ナイフ




 町にワニが棲みついた。
 あたしが新聞記事でそれを知ったのは、夏休みが始ま
ってしばらくたった頃だった。
 記事によると、「大泉公園のひょうたん池にワニがい
る」という噂は、夏休み前からひそかに流れていたらし
い。中年のアマチュアカメラマンが草むらを歩く体長九
十センチほどのワニを目撃したのが五月、もっとさかの
ぼって、四月と前の年の九月にも、造園関係の人がワニ
らしき生きものを見かけていたそうだ。
 あたしの家は、公園と二車線道路を隔てて建つ四階建
てマンションの最上階、ベランダに出ればひょうたん池
をほとんど一望できる位置だ。町が寝静まった深夜には、
サカリのついた捨て猫が公園のあちこちで鳴き交わす喉
を絞めつけるような声が、びっくりするほどくっきりと
聞こえてくることもある。
 だから、ワニを見かけた人が悲鳴をあげればきっと気
づいたはずなのに、妙なところで皆さん慎み深く、その
くせ新聞が報道するやいなや「僕も見ました」「私も見
たんです」なんて次々に名乗り出るものだから、寝坊し
たあたしが朝刊を手にあわててベランダに出たときには、
すでに池の周囲は報道陣や野次馬であふれ返り、こっそ
りエサを差し入れしてあげられるような状況じゃなくな
っていた。
 あたしは、ワニが好き。絵本やアニメに出てくる擬人
化されたワニじゃなくて、もっとリアルな、水草のぬめ
りや泥のにおいをまとわりつかせた、ワニ。口がばっく
りと裂けて、いつもおなかを地面にすりつけて、一日二
十四時間をあたしたちの五分の一ぐらいのテンポで生き
ているような、ワニ。カメの甲羅にはなんの興味もなか
ったけど、ワニの背中には一度乗ってみたいな、と子供
の頃からずっと夢見ていた。
 ときどき、不機嫌で憂鬱で、「もう、どうだっていい
やあ……」とつぶやいてしまうようなときには、ワニに
食われて死んじゃうのも悪くない、と思う。ワニの歯は
くさびみたいに尖っているけど、口のサイズが大きいぶ
ん一気にことは運ぶはずだから、トラに食べられてしま
うより痛くなさそうな気もする。少なくとも、何百尾も
のピラニアに噛みつかれるよりは、ずっといい。
 ひょうたん池にワニが棲みついているのを知ったとき、
あたしは「もう、どうだっていいやあ……」のまっただ
なかにいた。ワニに食われて死んじゃおう、かなり真剣
に思っていた。
 だから。
 あたしがワニに差し入れしてあげるつもりだったエサ
は、十四歳のあたし自身の体だったのだ。

 ある朝目覚めたら毒虫に変身していた……という外国
の有名な小説があるらしい。あたしはまだ読んだことが
ないけど、自分が毒虫になっていることに気づいたとき
の主人公の気持ちは、なんとなくわかるつもりだ。
 一学期の期末試験を数日後に控えた七月初め、あたし
は一夜にしてハブになった。
 もちろん、ヘビになったわけじゃない。村八分のハチ
ブを略して、ハブ。基本的には名詞だけど、動詞みたい
にも使える。ハブらない、ハブります、ハブる、ハブる
とき、ハブれば、ハブれ、ハブろう。あたしは、クラス
の仲間からハブられた。要するに、つまはじきにされて
しまったというわけだ。なんの前触れも、理由もなく。
「おはよっ!」
 あの朝、あたしはいつものように元気いっぱいに教室
に入っていった。でも、あちこちから返ってくるはずの
朝の挨拶がない。
 あれ? と一日の出端をくじかれた感じだったけど、
まだその時点ではさして気に留めずに自分の席についた。
「ゆうべさあ、まいっちゃったよ、留守録失敗しちゃっ
て」
 近くにいたナナコちゃんに声をかけたら、ナナコ、逃
げた。逃げて、他のコたちのおしゃべりに合流した。こ
のあたりで、胸がざらっと毛羽立ってきた。あたしはと
っさに口実を見つくろって、隣の席のミドリちゃんに言
った。
「あのさ、ちょっと数学の宿題、見せてくれない? 一
問できなかったのがあるんだけど」
 ミドリちゃんも、無言で席を立つ。
「……えーっ、なに? それ」
 とぼけたリアクションをしたつもりでも、声が微妙に
震えるのが自分でもわかった。嘘だよね、これ。すがる
思いで後ろを振り向くと、アイちゃんは素知らぬ顔で、
そっぽを向いた。ニキビが悩みのアイちゃんの頬に触れ
たあたしのまなざしは、まるでゴミ箱に放られる紙くず
みたいに、ぽとりと床に落ちてしまった。
 まさか……と嫌な予感は認めたくない確信に変わり、
それを頭の中で巡らせる間もなく、床に落ちたまなざし
が数人ぶんの上履きで踏みつけられた。
 顔を上げると、四月に同じクラスになって以来なにか
と折り合いの悪かったサエコが、腰巾着のコを引き連れ
て立っていた。
「あのね」サエコは薄笑いを浮かべて言った。「あんた、
今日からハブだから」
「ミキちゃん、かわいそーっ」とジュリの声があたしの
肩を小突き、カオリが「がんばってねえ」と歯ぐきを剥
き出しにして笑う。
 ちょっと待ってよ、なんであたしがハブられなきゃい
けないのよ。理由を教えてよ。あたしに悪いところがあ
ったら直すから。
 なんて、訊けるわけない。あたしにだってプライドが
ある。机の上に置いた自分の手の甲を無表情に見つめる。
それがせいいっぱいだった。
 サエコたちが立ち去ったあと、あたしはゆっくりと、
慎重に教室を見回した。ウチの学校は私立の女子校なの
で、クラスは女の子ばかり三十七人。あたしを除いて三
十六人。サエコは予想以上にクラスをまとめあげていた。
周到に準備して、満を持してのハブ開始だったのかもし
れない。目が合ったコは弾が命中すると標的が倒れるシ
ューティングゲームみたいに次々にうつむき、その中に
は、親友だと信じていた同じ小学校出身のホナミも含ま
れていた。
 クラス全員。どこにも逃げ込めない。あたしの視線を
受け止めてくれるのは、黒板の隅に記された『今日の日
直』の丸っこい文字だけだった。

 その日以来、あたしは二年B組のハブになった。
 誰も口をきいてくれない。目が合うと薄笑いを浮かべ
て顔をそむけ、廊下ですれ違うときには大袈裟な仕草で
身をかわす。
 ハブの噂は他のクラスにも広がっていった。最初のう
ちは「だいじょうぶ?」と心配そうに声をかけてくるコ
や、「すぐ元どおりになるって」と言ってくれるコも何
人かいたけど、やがてどのクラスのどのコも、あたしを
ハブるようになった。
 理由なんて、ない。みんな退屈している。そして、や
たらと厳しい校則や二年生になって急に難しくなった勉
強のせいで、たぶん鬱屈もしている。暇つぶしと欲求不
満の解消のために、誰かをハブっちゃおう。それだけの
ことだ。
 あたしはなにも悪いことなんてしてない。誰かを裏切
ったり、誰かに意地悪したり、誰かにつらい思いをさせ
たことなんて、まったくない。
 そこが悔しい。悲しいんじゃなくて悔しいんだ、と思
いたい。
 憎まれているのなら、まだましだ。「あんたなんか大
嫌い!」とハブってくるのなら、あたしだって「負ける
もんか!」と、みんなの背中をにらみつけてやれる。で
も、実際は違う。みんな笑っている。ひとりぼっちにな
ったあたしを見て、楽しんでいる。これはゲーム。ただ
の悪ふざけ。怒ったり泣いたりしたら、みんなの思うツ
ボだ。それがわかっているから胃が痛くなるほど悔しく
て、眠れなくなるほど、やっぱり悲しい。

 一学期が終わるまでハブの状態はつづいた。
 終業式の日、ちょっとだけ期待した。きりがいいから、
このへんでやめようか。誰かが言いそうな気がした。サ
エコは飽きっぽいコだし、ジュリは期末試験が予想以上
の好成績だったとかで機嫌がよかったし、ホナミ、あん
たが「そろそろやめない?」と言ってくれれば一番いい
のに。
 でも、なにも変わらなかった。ホームルームが終わっ
て先生が教室から出て行くと、サエコがクラス全員に聞
こえるように言った。
「裏切るなよお、裏切ったらハブっちゃうよお!」
 みんな、無言でうなずいた。あたしはそっぽを向いて
いたけど、それくらいわかる。わかるから悔しい。つま
らない期待をしてしまった自分が情けなくなり、自分に
まで情けなく思われてしまう自分が大嫌いになった。だ
けど、あたしはあたしをハブれない。あたしにハブられ
たら、あたしが終わる。それができれば楽なのにな、と
いう気がしないわけじゃないけど。
 夏休みに入ってからも、遊びに行こうという電話なん
てかかってくるわけがない。ずっと家に閉じこもりきり
の毎日だった。親には「七月のうちに宿題やっちゃいた
いから」とごまかしているけど、いつまでも通用はしな
いだろう。なにしろ、ハブの始まったあの朝までは、
「少しは家で勉強しなさい!」というのがお母さんの口
癖だったぐらい外で遊びまわっていたのだから。
 しかも、ゲームは夏休みの間にも着々と進行していた。
 毎日のように差出人名のない手紙が届けられる。封筒
の中には、新聞記事のコピーが一枚入っている。イジメ
で自殺した中学生や高校生の記事だ。
 お金と手間暇かけてよくやるよ、なんて苦笑いを浮か
べる余裕はない。いまは封筒の手紙だから「友達と文通
ごっこしてるんだよ」とお母さんの目をごまかすことは
できる。でも、もしもハガキになったり、いたずら電話
がかかってくるようになったら……。
 ワニがひょうたん池に棲んでいることがわかったのは、
夜なかなか寝付かれなくなり、ごはんが美味しくなくな
った、そんな頃だったのだ。

 あたしの町は、都心のターミナル駅から私鉄の準急電
車で約二十分、『超』が付くほどじゃないけど、まあ高
級の部類に属する住宅街。バブル景気の頃には、「えー
っ、うそォ」と言いたくなるような古い家でさえ一億円
未満では手が届かなかったらしい。
 人気の秘密は、なんといっても緑の多さだ。朝は小鳥
のさえずりで目覚めることができるし、ジョギングや散
歩のコースに不自由することがない。都心から近くて、
自然が豊か。駅前の開かずの踏切を除けば申しぶんない、
その環境を支えてくれているのが、町の中心にある入園
無料・二十四時間立ち入りOKの大泉公園だ。
 ずーっと昔に豪族のお城があったというこの公園には、
湧き水がつくったひょうたん池をはじめ、日帰りで楽し
める程度の自然が、まるで幕の内弁当みたいに揃ってい
る。ひょうたん池の中には天然記念物に指定された浮島
があり、島の隣には自然観察園があって、岸辺には野鳥
の森と、ソメイヨシノが三百本近く植えられた広場。ひ
ょうたん池の隣にはボート池もあって、そこは子供専用
の釣りゾーンにもなっている。
 この町に生まれ育った人の休日の思い出は大泉公園と
ともにあると言ってもいい。子供時代はなじみの遊び場
で、やがて勝手知ったるデートコースになり、結婚して
からは安上がりに家族サービスのできる切り札というこ
とになる。
 そんな大泉公園に、こともあろうに体長九十センチの
ワニが棲みついてしまったのだ。
 ひょうたん池の岸辺は連日、報道陣や野次馬であふれ
返った。公園の周囲の道路は違法駐車の車で一車線が完
全にふさがり、売店のおばさんはテレビのインタビュー
に答えて「ええ、ええ、おかげさまで売り上げも伸びて
ましてねえ」と金歯を覗かせて笑っていた。この調子な
ら『大泉公園名物・ワニまんじゅう』や『元祖ワニもな
か』まで売り出しかねないにぎわいだった。
 もちろん、近所の住民は、のんびり騒動を楽しんでは
いられない。我が家みたいにマンションの上階ならとも
かく、一戸建に住む人は気が気じゃない。お母さんがス
ーパーマーケットや美容院やテニス教室で仕入れてくる
ご近所の様子も、どこの家も生ゴミを夜のうちに出さな
くなったとか、ダンナの帰りが早くなったとか、雨戸を
閉めて寝るようになったとか、飼犬を夜には玄関の中に
入れておくとか……そんな感じだった。
 ふだんはただそこにあるだけという公園の管理事務所
も、世間の注目を浴びて張り切ったのか、八月早々から
ワニ捕獲作戦を始めていた。といっても、ひょうたん池
やボート池にイカダを浮かべるだけの、捕獲と言うより
確認作戦だ。
 それでも、ワニが池から現れる瞬間を見届けようと、
野次馬たちは双眼鏡をかまえ、カメラの三脚をセットす
る。無意味に声をひそめて「ワニは、まだ姿を見せませ
ん」と報告するワイドショーのレポーターの隣では、小
学生の男の子がアイスキャンディーを嘗めながらピース
サインをテレビカメラに向ける。
 あたしは、そんな池の様子を、ベランダの手すりに頬
づえをついて、ぼんやりと眺める。
 もしもワニが見つかったら、どうなるんだろう。まさ
か射殺や毒殺なんてことにはならないだろうけど、たぶ
ん動物園から飼育係がとんできて、麻酔銃でも撃つのか
網をかぶせるのか、どっちにしても捕まえてしまうはず
だ。
「いいじゃん、ワニぐらいいたって……」
 わざと声に出してつぶやくと、一学期より少し削げて
しまった頬を苦笑いが滑り落ちていく。
 ひょうたん池のにぎわいは、窓を閉めていても部屋ま
で聞こえてくる。ときどき、野次馬の笑い声が、こっち
に向けられているような気がしてしまう。
 八月に入ると、差出人不明の手紙は届かなくなった。
でも、それでゲームが終わったわけじゃない。週に三日
通っている塾にまで、ハブのゲームは広がってしまった。
ホナミだ。あのコが、なんの関係もない別の中学のコま
で誘ったんだ。
 せめてもの意地で、一度だけ、塾の教室でホナミに言
ってやった。
「学校と違うんだよ? サエコとかジュリとかエツコと
か、誰もいないんだよ?」
 ホナミはこわばった顔でうつむいて、バッグから出し
た英語のテキストを机に広げた。ページが違っていたの
で、「今日、そこじゃないよ」とあたしは言った。ホナ
ミはうつむいたまま席を立ち、別のコのところに小走り
に逃げた。追いかけようと思って、でも、やめた。すが
りつくのなんてみっともないじゃん。そう自分に言った
とき、急に胸の鼓動が高まった。すがりつく? あたし
が、ホナミに? なんで? やだ、そんなの……。
 ベッドに入っても、明け方近くまで眠れない。ごはん
は冷麦やそうめんしか食べられない。胃が痛い。肩が凝
って、奥歯が歯ぐきから浮き上がってしまったみたいだ。
ニキビが消えない。関係ないと思うけど、生理だって、
八月は一週間も遅れて始まって、しかも生理痛がひどか
った。「夏バテしちゃった」という嘘にだまされてくれ
るお父さんやお母さんの人のよさに感謝している。でも、
だからこそ、ハブのことを両親が知ったら……と思うと、
急に息苦しくなって、胸がきしむように痛くなる。
購入