流しのしたの骨


 私たちの母は、昔からずっと、朝父を送りだすと化粧
をし、夕方父が帰ると化粧をおとして出迎えた。父は、
帰る前に駅から必ず電話をかけてよこすので、母が化粧
をおとすタイミングに腐心する必要はなく、化粧をおと
したあと、母は冬でもつめたい水で顔を洗って化粧水を
つけるので、父を出迎えるときの母の顔はいつも頬が赤
く、清潔でぴかぴかしているのだった。
 私はそれをとても奇妙だと思っていたが、二人の姉や
小さな弟の目には、ごく普通の光景に映っているらしか
った。慣れているのだ。かーさんはそういう人だもの。
いつだったかしま子ちゃんはそう言った。
 私たちがまだ小さかった頃、母は私たちを連れてよく
動物園にいった。朝父を見送ったあとに急に思いたち、
私たちに学校を休ませてでかけることもしょっちゅうだ
った。母は動物園を愛していた。
 動物園にいくのはきまって冬だった。それもうっそり
と曇ったおそろしく寒い日で、ときには小雨が降ってい
さえした。母は黒いスウェードのハーフコートを着て、
衿元にあかるいオレンジ色のスカーフをのぞかせていた。
動物園はがらがらで、動物たちはみんなどんよりと愚鈍
にみえた。
 そこでの母の気に入りはなんといっても縞うまで、母
は、縞うまを眺めるのにとてもながい時間を費した。次
に好きなのがフラミンゴだった。ピンク色できれい、と
いうのがその理由で、母はいったんそれらの動物の前に
立ったが最後、数十分石のように動かないのだった。
 私たちは少し離れた場所で、けんけんぱあやだるまさ
んがころんだをして遊びながら待った。小さな棒きれを
拾い、それで柵をからからとこすりながら歩いたりもし
た。
 私たちにもそれぞれ気に入りの動物はいた。そよちゃ
んはオオカミでしま子ちゃんは栗鼠、私は熊で、律はハ
リネズミだった。
 動物園をでると、近くのパン屋で牛乳を買ってもらっ
た。私とそよちゃんとしま子ちゃんは、一本を三人で飲
んだ。三人ともあまり牛乳が好きじゃなかったのだ。寒
かったし、壜に直接口をつけるのも気持ちが悪かった。
壜は回収制で、何度も使うのだと知っていた。母と弟は
一本ずつ飲んだ。飲みおわると、弟は鼻が赤くなってい
た。

 深町直人とは最近知りあった。高校時代の友人が紹介
してくれたのだ。友人といっても在学中はほとんど話を
したことがなく、家が近いせいで卒業後に親しくなった。
近所のクリーニング屋の娘で、お嬢さん学校として有名
な短大に通っている。すらりと脚がながく、茶色い髪を
おかっぱにした、かわいらしい人だ。
 それで先週の金曜日、彼女と彼女の恋人と、私と深町
直人とでごはんを食べた。下北沢のイタリア料理屋だ。
クリーニング屋の娘は、
「こんなふうに一度ダブルデートというのをしてみたか
った」のだそうだ。
 スパゲティだの肉の煮込みだのを食べながら、みんな
ワインを飲んだけれど私は飲まなかった。十九歳だから
だ。どんなに馬鹿げた法律でも、法律は守らなければな
らない。私たちきょうだいは、父にそう教えられていた。
 男の子たちはおなじ大学の学生で、どちらも普通に感
じがよかった。見ためもまあ悪くない。ちょっとしたお
友だちにはもってこいだと思った。私の友人とその恋人
は、さっきからずっとテーブルの下で手をにぎりあって
いる。
「じゃあいまはなんにもしていないんだ」
 優雅だなあ、と言って、友人の恋人はわらった。去年
の春に高校を卒業して以来、そう言われることにはもう
慣れていた。はい、とこたえて私もにっこりわらってみ
せる。お水の入ったゴブレットごしに。
「バイトくらいしろとかって言われない?」
 空いている片手で器用にフォークを動かしながら、友
人の恋人が重ねて訊いた。私は首をふる。
「言われないわ。二十歳までは彼らに扶養義務があるも
の」
 男の子たちはちょっと変な顔になる。男の子というの
は、女の子が義務とか権利とかいう言葉を使うのを好ま
ないものだ。
「こと子の家族、仲がいいのよ」
 とりなすように、クリーニング屋の娘が口をはさんだ。
「家族の行事がいっぱいあって、そのたびにみんながあ
つまるのよね」
 そうなの、と言って私がうなずくと、深町直人がたの
しそうな顔をした。
「家族の行事?」
「お正月とか、お花見とか、家族みんなの誕生日とか」
「へえ。めずらしいね」
 パンをちぎりながら言う。
「なん人家族なの」
 深町直人はあっさりしたダンガリーシャツを着ていて、
それがよく似合っていた。変に日に灼けていないのも清
潔な気がした。
「六人」
 私もパンをちぎりながらこたえる。
「でも誕生日のお祝いは五回。下の姉のと弟のは一ぺん
にやっちゃうから。二人とも十二月生れなの」
「なるほど」
 私は深町直人が気に入った。
 デザートに、私はケーキを三つたのんだ。甘いものが
好きなのだ。こういうことをするとしま子ちゃんはいつ
も怒る。みっともない、と言う。でもほんとうは、私が
太らないたちなのを妬いているのだ。そよちゃんはちょ
っとふっくりしているけれど、しま子ちゃんは痩せてい
る。それなのにしま子ちゃんときたら、太ることをそれ
はそれは怖がっているのだ。
 帰りは深町直人が送ってくれた。クリーニング屋の娘
とその恋人は、もう少し飲みたいと言ってどこかにいっ
た。
「あなたのお友達は左利きなの?」
 二人になると、私はずっと訊きたかったことを訊いて
みた。深町直人はよくわからない顔をする。
「ほら、あの二人ずっと手をつないでいたでしょう? 
もともと左利きなのか、それとも彼女と手をつないでい
るために左手を使っていたのかしらって……」
 ああ、と、深町直人は納得したように言った。
「左利きだよ」
 私は感心した。恋人が左利きだとすごく便利だ。そう
感想を述べると、深町直人はわらっていた。

 ふうん。
 弟は、いったんグレイに塗りつぶされた小さな裸体の
人形に、白に近い肌色の塗料を丁寧に塗り重ねながら、
「その人は左利きじゃないの?」
 と、しずかに訊いた。
「うん」
 残念だね、と、人形から顔を上げずに言う。私は、人
形のつけるミニチュアの下着を指でつまんだ。まっ白で、
端にレースがついている。
「すごくグラマーなのね、このお人形」
 私たちの小さな律は、今年十五歳になる。だからもう
たいして小さくはないのだが、私はどうしても、律のこ
とを小さな弟と呼んでしまう。弟、と、小さな、は律に
くっついているのだ。小川軒のレーズンウィッチの、二
枚のビスケットとバタークリームのように。
 小さな律は、無口ということになっている。うちでも
そんなに喋らないけれど、学校ではもっと全く喋らない
のだそうだ。問題児というわけではないが、変り者扱い
にはされているらしい。
 これは、私たち家族には信じられないことだった。な
にしろ律は、家族じゅうでいちばん正しくバランスがと
れていて、みんなに信頼される存在なのだ。
 ただ、子供の頃の律は、たしかに少し変わっていた。
そのことをうちじゅうでいちばんよく知っているのは私
だと思う。私たちは一緒に小学校に通っていたし、私が
小学校を卒業したあとも、律をピアノ教室に連れていく
のは私の役目だったから。律はピアノが上手かった。モ
ーツァルトが好きで、二年生の発表会ではトルコ行進曲
をつっかえずに弾いた。
 ピアノ教室は電車で一つ隣の駅にあり、律が通ってい
たのは水曜日の夕方だった。冬などおもてはすっかり暗
くなっていて、ドアをあけると蛍光灯がしらじらとして
いたことを思いだす。受けつけの女の子たちの飲む、イ
ンスタントコーヒーのうすっぺらな匂い。
「ああそうだ、忘れてた」
 私はグレイのネルシャツの胸ポケットから、小さなカ
エルのおもちゃをだして律の机の上に置いた。
「あげるわ。これ」
 きのうの夜、渋谷の交差点わきで、駄菓子と一緒に屋
台にならべて売っているのをみつけて買った。きっと律
の気に入るだろうと思ったのだ。
「なに? これ」
 カエルはプラスティックでできていて、はっきりした
黄緑色だった。黄色くて平べったい足がついている。あ
ごのあたりに小さな吸盤があり、上から押すとそれが足
にくっついて、手をはなすと少しだけ遅れて吸盤もはな
れる。その拍子にカエルはかたんとうしろへ宙返りをし
た。
「おっ」
 案の定、律は目を輝かせた。人指し指でカエルの頭を
押さえては、手をはなして宙返りをさせている。一つ宙
返りをするたびに、カエルは体一つぶん後退していった。
跳びあがるときの勢いがよすぎて、元の位置には着地で
きないのだ。
「へんなやつ」
 おかしそうに律は言い、カエルをつかんでひきだしに
しまった。合格だ。カエルはたしかに弟の気に入った。
「それじゃあね」
 私がドアの方に歩きかけると、階下で電話の鳴る音が
した。父だ。すぐに母があがってくるだろう。化粧をお
として顔を洗い、化粧水で顔をぴかぴかさせるために。
「もうじきごはんだね」
 私は言い、ドアをあけた。
「ことちゃん」
 なに、と言ってふりむくと、弟もふりむいて、利き腕
のことだけど、と言う。
「利き腕のことだけど、ことちゃんが練習してみれば?
 真面目にやれば、フォークくらいきっとすぐ左手で使
えるようになるよ」
「……そう思う?」
 小さな弟は力強くうなずいた。
購入