新潮文庫


インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け―
中島岳志

経済的な躍進を続け、日本人の注目を集める、“21世紀の大国”インド。だが、その実情を知る者は少ない。消費文化の進展。健康ブーム。精神世界に癒しを求める都市生活者。そして、台頭するヒンドゥー・ナショナリズム。現地をフィールドとする研究者が、格差と分断の現代史をふり返りながら、知られざる国家の現状とその深奥に迫ってゆく。あなたのまだ見ぬインドが、ここにある。

ISBN:978-4-10-136571-8 発売日:2009/01/01

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460円(定価)


インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け―


第一章 アスファルトの上のインド
     
   I 新しいインド

     新しい風景の出現


 空の玄関口インディラ・ガンディー国際空港は、デリーの南西部の外れにある。
 空港周辺は岩肌が露出した荒地が広がり、夜はその「暗さ」でインドを初めて訪れる者を不安に落とし入れる。暗がりの中で蠢く路上生活者や牛の姿は、目の前に広がる闇を実際以上の「深さ」へといざなう。街路灯のたよりない光は、周囲の暗さを引き立てるために存在しているかのようだ。タクシーの窓から垣間見える外国人の顔は、一様に強ばっており、体全体に力が入っているのがよくわかる。「インドに到着した」という実感が湧いてくる瞬間だ。
 さて、この空港からデリーの市街地とは逆の南方向に車を走らせると、突然、これまでの暗く雑然としたインドとは一変した風景の中に放り込まれる。
 白色光が皓々と輝く最新のショッピング・モールやシネマ・コンプレックス、洗練されたデザインの高層マンション……。明るくファッショナブルな建物が林立する「郊外」が、目の前に唐突に出現する。
 外国人のまなざしが、驚きと安堵の混在したものに変化する。
 この街の名前はグルガーオン。
 急速な拡大を続けるデリーのベッド・タウンとして、近年、急速な発展を遂げている「郊外」である。
 ここは元々、古い歴史をもつ街で、旧市街には今でも混沌とした活気あるバザールが広がっている。また、何世代にもわたってこの町に住んでいる家族も多く存在し、古い家屋が密集している。
 しかし、近年、この町に「国際空港に近い郊外」としての新たな価値が見出され、州政府の主導による開発プロジェクトがスタートした。その結果、これまで荒野だった町外れに、次々と企業コンプレックスや大型マンション、ショッピング・モール、シネマ・コンプレックスなどが林立し始め、デリーの市街地から引っ越してくる富裕層・中間層が急増した。
 荒野の中に突然現れる「郊外」。
 それは精巧に作られたジオラマのようでもあり、ハリウッド映画のセットのようでもある。
   
 このような郊外の風景は、ここグルガーオン以外にも、近年、インド各地の大都市近郊で頻繁に見かけるものである。我々が思い描く「あのインド」とはかけ離れたインドが、そこには整然と広がっている。

     郊外の生活

 さて、このグルガーオン。
 新しく造成された「郊外」と昔からの旧市街との間には、相互交流がほとんどない。
 新市街地に出来上がったマンションに暮らす人々は、ほとんど旧市街地に足を運ぶことはなく、買い物は近くの大型ショッピング・モールに行って済ませる。そのため、この町の最新のショッピング・モール(21頁図1 *本コーナーでは図版を割愛しています)には、食料品から日用品、家電製品などあらゆるものが取り揃えられ、そこだけですべての買い物が完結するようになっている。
 旧市街の人々には、このショッピング・モールのものは高価すぎて、ごく限られた富裕層以外はめったに訪れることがない。旧市街から訪れてくる人々は、工業エリアに造られた工場の作業員や清掃員、工事現場の労働者たちが大半で、階級・職業による空間の分断状況が成立している。同じ一つの街とは思えないような歪な空間構成である。
 また、この新市街にある大型マンションの住民たちには連帯意識や共同体意識はほとんどなく、近所づきあいもかなり希薄である。さらに、当然のことながらこのような郊外に住むことのできる人たちの社会階層は、経済力のある中間層以上に限定されている。下町のように様々な階層の人たちがモザイク状に住んでいる訳ではない。しかも、マンションの敷地は高い塀に囲まれ、道に面したゲートには警備員が常駐している。入場許可の証明がなければ敷地内にすら入ることができない。都市空間が完全に階層分化し、居住区内の住民の均質化が進んでいるのだ。
 様々なノイズが除去され、壁で囲いこまれた空間。
 そこで、インドの子供たちが育ち始めている。
 この新市街に林立するマンションは、一直線の幹線道路沿いにほぼ等間隔で建てられ、外観もトータルなデザインが施された画一的なものとなっている。住民のほとんどは自動車で外出するため、街中を歩く住民はまず見かけない。物売りやリキシャー(自転車や軽自動三輪車の荷台を客席にした乗りもの)などもショッピング・モールの周り以外では姿を見ることができず、街全体に全く生活感がない。ここがインドであるとはとても思えないような、規格化され画一化された空虚な風景がひたすら続いており、生活の息遣いが全く感じられない。
 前頁の図2の通り、ここのマンション群はオシャレで清潔感がある。窓やバルコニー、屋根の形などには、デザイナーのファッショナブルな「感性」がちりばめられている。それは、ある意味、「個性的」な生活空間なのであろう。しかし、そこでは「オリジナルなきコピー」を大量生産する「流行」というコードが存在するだけで、住民たちの生活から溢れ出してくる個性が全く見られない。ここでは資本の側が設定した「スタイリッシュな郊外の暮らし」という物語(フィクション)からはみ出る行為は、街全体から疎外され隠蔽されている。その証拠に、外から見るここのマンションのバルコニーには、生活臭の漂う洗濯物や子供の遊具などが全く見られない。
 ファッショナブルなデザインのマンションが林立し、生活感や個々人の顔が見えない郊外の風景は、急速な消費社会化の中にある現代インドを象徴している。

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