親不孝長屋―人情時代小説傑作選―



     おっ母、すまねえ      池波正太郎

     一

 おぬいが、浅草寺の境内で〔むかし友だち〕のお米に出会ったのは、その年も暮れようとする或る日の午後のことであった。
 めずらしく風の絶えた、おだやかな冬の陽ざしにさそわれたような人出の中で、
「まあ、お前さん、おぬいちゃんじゃあないかえ」
 いきなり横合いから駈け寄って来たお米が、おぬいへ抱きつかんばかりにして、
「やっぱりそうだ、やっぱりそうだ」
 感動の叫びをあげた。
「十年ぶりだ、ね、十年ぶりだよう」
「ああ……お米さん……」
 胸の底に鉛を呑んでいるような辛いおもいをしながら毎日を送っていたおぬいであったが、それだけにまた、思いがけぬときに思いがけぬなつかしい女と出会った衝撃で、おぬいは顔中を泪だらけにしてしまい、
「ねえさん。私、このごろは毎晩のように、ねえさんの夢をみていたんですよ」
「そうかえ、うれしいよ」
「ねえさんも……?」
「ああ。やっとねえ、五年前に足が洗えた。私みたいな女を引取ってくれた物好きな人が出来たのさ」
「よござんしたねえ」
「おぬいちゃん、お前さんいくつに? ……あ、そう、私より四つ下だから三十四。ね、そうだったろう?」
「ええ」
 お米、十歳は老けて見えた。
 色の浅ぐろい、眉のうすい女で、二人が十五年前まで千住の岡場所(官許の吉原以外の遊里)でつとめをしていたころは、客がつかないので名高かったお米なのである。
 しかし往年の男まさりの気性そのもののようなきりりとした彼女の挙動、口のききようなどはむかしのままで、引っつめ髪に筒袖の半纏を着こみ、大風呂敷を背負いこんでいるという世話場な風体にかかわらず、
「ま、おぬいちゃん。こんなところじゃ話もできない。こうおいでな」
 お米は元気のいい口調でいい、先に立った。
 間もなく、二人は広小路にある茶店へ入り、入れ込みながら時分はずれの客もいない奥へ通って、この店の売り物のとうふ田楽と茶めしをあつらえた。
 お米は酒をつけてもらい、
「お前さんは、いけなかったっけね」
 といい、手酌でのんだ。
 久濶のことばはつきない。
 しかし、するどいお米の眼は、いまのおぬいの苦悩の只事でないことをすぐに看てとってしまったらしく、
「ねえ、おぬいちゃん。こういっちゃあ、なんだけれども……お前さん、身なりがとてもいいし、私ゃ見違えてしまったけれども……それで、いまなにかえ、うまく行ってるの?」
「え……?」
「十五年前に、お前さんが客の、ほれ大工の直さんにひかされて世帯をもった。それから五年の間に、お前さん二度ほど千住へ会いに来てくれたっけが……」
「ごめんなさい。あんなに、お世話になっていながら、ごぶさたばかりで……」
「ご亭主、達者なのかえ?」
「直五郎は、一昨年、亡くなってしまったんです」
「そうかえ……で、子どもは?」
「一人。男の子」
「いくつ?」
「十七」
「そりゃお前、勘定が合わない。じゃ、なにかえ、直五郎さんの前の、死んだかみさんの子かえ?」
「そうなんです……ねえさんだけにいいますけど、あの子……市太郎は、ほんとうに私が生んだ子だと思いこんでいるんです」
「それで、けっこうじゃないか」
「私も、子は生まれなかったし……」
「客をとっていた女はねえ……けど、お前さんなんか、足を洗ったときが、十九だったんだもの。三十をこして堅気になった私とは、くらべものにならない。私ゃ、お前さん、きっと子を生んでいると思っていたのだけれどねえ」
「ですから私、市太郎が、ほんとの子のように……そりゃあ可愛いがって育てて、あの子もいい子で……父親の後をつぐ気で、外神田の棟梁のところへ修業に出たばかりのところで、父親が亡くなってしまって……」
「そりゃ仕方がない。でも、その市太郎さんとかいう子が、いい子なら……」
「いい子だったから困るんです」
「え……?」
「いまの私にとっては、憎い子……」
「おぬいちゃん……」
「え……?」
「お前さん、また亭主をもったね、そうなんだろう?」
 おぬいは、うなずいた。
 前夫・直五郎が死ぬまでは、色白の、ふっくりと肥えたおぬいの顔かたちが、いまは、
「観音さまの境内でお前さんを見たとたん、あやうく私ゃ見落すところだった……だってお前さん、まるで幽霊に見えたよ」
 と、後で、お米が語ったように変貌してしまっている。
 それから……。

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