 |
 |
映画「黒部の太陽」全記録
熊井啓

昭和43年に公開され三船敏郎、石原裕次郎の競演で空前の大ヒットを記録した傑作「黒部の太陽」。今や伝説となったこの映画の裏側には、壮絶なドラマが隠されていた。五社協定の壁、配給問題、困難を極めたトンネルセットでの撮影、そして十数名の負傷者を出した大事故。誰よりも銀幕を愛し、製作不可能と言われた大作に命をかけた男達の物語。『黒部の太陽―ミフネと裕次郎―』改題。

ISBN:978-4-10-136951-8 発売日:2009/02/01


| 740円(定価) |
 |
|
|
映画「黒部の太陽」全記録
 |

プロローグ
昭和四十二年、日活の正月興行は予想どおり芳しくなかった。日活は前年の第一〇八期総会で、累積赤字十四億八千万円余を一挙に吐き出し、粉飾決算にケリをつけることで、過去のウミは出したものの、将来への見通しは真っ暗であった。最盛期に十一億人を超えていた日本映画の観客数も、四十一年は三億五千万人に満たなかった。
四十二年は、六十年に一度やって来る「丁の未」年で、この年回りは、いろいろな異変が起きるといわれていた。案の定それが、「日活経営陣大改造劇」となって現れた。一月二十一日の役員会で、大黒柱といわれた江守清樹郎専務をはじめ、落合正雄・仲村武両専務、山根啓司・下村重雄・石神清各取締役と、一挙に六人もの役員退陣が決まり、同時に部課長級の大幅な異動も断行された。
一説によると、堀久作社長の決断には、ホテル部長からのちに常務となった堀雅彦氏を支持し、その恩恵に与ろうとした、若手課長たちによる社業刷新案が大きく影響したとのことだ。また業績不振や組合への対策の失敗が江守氏によるものとされたこと、あるいは不満分子による社内のさまざまな乱脈を暴露した、虚々実々の投書があったことなどの要因も複雑に絡み合って作用したといわれる。
二十九年の映画製作再開以来、日活の屋台骨は“堀・江守”のコンビで維持され、堀社長は経営全般のほか金融面、江守専務は映画部門の責任者、という不文律的な二頭行政が布かれていた。出足の芳しくなかった映画製作も、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、浅丘ルリ子、吉永小百合ら新人を育成することによって、黄金時代を築いたが、業績不振となり、前述のように江守実権派は堀主流派によって失脚させられ、経営陣は若返り、撮影所は大整備され、日活のすべてが社長中心の経営となった。
この大改造により、撮影所長は村上覚氏となった。村上氏は戦前の名撮影所長として、いまもなお名声の高い根岸寛一氏の娘婿にあたる。
私はこの年、まず「忍ぶ川」の冬のロケを行ない、続いて私のオリジナル・シナリオの「妹」(のちに「命ある日を」と改題)を撮り、七月になったら、「忍ぶ川」の夏のシーンを撮りたいと思っていた。それで「妹」のシナリオの直しにかかり、二月十九日、劇団民芸映画社プロデューサーの大塚和氏に完成シナリオを渡した。大塚氏とは、私が日活に入社する前、二十八年からの知り合いである。私と大塚氏は、「妹」を石原裕次郎と吉永小百合のコンビで考えていた。この組み合わせは初めてであり、私たちは興行的にまちがいないと思った。
しかし、企画部は一向に取り上げようとしなかった。経営陣大改造のショックから抜けきらず、非常に用心ぶかくなっていた。四月には人事異動もある。責任を取らされるような行動は、できるだけ避けて通るようになっていた。
それに経営陣大改造により、映画づくりをよく知らない部門にいた人たちや、撮影所の実権を握ろうとする野心家たちが、映画製作の主要な席を占めていた。
私は毎日のように撮影所へ行って折衝したが、どうにもならなかった。「忍ぶ川」も「妹」も、それ以前に書いたシナリオも会社はやる気がない。つまり、日活は私を必要としていない、と判断するしかなかった。
とにかく、仕事をしたくてもまったくできない。こうして極限に追いつめられていたある日、外部から私に誘いが掛かってきた。

|
 |
|
 |































|