 |
 |
オンリィ・イエスタデイ
志水辰夫

冷たい雨の夜だった、池内峻介は傷ついた女を拾った。彼女は江田美也子。公にされてはならぬ情報を握っており、政治家から追われているという。男と女による風変わりな物語が幕を開ける。冒頭は喜劇であり、やがて悲劇へとその名を変えた。権力をめぐる暗闘が出会うはずもなかった二人を引き寄せたとき、運命の歯車は軋みながら廻りはじめる――。名手が想いを込めた、恋愛長篇。

ISBN:978-4-10-134521-5 発売日:2008/03/01


| 580円(定価) |
 |
|
|
オンリィ・イエスタデイ
 |

一
冷たい雨の降る夜、池内峻介は芝浦で女を拾った。
危うく撥ねるところだった。車の前をいきなり白いものが横切ったかと思うと、つぎの瞬間ふわっと舞い上がって消えてしまったからだ。とっさにパニックブレーキを踏んだ。後輪が一瞬ロック状態になり、二トンの車体がいやな音をたてて四十メートルもスリップした。ブレーキペダルを踏みつけたまま、峻介はふーっと息を吐き出した。耳の中にぽっかり空洞ができ、車体を叩く雨音と無心に雨をはじいているワイパーの音がにわかに現実のものとなってきた。彼はサイドウインドウを下ろし、首を出して後方をうかがった。向かいの倉庫軒下に、落ちた洗濯ものみたいになって女が白く横たわっていた。
芝浦埠頭の中央近くだった。田町から旧海岸通り経由で芝浦運河を渡り、高速道路をくぐって埠頭の方に数ブロック入ったところだ。もとより周囲は倉庫ばかり。広大な埠頭全体を引っくるめて、夜の二時に人間がうろつくところではなかった。まして春先の陰鬱な雨が、三日も降りつづいているのちのこととあっては。
とりあえずシフトレバーをリバースに入れ、そこまでバックしようとした。すると驚いたことに女がやにわに立ち上がり、前方の桟橋めざして突っ走りはじめた。逃げたのだ。一瞬見せた白い顔が恐怖でゆがんでいた。峻介は車を止め、目を見張って女の後姿を見送った。ためらったのは理由がある。女がほとんど裸だったのだ。
いや、形ばかり身にまとっていた。スリップを一枚。それがあますところなく濡れ、素肌にべったりからみついている。ストラップが縄目のように肩へ食い込み、裾の一部は脇腹近くまで裂けていた。
女は芝浦操車場跡の空き地を横切って真っすぐ突き進んだ。しかしその先で突如として立ち止まった。棒立ちになっている。前方が海であることにはじめて気づいたのだ。峻介のほうに振り返った。口元が負け犬のようにゆがんでいた。それでもすぐさま身をひるがえし、左へ走った。倉庫の陰に姿が消えた。
峻介はすこしためらった。それからゆっくりステアリングを回し、メルセデス・ベンツ二三〇GEゲレンデヴァーゲンに女の後を追わせた。車は操車場跡を渡った。線路のなくなった広大な敷地がひたすら暗く、大半は荒れ地のまま放置されていた。灯の消えてしまった照明灯が二本、雨にけぶって枯れ木のように雨を受けている。桟橋の前に来た。埠頭の車止めが黄色く光を跳ね返している。アクセルから足をはずし、のろのろした速度で倉庫の角を左に曲がった。女が向こうの軒下に立ってこちらを凝視していた。倉庫の防火灯が赤い影となってその顔に巣くっている。女はぶるぶるふるえていた。スリップ以外なにも身につけていないのがはっきりわかった。乳首と下腹部が黒ずんでいる。女は歯を食いしばっており、寒さと屈辱感で全身をわななかせていた。
五メートルばかり手前で車を止めた。峻介はドアを開けて一歩外に下りた。
「身投げじゃなかったんだな」きわめて落ち着いた声で言った。「飛び込むんだったら止めはしないが」
女がきっとなって峻介をにらみつけた。憤怒と、それにもまして強い憎悪がむき出しになっていた。それでも肩をまるめて両手をぎこちなく前で合わせ、峻介の視線から恥部を隠そうとした。
「すまん。冗談を言う雰囲気じゃなかった」
女は顔を背けた。軽く目を閉じたのが何らかの決意のあらわれだったのだろう。そのまま向こうへ行きはじめた。今度は走らなかった。うつむいて去って行く。峻介は軽く肩をすくめて車に戻った。ドアを閉め、ワイパー越しにしばらくその背を見つめていた。照明灯の支柱が濡れた男根のような光を放っている。海は濃縮された暗黒。薄い影を前方に倒して、女が倉庫の向こうに曲がった。峻介はちらとインパネの時計に目をやった。かすかにため息をつき、それからアクセルに足をのせた。
女の後を追って左に曲がった。前方に首都高速道路が城壁のように立ちはだかっていた。まがまがしいほど明るく、白い光をスプレーにして空へ放射している。降りそそぐ雨が銀色だった。その雨の下で、女が引きずり下ろされた塑像となって立っていた。全身を細かくふるわせながら。目が峻介の出方をうかがっている。口元がはげしく痙攣していた。それが寒さや冷たさのせいであったとしても、みじめさはいささかなりと損なわれていなかった。
車を女の前に横づけした。峻介は左腕をのばし、助手席のドアを開けた。女がきつく目を閉じた。祈ったのだ。開いた目が憎悪で煮えたぎっていた。
「なにがお望みなの」
喉から血が出たっておかしくない声で言った。
「ヒッチハイクをお望みじゃないのか」峻介はおだやかに、だがすこしきびしい声で言った。「気を回さなくったっていい。裸の女性なら誰だっていい年でもないんだ。乗る、乗らないはそちらの自由。どうするか自分の意思で決めてくれ。一分待とう」
女がためらった。動揺がそのままからだのふるえとなってあらわれた。とうに我慢の限界を越していたのだ。張りつめていた気力が萎えようとしている。女はうずくまらんばかりに身をすくめた。まるでなにかに負けたといわんばかりに。それが観念したしるしだった。女は白蝋と化した手をのばしてボディをつかみ、車の中に乗り込んできた。車高がやや高い。一瞬太腿が露わになった。峻介は目を逸らした。女はドアを閉め、車内が瞬時にして氷室と化した。
峻介はリアシートに脱ぎ捨ててあったレインコートを引き寄せた。「これでも着なさい」
女に渡した。ヒーターのスイッチをマキシマムに上げ、ベンチレーターを内気の循環に切り替えた。女が息を殺して見つめていた。
「コートを着なさい」
ズボンの後ポケットからハンカチを取り出した。それも渡した。「顔をふく足しにはなるだろう」
女は石灰岩みたいな顔をして受け取った。年が三十かそこら。痩せぎすで、まるみに欠けるからだをしていた。頬のふくらみも豊かなほうではなく、顎がとがって目つきをきびしく見せている。睫が短く、眉と眉との間が狭かった。細長い顔の中でいちばん形がいいのは鼻梁だが、それとてもうすこし肉が厚ければと思わせないでもない。左の肩のところに大きな青あざができ、肌はスパイクタイヤに削られたアスファルトほども荒れていた。鳥肌が立っている。喉首の、つけ根のところにほくろがあった。髪は縮れてすこし赤い。主婦業に精を出している感じは毛頭なかった。かといってOLに見せたがっているとも思えない。爪のマニキュアは完全に剥げてしまっていた。

|
 |
|
 |































|