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夏目家の福猫
半藤末利子

『吾輩は猫である』のモデルになった仔猫は、漱石の妻鏡子との攻防の果てに、いかにして夏目家に住みついたのか。七人の子供を育て、座る暇もないほど忙しい生活をおくった鏡子と漱石の関係。“狂気の時”の恐ろしさと、家族しか知りえないおおらかな素顔。漱石没後の夏目家――。長女筆子から伝え聞いた夏目家のくらしと、文豪の孫としての日常をユーモアたっぷりに描く珠玉のエッセイ。

ISBN:978-4-10-135251-0 発売日:2008/07/01


| 420円(定価) |
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夏目家の福猫
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漱石夫人は占い好き
迷信というか、占い好きの話となれば、これはあまりにも有名になっているが、やっぱり猫の話からはじめなければならない。
『吾輩は猫である』のモデルになった夏目家の名のない飼い猫は、最初は小説に書かれている通りのノラ公であった。毎朝、雨戸を繰るが早いか、家の中にニャンと飛び込んできて、漱石夫人の鏡子やお手伝いさんや子供たちの足にじゃれついたり引っかいたりする。鏡子に言わせれば、仔猫のくせにハナから図々しかったそうである。子供たちが引っかかれて泣き出すたびに、鏡子はそやつをつまみ出すのだが、いつの間にか泥足のままお櫃の上にちゃっかり座っていたりする。いっそ誰かに頼んで遠くに捨ててきて貰おうかと思案しているうちに、
「そんなに家に入ってくるなら、この家が気に入っているのだろうから、飼ってやればいいじゃないか」
と漱石の一言があった。それからはひとまず表に追い出すことだけは止めたものの、猫嫌いの鏡子は悪戯が過ぎるとそやつを物差しでパシッとひっぱたいたり、御飯を抜いたりして罰を与えていた。
ところがある日、出入りのあんま師が膝にすり寄ってくるそやつを抱き上げて、しげしげと調べあげたあげく、
「奥様、奥様、この猫は足の爪の先まで黒うございますから、珍しい福猫でございますよ。飼っておおきになるとお家が繁盛いたします」
と宣うた。福猫と聞くや鏡子は、
「あら嬉し。福が向こうから飛び込んできてくれたとは」
と、即座にそれまでの虐待を止め、掌を返したようにそやつめに好待遇を与えることにした。たとえば随筆にあるように、鰹節をふりかけた御飯に昇格したようである。
こやつをモデルにして初めて書いた長編小説で漱石はいっぺんに文名を馳せたのであるから、まさしくこやつは福猫だったのであろう。好待遇を受けつつ千駄木・西片町・早稲田と居を移して約四年間も飼われたのちに、こやつは明治四十一年に名もなきまま死んだ。その時漱石は、
「辱知猫義久く病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にか裏の物置のヘツツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候」
と、懇意の人々にわざわざ猫の死亡通知を出している。そして死骸を埋めた所には、猫の光る目を稲妻にたとえた
「此の下に稲妻起る宵あらん」
という句を書いた墓標を立てている。亡くなった九月十三日には毎年弟子たちを集め猫の法事を営んでいる。鏡子のみならず漱石もまた、このノラを福猫と思い、深く感謝していたのであろうか。そして漱石はすでに物故していたが、猫の十三回忌には、鏡子は猫を埋めた場所に九重の石塔を建立している。いまも早稲田の漱石公園にそれは立っている。そして福猫が死んだ後も、足の爪の黒い猫を調達してきては、鏡子は欲一心で終生嫌いな猫を飼い続けたのである。
明治四十四年冬の、病床から鏡子に出した漱石の楽しい手紙がある。
「拝啓 本日回診の時病〔院〕長平山金三先生と左の通り談話仕候間御参考のため御報知申上候。
旦那様『もう腹で呼吸をしても差支ないでせうか』
病院長『もう差支ありません』
旦『では少し位声を出して、――たとへば謡など謡つても危険はありますまいか』
院長『もう可いでせう。少し習らして御覧なさい』
旦『毎日三十分とか一時間位づゝ遣つても危険はないですね』
院長『ないと思ひます。もし危険があるとすれば、謡位已めて居たつて矢張危険は来るのですから、癒る以上は其位の事は遣つても構はないと云はなければなりません』
旦『さうですか。難有』
右談話の正確なる事は看護婦町井いし子嬢の堅く保証するところに候。して見ると、無暗に天狗と森成大家ばかりを信用されては、亭主程可哀想なものは又とあるまじき悲運に陥る次第、何卒此手紙届き次第御改心の上、万事夫に都合よき様御取計被下度候、敬具
二月十日午後四時 町井いし子立会の上にて認む
奥様へ 夏目金之助」
漱石のこの手紙を読むたびに、漱石がいかに鏡子を愛していたかを痛感させられ、私までが嬉しくなってくる。前年の八月に漱石は修善寺で大吐血をし九死に一生を得た。ようやく小康を得て十月には無事帰京し、内幸町の胃腸病院に病後の療養もあって入院するのであるが、経過もよくそろそろ退院の話が持ち上がるほど回復したある日、漱石は運動のために謡の稽古がしたいと言い出したのである。対して鏡子は、
「そんなお腹に力を入れるようなことをしてはまだ危ないから」
と猛反対する。
「では、院長に訊いてみる」
と漱石が頑張り、その結果、右の報告の手紙を病院から自宅へ送った、というわけである。
森成大家とは主治医・森成麟造氏であり、天狗とは当時鏡子が信仰していた易者のことである。この大吐血の前日、修善寺で漱石に付き添っていた鏡子はいても立ってもいられず、病状をつぶさに書いて、
「どうか易を立ててみた上で祈祷して下さい」
と東京の天狗に手紙を出した。すると天狗から、“とても悪い卦が出た。いわば身体に弾丸が当って爆発したような状態である。自分はこれから斎戒沐浴して三十七日間の祈祷に入るから、一週間ごとに容態を知らせてくれ”という返信が寄せられる。
鏡子と天狗の間にはこうして手紙の往復が続いた。その間に漱石はまさに爆発した状態になったものの奇跡的に命をとりとめ、その後はいい具合に病人は快方に向かった。鏡子は漸くホッと一息ついた。すると留守宅と子供達のことが頻りと気になり始める。しかし鏡子は結局漱石と共に帰京した。漱石はそのまま病院に入院し、鏡子は早速に天狗に礼に行く。と、天狗から面白い話を聞かされる。
ちょうど鏡子の最初の手紙を受け取る二、三日前に、どこからともなく天狗の家に黒猫が入ってきて住みついてしまった。しかし、これから祈祷を始めようというその日に、この猫は姿を消した。ところがそれから一カ月以上も経って、祈祷が満願に近づいたある日のこと、その猫がひょっこり帰ってきたと思うと、いきなり血を吐いて死んでしまったというのである。
何だか怪談めいた話ではあるが、その猫が夫の身代わりになってくれたように思えて、それに漱石と猫との浅からぬ因縁を考えてみると、鏡子はひたすら黒猫と天狗に感謝するほかはなくなった。ひょっとして書簡の往復で事態を熟知していた天狗の作り話ではなかったろうかなどと、露疑わぬところが鏡子の鏡子たる所以である。が、この場合、天狗の祈祷のお蔭で漱石が一命をとりとめたと鏡子が信じてしまったのは、私にも至極当然のことのように思われる。恐らくその話を聞かされた漱石も、福猫のときと同様に、心のなかでひそかに深謝したのではあるまいか。それが証拠に漱石は、鏡子の言いつけに逆らうことなく、天狗の選びだした吉日の二月二十六日にその胃腸病院から退院して自宅に戻っているのであるから……。

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