、律子は張り切って言った。
 何しろ、体も大きく、力自慢の律子である。
「――あ。律子。あれ、和哉君じゃない?」
 と、香織が指さす方を見ると、
「本当だ。あいつ、どこに行ってたんだろ?」
 車道の向う側に、和哉が何だかぼんやりして立ってい
る。
「またどこかに寄り道してたんだ。――和哉!」
 律子の声も、和哉の耳には入らなかったらしい。それ
でも、何となく自分の名を呼ばれたと思ったのか、ふっ
と我に返った様子で、急いで車道を渡ろうとする。そこ
へ、トラックが飛ばして来ていた。
「――和哉!」
「和哉君、危い!」
 と、香織が叫んだときには、もう律子が飛び出してい
た。
 そして、弟に猛然とぶつかって行き、二人はもつれ合
うようにして転んだ。次の瞬間、急ブレーキの音が鋭く
鳴って、通りかかった人たちの足を止めさせた。
「律子! 和哉君!」
 香織は、急いで二人の方へ駆け寄った。
「大丈夫かい?」
 運転席から、初老の運転手が顔を出して、心配そうに
言った。
「大丈夫です。ごめんなさい」
 律子が立ち上って、和哉の手を取り、立たせながら言
った。「この子がよく見てなかったから」
「気を付けてくれよ。こっちもいやだからね」
 と、穏やかな運転手で、「いくつだい、坊や? 小学
生だろ?」
「三年生です」
「三年か。うちの孫と同じだ。――何ともなくて良かっ
た」
 運転手が、小さく手を上げて見せ、トラックはそのま
ま重そうに一揺れして走って行く。
「――膝、すりむいたよ、律子」
 と、香織が言った。「うちにおいでよ。消毒しなきゃ」
「大丈夫。大したことないよ」
「だめだめ。――和哉君は? どこかすりむいたりして
ない?」
 すると、和哉は、
「――死んじゃった」
 と言った。
「何言ってんの。死んじゃいないでしょ、あんた。でも
ね、気を付けて歩かないと、もう少しで――」
「そうじゃないよ」
 と、和哉が首を振って、「あのおじいさんが死んじゃ
ったんだ!」
 と言うなり、泣き出した。
 律子と香織は、わけが分らず、呆気に取られて顔を見
合せるばかりだった。
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