| 1 鉄橋にさしかかったとき、岡部武はおもわず車窓に額を寄せていた。 相模川河口の先に広がる海は八月の日の光を受けて、乱舞する魚の鱗のように輝いていた。手前の河川敷には、何台かの車が捨石のようにうずくまっている。その対比が頭の奥底にある記憶を激しく揺さぶった。きょうの海のきらめきは、あのときに目にした光景と寸分もちがっていないようにおもえた。 すこしばかり違和感もあった。鉄橋を渡る電車の軋みで、すぐにそれがなんであるのかはわかった。あのとき目にした光景は、今とは逆の、上りの電車からのものだった。そして目の前の空席には父親が座っていたのだ。 自分の吐いた台詞も甦ってくる。 もう親父の時代じゃないってことだよ。 十八になったばかりの青二才が、二回り以上もちがう父に、知った顔で浴びせた台詞だった。 鉄橋を渡り切ると、すぐに海は視界から消えた。 棚の上のスーツを手にして降車の準備をした。鉄橋を渡ると数分もしないで駅に着く。 感触をたしかめるようにプラットホームに足を下ろした。予想に反して、三十年ぶりという感慨は特にはわかなかった。 改札を出るときにはさすがに目を見張った。郊外の典型とも言える駅の姿かたちは、都心で見られるようなきれいな駅ビルに一変し、昇降用のエスカレーターまである。 駅前もえらい変わりようだった。小ぎれいなビルがひしめき合い、記憶にあるバス停はロータリーできっちりと区割りされている。気のせいか道行く人間も当時とちがって垢抜けたように見える。 これまでに東海道線を利用しなかったというわけではない。熱海や伊東に行く折には否が応でも通過する。しかし相模川の鉄橋に差し掛かるころになると、意識して目を瞑り、決してこの町を見ようとはしなかったのだ。 町なかに足をむけた。 アーケードこそかけられているが、商店街はさほど変わってはいなかった。甘味処、喫茶店、鞄屋、洋品店――。女が化粧するように、表づらは改装しているが、知った店の何軒かはむかしのまま営業していた。 昼にはまだ間がある。だがすぐに背が汗ばんできた。 上着を脱ぎ、手にぶらさげた。 パチンコ屋の角を曲がった。路地裏の飲み屋街。住所から、小野謙介の店はこの辺りと見当をつけていた。 すぐに見つかった。雑居ビルの二階に「小野」の袖看板が出ている。 東京でバリバリの弁護士稼業を張っていた男が本気で水商売をしているともおもえなかった。看板の一部が欠けているのがそれを物語っている。 店の所在をたしかめればそれでよかった。顔を出すのは今夜の十時前後と決めている。あまり早い時間では迷惑だろうが、かといって、東京とちがうこの町の飲み屋がそう遅くまで営業しているともおもえなかった。 踵を返そうとしたとき、数軒先にある風俗店から男が二人出てきた。ひとりはスーツを肩にしたノーネクタイ姿、もうひとりは使いっぱしりだろう。 ノーネクタイが、目を細めるようにして岡部に視線をむけてくる。同種の人間が嗅ぎつける同じ匂い。 この町が花井の縄張りであるのは知っていた。花井は岡部の舎弟である冨澤が面倒をみている。だが冨澤にはきょうここにくることを教えていなかった。 無視して背をむけようとしたとき、兄貴格に促されたアロハが小走りでやってきた。 「失礼ですが、どちらの?」 「ほっとけ」 言い捨てた。 「そりゃないでしょう。自分らは、花井組の……」 気圧されたのか、アロハの口調が弱まった。助けを求めるように、アロハが後ろの男を振り返った。 ポケットに手を入れた格好で兄貴格が歩いてきた。 「わかっていただけるでしょう? こちらも仕事なんで」 三十二、三。この稼業が一番まぶしくおもえる年ごろだ。 「岡部、ってんだ」 「岡部?」 男が眉を動かした。突然弾かれたようにポケットから手を抜く。 「岡部さんと言いますと、冨澤さんと御兄弟の……」 「私的な用事できている。数日いるかもしれんが、一切気を使わないよう、花井には伝えといてくれ」 なにか口ごもった男を放っておいて、岡部はたった今きたばかりの商店街のほうに足をむけた。 雲ひとつない青空で、太陽が真上に昇りかけている。くそ暑い一日になりそうだった。 きのうの夜に予約を入れておいた駅裏のビジネスホテルに腰を据えた。 シャワーを浴び、冷蔵庫のなかからコーラを引っ張り出す。喉に流し込むとひと息ついた。 部屋は北向きだった。窓から駅の構内が見渡せる。椅子を窓辺に持ってきて、たばこに火をつけた。上りの電車が入線してくる。それがふたたび記憶のドアを叩いた。 父とふたりきりで電車に乗ったことなどなかった。あの日が最初で最後のことだった。品川で別れ、岡部は代々木の予備校にむかった。父はそのまま上野から北海道の苫小牧に旅立った。二歳半のとき、岡部は両親とともにこの町に越してきた。以来父はこの町の奥で小さな化学工場をやっていた。だが岡部が高校を卒業する前年の暮れ、父の工場は倒産した。そのために父は、むかしの知り合いが経営しているという青果市場に働きに出かけたのだ。父が見も知らぬ女と心中したのは、それから半年後のことだった。 一階のレストランで味気ない昼食をとったあと、タクシーを呼んでもらった。 「ゴム工場のわきの道から奥のほうに走ってくれ」 地名は覚えていなかった。しかしあの界隈の風景だけは今でもはっきりと頭のなかに刻み込まれている。 「すると……」 運転手が地名を口にした。聞いたことのない洒落た地名だった。新興住宅地が、耳に心地よい地名をつけるのは昨今の流行だ。 岡部はあいまいにうなずいた。 車の背もたれに頭を乗せ、過ぎゆく車窓の外の町並みに見るともない視線を泳がせる。 今はどうか知らないが、かつてのゴム工場はこの町一番の大きさで、多数の人間が働いていた。そのわきを抜けると、太い一本道が北にむかって伸び、行き着く先は厚木である。 父がやっていた工場は、その太い一本道を一キロほど行った右手の雑木林の奥にあった。この町に越してきた当初、岡部の一家はその工場の敷地のなかにある崩れかかったような鉄筋の建物の一部屋で生活していた。終戦から十年近くが経っていたが、周辺にはまだ防空壕の残骸があり、鬱蒼と茂る周囲の雑木林のせいで、その家は昼でも薄暗く湿気が多かった。 母はこの家を極度に嫌っていた。父と何度か口喧嘩をしていたのを覚えている。一家は、岡部が小学校に入学する直前に、今度は町のほど近い所に住まいを移した。 だが岡部は新しい家よりも、前の住まいのほうが好きだった。雑木林にはヒヨドリ、キビタキ、カケスなどの野鳥の途絶えることはなかったし、散在する池や沼地にはゲンゴロウブナ、タナゴ、カダヤシなどの小魚がいて、夏ともなれば無数のトンボやアゲハチョウも飛び交う。敷地のなかに走る工場の製品を運ぶトロッコやその線路は、岡部にとってはこれ以上にない遊び場だったからだ。わずか三年半という短い時間ではあったが、これまでの自分の人生のなかで最も光り輝いた時間として胸の奥深くに大切にしまっていた。 「お客さん。どこまで走るんですか?」 運転手の声に、ふと岡部は我に返った。 |